願い


美しい者しか辿り着けない場所があるとしたら、ここだろうとユキは思った。
アヤナミに呼ばれて招かれた部屋は、広く、何もかもが特別な作りだった。まさにキングスルームといったところか、チューダーゴシックの調度品はすべて誂えたもので、ネオクラシシズムの香りに混じって、荘重であり華麗、そして静と動を兼ね備えた別世界の空間。
ユキはガブリオールを一目見て気に入り、そしてゲームテーブルに興味を持った。寄木細工で作られたそこには、勝負途中のチェス盤が乗っていた。このゲームテーブルは、他にもバックギャモンやチェッカーも備えられ、トランプの他、カードゲームも出来るようになっている。
ユキはきょろきょろと物珍しそうに見回していたが、それが不作法であることに気付き、しゅんとして俯いたまま手持ち無沙汰に何度も指を組んで落ち着かない様子を見せていた。
「あの……どうして私一人だけが呼ばれたのですか?」
アヤナミ付きのベグライターであるユキは、いつも一緒にいる双子のスズではなく、自分が呼ばれたことを不思議に思い、僭越ながら、と前置きしてから訊ねた。
「特に意味はない。二人とも呼べば仕事が手薄になる。一人で十分だ」
「分かりました」
つまり、二人呼ぶより、どちらかを呼んで伝言し、もう一人には別な仕事をしてもらったほうが効率が良いということだった。
しかし、ユキにとって、呼ばれるのは自分ではなくスズであるのが当たり前だと思っていた。スズは小さな頃から積極的で仕事も出来る。自信があって、強い相手に挑むのが好き。対してユキは、スズよりもおとなしく、どちらかと言えば臆病なところもあった。スズが居たからここまで強くなれたと言っても過言ではない。
「では、ご命令を」
「お前たちにはいずれテイト・クラインの行方を追ってもらうことになる」
「……テイト・クライン……」
ユキは名前を呟いて考え込んだ。
顔は知らずとも、写真を見せてもらえば分かるようになる。それだけで十分だ。
アヤナミは最低限の言葉しか話さない。そして部下であれば、それら全てを理解し、言われたこと以上の仕事をこなさなければならない。アントヴォルトの戦闘用奴隷だったスズとユキは、バルスブルグ帝国軍に来てからまだ日が浅く、ラグス語しか話せぬハンディキャップもあって、周りから仕事を言いつけられても身振り手振りで教えてもらうしかなかった。彼らの面倒を見てくれるのはコナツという年も双子と余り変わらない少年で、友達、とまではいかなくとも、双子もコナツに対しては好意を持っていた。だから、コナツから言いつけられる仕事はこなそうと懸命になるが、アヤナミから重要な任務は与えられることはなかった。
それが、ようやく呼ばれて直にアヤナミからの指令を受けることになる。
「お任せ下さい。必ず満足のいく結果を出してみせます」
右手を胸に当て、片膝をついてアヤナミを敬い、
「では、私はこれで失礼致します」
ユキが下がろうとするのを、アヤナミが制した。
「お前は……ユキ、と言ったか」
「は」
スズと見分けをつける方法は、髪の色の違いと、目の下のほくろである。
「これを見ろ」
「は、い?」
ユキはアヤナミから書類を受け取った。ラグス語ではなかったので、何が書かれてあるか分からない。ユキはしばらく立ったまま必死で文字を追ったが、最後まで理解できずに、二巡目に入ろうとしたとき、
「明日までにそれを覚えてもらう」
「!!」
「いいな」
「は、はい」
暗記のテストだろうか。
これは誰に聞けばよいのだろう。ブラックホークのメンバーに頼んでもいいが、まずはラグス語で訳してもらいたいと思った。だが、これをラグス語に訳せる人が果たしているのだろうか。すぐにでも戻ってスズに伝えなければならないと焦っていると、
「だが、お前はここから出てはならぬ」
アヤナミに無茶な条件を出されてしまう。
「参謀長……! しかし私には仕事が……」
アヤナミの部屋に呼ばれただけでも一大事だというのに、ここから出てはならないと言われ、意味が分からずユキはパニックになるだけだった。
「あ、あの……」
動揺するユキを見て、
「私のそばに来い」
アヤナミは少年を呼ぶ。
「は」
ユキは言われた通り、すぐそばまで寄ると足元に跪いた。
「そこに居ろ。ラクにしていて構わん」
「は」
アヤナミが座っている椅子も、敷かれているシルクの絨毯も、何もかもが別格の作りで、近くに寄ることさえ許されないほどの神々しさがある。決して足を踏み入れてはならない禁忌の領域だと思った。
ユキは恐る恐るアヤナミのそばに座り、緊張のあまりに目を閉じた。すると、アヤナミが飼っている豹がゆっくりと近づき、二頭の豹はユキを守るように腰を下ろしたのだった。
目を開けると自分よりも背丈の大きな豹に囲まれているのだ。ユキは驚いて声も出せなかった。
(喰われる……!)
死を覚悟した。次の瞬間には首を噛まれて絶命するのだと。
「何もしない。安心しろ」
アヤナミが呟いた。
「た、大変見苦しいところをお見せして申し訳ありませんっ」
どうしていいのか分からず、ユキはただ謝った。すると、
「珍しい。やはり、お前には懐いたようだな」
「は?」
アヤナミが、ほんの少しだけ、笑みを見せた。それが笑みなのかどうか分からないほど、くちびるの端をわずかに上げて、
「こいつらはお前に敵意はない。でなければここには呼ばぬ」
穏やかに呟いたのだ。
「……わ、私は……」
「そうしていろ」
「はい」
ユキは二頭の豹を見つめて、その真ん中でじっとおとなしくしていた。アヤナミはさきほどからいくつもの書類に目を通し、ユキを構うこともない。
ユキは、最初に指令を受けている。手渡された文章の暗記。だが、ラグス語ならともかくバルスブルグの言葉は分からない。どうやって発音すればいいのか迷って泣きそうになっていると、
「一度しか言わぬ。覚えてみろ」
「!?」
そう言ってアヤナミは、ゆっくりと言葉を紡いでいった。ユキはすぐに、それが手渡された文章の内容であるのを知ったが、
「ちょ、ちょっと待って下さいっ。あなたの声がよすぎて中身が頭に入りませんっ」
とんでもないことを言ってアヤナミを止めるのだった。
「……」
スズもユキも帝国軍に入って間もない。世界一の軍事力を誇るバルスブルグ帝国の真の恐ろしさを知らず、つい軍人らしからぬ発言をしたとしても、失態を犯したとして罰を受けさせるわけにはいかなかった。本来ならば厳重注意ものだが、元はアントヴォルトの王に仕えていた奴隷戦士である。彼らにとってバルスブルグは本物の故郷でも、長らく居た場所でもない。ヒュウガが連れてきた美しき兄弟は、それでもアヤナミについていくと自ら志願したのだ。
必死になっていたユキは、ふと我に返り、
「ああ!! 申し訳ありません、余計なことを……僕……あ、いえ、私は……」
両手を震わせながらかぶりを振る。アヤナミは表情を変えずに、
「よい」
低く呟く。
「ご立腹は承知しています。あの……あとで罰を……」
「そんなことはしない」
「参謀長……」
「今は集中しろ」
「は」
そして再びアヤナミの声が流れ、ユキの感情の中へと送られてゆく。意味は分からずとも、アヤナミの話し方、発音、間、音、共にすべてが流暢だと思った。
最後まで聞き終わると、ユキは黙ってアヤナミを見上げた。
「とても……とても深い言葉に聞こえます。すごく力強いけれど、怖くはない……」
「では、次にお前たちの国の言葉で話そう」
「!! はい!」
アントヴォルトはラグス語でも北の訛りがある。それに合わせてアヤナミはユキに分かるようにラグスの言葉に訳して語り始めた。
「あ……」
ユキが反応する。
「そ、それは……」
アントヴォルトの歴史、ラグスとバルスブルグの確執、帝国軍のこと、アントヴォルト制圧の理由。隠された事実と画されたシナリオ。
「そ、そんなことまで私に……」
ユキは重大な秘密を知ってしまたかのようにうろたえたが、幹部補佐としてアヤナミの下につくなら、これは当然のこと。
ユキは胸に手を当てて、目を閉じ、ただアヤナミの声に耳を傾けた。帝国軍の制服を身に着けた時点で、こうなると決まっていたのだ。
そして最後にアヤナミが呟いた言葉は。

