月の光、導きの灯り


或る夜、テイトは一人でフラウの部屋に訪れた。
司教試験を数日後に控えて、勉強と鍛錬の日々が続いている。同室のハクレンは先に休もうとしていて、出掛けることを断ってから部屋を出ようとすると、フラウに憧れているハクレンは、テイトについていくと言ったが、テイトが「大事な話がある」と言うと食い下がることはしなかった。
テイトたちの部屋とフラウたちの部屋はかなり距離があり、遅い時間に約束もなしに訪ねるのはどうかと思ったが、テイトは気配を消してフラウの部屋までいくつもの階段を上り、暗い回廊をひたすら歩いたのだった。
やがてフラウの部屋の前に着き、ドアをノックすると、すぐにフラウが出てきた。
「おぅ。どうした?」
まるでここに来ることが分かっていたかのように、驚きもせずに声をかける。
テイトはフラウの顔を見るなりほっとして、
「よかった。居ないと思ってた」
照れくさそうに笑った。
「ああ? オレは毎夜抜け出してるわけじゃねぇぜ」
「うん。でも、居ない確率のほうが多いから」
テイトはドアに半分隠れたまま安堵の息を漏らす。
「ま、それはそうだ。入んな」
「うん」
何度か訪れたことのあるフラウの部屋は、相変わらずシンプルで、やはり部屋の真ん中に棺があった。
「もしかして寝るとこだった?」
「まさか。お子様じゃねぇし。読書の時間」
フラウにとっての読書とは、成人向けの本を指す。しかし、からかうつもりで言ったのだが、
「……」
テイトの顔がゆっくりと怒りの表情に変わる。人が真面目に訊いているのにその答えはないだろうと思った。こめかみに青筋が立っている。するとフラウは、
「なんてな、一応これでもやんなきゃなんねぇ仕事はいっぱいあるんだよ」
ベッドの上に無造作に放り投げられていた何枚もの紙を指差して肩を竦めた。
「あ、仕事!? もしかしてオレ、邪魔しちゃった?」
急にテイトがかしこまる。仕事と言われれば早めに退散するしかないと思ったからだ。
司教という職業ではあるが、まとめなければならない報告書や提出しなければならない書類がたくさんある。
「構わないぜ。どの書類も期限はまだあるしな。あ、一つだけ明日ってのがあったけど、サインするだけだし」
「……そっか」
「ところで……」
「あ、うん」
「ただ遊びに来たわけじゃねぇんだろ?」
「そ、そうだけど」
「なんだ? 抱かれに来たか?」
「!! んなワケねぇだろうがっ」
ストレートな物言いがフラウの良いところだと思っても、こうもあからさまに言われると全身で否定したくなる。
もっとも、テイトがここに来たのは誰かに聞いてほしかったからだ。正しくは心の闇を知ってほしかったから。不安、困惑、悲しみ、悔恨、己の末技、今、起こっているすべてのことを、分かり合えなくてもいい、聞いて、見てほしかった。
「落ち着けよ。んなことしねぇから」
「……」
「そういえば、ちゃんとメロンソーダ用意しといたぜ」
「は?」
「好物だろ?」
「……教えたっけ?」
「お前のことなら何でも知っている」
フラウは踏ん反り返って威張っていたが、正確には、以前、ミカエルの瞳が覚醒したときにメロンソーダが主の好物だと聞いた。
だが、そのミカエルの瞳は、もうテイトの元にはない。バルスブルグ帝国軍のアヤナミの策略によって奪われてしまった。だから尚更テイトは奈落の底に突き落とされたような絶望感を味わっている。
「お前、オレの夢とか覗き見してんの?」
「夢? してねぇよ?」
「だって、オレ、実は昨日メロンソーダ飲んだ夢見たからさ」
「へぇ。そいつは偶然。ほれ、まず一口飲め」
目の前に差し出されたジュースをテイトは素直に受け取って一気に飲み干してしまった。
「おかわり」
「おい。炭酸一気飲みたぁ、どういうことだ」
「これくらい飲めるだろ。ん? もしかしてフラウ、炭酸飲めない!?」
「……」
「え、苦手?」
「ビールなら」
「あ、そっか。甘いもの苦手だっけ。じゃあ、オレンジジュースとかも駄目なのか?」
「飲めねぇことはねぇが、好んで飲むことはない」
「そっか」
自分とは好みが違う。しかも正反対である。それを思うたびにテイトはまたしてもフラウが大人で、これだけ一緒に居ても届かない相手なのだとを思うしかなかった。
「コーヒーもブラックだもんな」
「当たり前だろ。砂糖なんか入れられるか。ミルクは邪道だぜ」
「乳製品をバカにすんな」
テイトがムキになって言い返すと、
「お前は摂ったほうがいいからな。効果があるのかどうかは知らんが」
フラウは涼しい顔でウォッカを飲み始めるのだった。
「なんだと! って、お前、それ酒?」
「そうだが」
「美味しいのか?」
「旨いぜ〜。ちょっとだけラブに調合してもらってはあるがアルコール度40だからたいしたことねぇ」
「40!!」
「ちなみにこっちにあるのは96。お前が飲んだら死ぬ」
「うえぇぇぇ」
「このチェリーウォッカならイケるんじゃねぇか。甘いぜ?」
熟したチェリーから出来ているため、カクテル用としても使われる品だ。テイトは渡された瓶をまじまじと見つめて怪訝な顔をする。
「だから度数40って書いてるじゃん」
「当たり前だ」
「未成年に酒を勧めるな!」
「そうだった。小学生にはまだ無理か」