「お前たちを、決して失うことはせぬ」

ユキはすべてを悟った。
アヤナミの心の底にあるもの。彼の願い。過去。
ユキの頬に、涙の粒がこぼれた。ぬぐうこともせずアヤナミを見上げ、そして跪き、頭をたれてから、今度は帝国の言葉で、
「ずっと、あなたの、おそばに」
死ぬまで仕えると誓ったのだった。

それからは、一人で文書を読まされた。一度聞いただけなのに、ユキは完璧にその文章を覚えてしまった。発音はたどたどしくはあるが、間違うこともない。
読み終えると、
「訂正がありましたら、お叱りを受けます」
そう申し出た。
「十分だ」
「ありがたきお言葉」

与えられた任務をこなしても、ユキは朝まで解放されることはなかった。

一方、スズは、ユキとは精神世界での会話が出来るのか、帰ってこないことを不審に思うことなく、夜はコナツを相手に剣の腕を磨いた。双子の教育を請け負ったのはヒュウガであるが、面倒を見るのはコナツである。だが、コナツにすればスズもユキも素人ではない。訓練するにはちょうどいい相手だった。剣の相手ならば言葉が通じなくても可能で、ヒュウガが止めに入るまで、彼らは外で鍛錬し続けたのだった。

このことを知ったクロユリは、ヒュウガに向かい、
「あのスズって子は血気盛んでいいね。ウチには居ないタイプ。カリスマ性もあるしー」
やはり酢昆布チョコを食べながら感心している。
「だね。逆にユキはおとなしくて、あれはアヤたんのタイプだよ。だから、昨夜は一人だけ呼ばれたんじゃない?」
「アヤナミ様は仕事を預けるならどっちでも良かったんじゃないのー」
「ユキを呼んだのは偶然だったとしても、スズって子を呼んでたらバトルになっちゃったかもね」
ヒュウガはりんご飴を舐めて例え話をしてみせた。
「強い人が好きで、強い人を見れば戦いたくなって、どのくらい強いのか見たくて、そして自分が負けるという概念はない」
「それくらいじゃなきゃ、戦えないもんね」
クロユリは正論を述べるが、小首を傾げているので、その仕草がなんとも愛らしく、
「クロユリ〜、今日も可愛いね〜」
ヒュウガが突然話を変えてしまい、
「えっ、僕を脅かそうったって無駄だよっ。ハルセが居なくても僕は強いからねっ」
「そんなの知ってる」
「じゃあ、勝負しようかっ」
「えっ、今ここで!? 何の!?」
「……早食い競争?」
「クロユリ〜」
語尾にハートマークをつけて思わずクロユリに抱きついてしまったヒュウガだった。

それぞれが抱える願い。
決して叶うことのない悲しい願いでも、手放したりはしない。赦されぬ罪を贖えず、地獄に堕ちても願い続ける。

愛する人への想いは、永遠に消えないのだから。


fins