「キサマー!!」
ハクレンに言われたときもかなり腹が立ったが、フラウに言われると更に怒り心頭に発する。いつもいつも子供扱いされて、絶対に身長も力もフラウを追い越してみせると誓いを新たにするテイトだった。
「やっぱりお前はシケたツラしてるより怒った顔のほうがいいな」
「え?」
「人生の終わりっつう暗い顔して来るからよ」
「あ、うん……」
さっき部屋のドアを叩いたときは、きっと今にも泣きそうな表情をしていた。背負うものが大きすぎて、一人になると考え込んでしまう癖がついた。ハクレンに相談してもいいのだが言えないことが多すぎる。たぶん、フラウにしか話せない。だから、こうしてフラウの部屋を何度も訪ねてしまうし、フラウも時間があればしょっちゅうテイトの様子を見に来る。
「っていうか、ちょっと待て。笑った顔じゃなくて怒った顔がいいって何。褒めてんの?」
テイトが今更気づいてフラウに文句を言うが、
「笑った顔がいいなんて常套句だろ。怒った顔がいいヤツなんて滅多にいねぇよ?」
「……」
喜んでいいのか分からない。
納得できずに難しい顔をして黙り込んでいると、
「かわいいっつってんだよ」
フラウがまたしてもテイトの神経を逆撫でするようなことを言った。
「かわいいって言うなー!」
「そういうふうに騒ぐところも子猫ちゃんって感じで」
フラウは初めてテイトに会ったときのことを思い出す。人見知りで人に懐かず、毛を逆立てた猫のように気が強かった。今でも気が強いことには変わりないと思うが、付き合ってみると、
「泣き虫だしなぁ?」
よく泣く。
「は!? 泣かねぇよっ!!」
「じゃあ、泣かせてやる」
「何言ってる、このクソ司教!」
「生意気な口きけねぇようにしてやるってんだよ、クソガキ!」
「んだとコラー!!」
テイトが怒るとミカゲも一緒に怒り、飛んでフラウにかじりつくため、
「おいおい、痛ぇだろ、コラ!」
ミカゲを引き剥がそうと必死になっている。
「とにかく! オレは泣き虫なんかじゃねぇからな!」
これだけははっきりさせたいとばかりに言い返すテイトだが、
「はいはい、分かってますよ。言論の自由ね。泣き虫じゃないと言うだけタダだし?」
と言われてしまう。
「ちきしょー!」
力で勝てないのなら言葉で……と思うのもプライドが許さなかったが、今は言葉でも勝てない。
「とにかく元気出せ。お前は大丈夫だから」
「……」
勝てないのは当たり前だろう。こうして深夜に部屋を訪れて頼ってしまうこと自体が勝ち負けではなくて、信用出来る相手に巡り会えた証。
喧嘩をするのは憎いからではなく、嫌いだからでもない。気分転換でこんなふうに言い合えることが幸せだとは知らなかった。
「まずは司教試験に受かることだけを考えな」
「分かってる」
「ほら、寝不足は身長に……いや、躯によくねぇぞ。部屋まで送ってくから」
「……」
「どうした?」
「あ、いや、なんでも……」
テイトがもじもじしている。
「まさか本気で抱かれに来たとか?」
「ちげーよ! ミカゲ連れてきてんだぜ! んなこと出来るか!」
「じゃあ、なんだ」
「……」
「これか?」
フラウはそう言ってテイトの頭を撫でた。
「う、うん……これ、おまじない、だから」
頭を撫でてもらうのが好きだ。フラウの大きな手でそれをされると、不安が消えるほどの効き目がある。
小さい子供のようにこうしたスキンシップを望み、あっさり肯定してしまうテイトに拍子抜けするも、実はテイトが甘えたがっているのだと気付き、頬に手を添え、
「お前は偉いよ。上辺だけじゃねぇ、心も綺麗だ。もっと自信を持って生きろ。そして強くなれ」
優しく囁いた。
テイトは、きゅ、とくちびるを噛み締めて目を閉じる。一瞬、泣かれるとフラウは焦ったが、
「もいっかい……おまじない」
顔を赤くして催促するのだった。
「お前、かわいいな」
「ぅっせぇよ」
声は小さかったがしっかりと言い返し、ひとしきり撫でられて満足すると、そのまま背を向けて走り出してしまった。勢いよくドアを開けて廊下を走るのを、
「おい! 送ってくっつうの!」
「要らねぇよ!」
フラウが呼び止めるが、テイトはそのまま走り続けた。
女じゃあるまいし、と思ったが、これ以上離れがたくなるのは辛かった。眠くなったふりをしてフラウのベッドを占領することも出来た。だが、彼には仕事が残っていて我が儘を言うわけにもいかず、
「ミカゲが居るから寂しくないし。な、ミカゲ! いい子にしててくれてありがとな」
「ピャッ」
テイトの肩に乗ったまま、テイトの頬を舐める。
一方フラウは、
「ったく、しょーがねぇな。唐突に来て唐突に帰るのかよ」
呆れたように溜め息をついた。
「ま、送り狼になったらシャレになんねーからな。あいつらの部屋じゃヤバイから、その辺の庭で襲っちゃったりして」
司教に似つかわしくない台詞を口にして、フラウはドアを閉めた。窓辺に寄ると、ほどなくして、テイトが自分の部屋がある塔に向かっていくのが小さく見えた。

空に浮かぶ月がすべてを見ているかのように美しく輝く。そして言葉もなく人を癒し、朝を導くのだ。

「必ず守ってやるよ」

掛け替えのない出逢いと、その存在にフラウは何度も誓うのだった。


fins