desolate


喩えようのない気まずい空間といえば、今、まさにこの時である。
バルスブルグ帝国軍で唯一恐れられている人物、アヤナミ参謀長官に睨まれ、凍りつくような空気の中、次に聞かされる言葉、いや、与えられる言葉はもしや「死」かもしれぬというのに、睨まれた当人ことヒュウガはニコニコしながら飴を舐めている。
「いいじゃん、これくらい〜! オレ、仕事頑張ってるんだしー!」
子供のように手足をバタつかせているが、この男は長身で黒いサングラスをかけ、一見して無頼漢のような生りをしている。
「ヒュウガ」
アヤナミが唸るような低音で名前を呼ぶ。
「なに、アヤたん」
どこまでもタメ口で、笑顔を絶やすことがない。アヤナミを恐れずにいられるただ一人の希少価値人物だった。
「あとで話がある。キサマは命の心配をしておくといい」
「えー、やだよぉ、アヤたんすぐ痛くするんだもん。出来れば鞭じゃなくてクリップとかにしない? たまには違……っ」
言い終わる前にアヤナミの鞭が鋭い音を立てて飛んだ。脅すために放たれたそれは、見事な曲線を描き、そして矢のように床を打って鞭の先が手元に戻る。
「必要とあらば用意してやろう。魔女の針でも看守の槍でもいいが?」
冷然とした表情で拷問具の名前を並べる。
「……アヤたん、怖いよ、本気で」
ヒュウガがお手上げのポーズで笑うと、
「少しは本気にするがいい」
「え、オレはいつでも本気だけど」
「そうか。ならばあの二人と会話が出来るようにラグス語を覚えろ」
「えー! むりぃぃ」
「貴様」
「はーい、はーい! ……コナツに頼もう」
最後の言葉はフェードアウトして参謀長官の耳に届いたかどうかは分からないが、彼の言う二人とは、アントヴォルトで拾った戦闘用奴隷のスズとユキの双子である。アヤナミのベグライターとして教育中だが、この二人はラグス語を話すため、アヤナミとしか会話が出来ない。コナツが懸命にラグス語を覚えて少しでもコミュニケーションがとれるようにと頑張っているが、ヒュウガは勉強する気配もない。あの二人がこちらの言葉を覚えるべきだと思うこともあるが、それは口にしないで胸の中にしまっている。
アヤナミは会議のためにカツラギ大佐と部屋を出て行った。
「アヤたんも行っちゃったし、あーあ、そろそろ人が斬りたくなっちゃったなぁ」
「少佐。まだ椅子にも座っていませんよ。せめて最低30分は仕事して下さい」
彼の部下であるコナツに言われて渋々自分のデスクでペンを持つ。
「絵、描かないで下さいね」
「うぐ」
ヒュウガは外見に合わず、絵を描くのが得意だ。人物画、風景画、植物画、頼めば宗教画や戦争画にまで達するだろう、刀を持てば人を斬りたくなるが、ペンを持つと絵が描きたくなるのである。だから、しょっちゅう書類に落書きしてはコナツに怒られ、アヤナミに鞭で打たれる羽目になる。
たった今、アヤナミが氷の帝国を作り上げそうな冷気を放ってヒュウガを睨んでいたのは、会議用の書類におかしな落書きをしたからだった。イラストならば分かりやすかったのに、彼は「実施計画書(案)」という文字の「案」を「笑」に変え、「実施計画書(笑)」というイタズラをやらかした。会議はまもなくで、部屋を出る前にアヤナミがそれに気づいたから良かったものの、このまま会議に出ていれば、恥をかいたのはアヤナミで、ヒュウガはどんな体罰を受けさせられたか分からない。それでなくても既に呼び出しがかかっている。
「夜……まで待つか」
ヒュウガは楽しそうに独り言を呟いた。
アヤナミに呼び出されるのは決まって夜。そして勿論、そこで昼間の悪事を問われ、罰として鞭打たれて悲鳴を上げる……のは、ヒュウガではなかった。もちろん、アヤナミでもない。

深夜11時を回る時間。
ヒュウガは静かにアヤナミの部屋にもぐりこむと、
「お酒はー? ロマネコンティがいい!」
日中のいたずらなど顧みることもなく平然とリクエストした。
「無い」
「えっ、もう飲んだの? アヤたんいっぱい持ってたじゃん」
「お前に飲ませる分はないと言ってるんだ」
「意地悪だなー。じゃあ、ラトゥールでいいや」
「……」
「って、あるじゃん、ちゃんと用意しててくれたんだね」
大理石のテーブルにはワイングラスが二つ並んでいる。クーラーに置かれてあるのはヒュウガご要望のロマネコンティだった。アヤナミは既にグラスに手をつけていたが、空いているもう一つのグラスはヒュウガの分だ。
ヒュウガは豪奢な作りのソファに腰をかけると、アヤナミは空いているグラスにワインをそそいだ。
「アヤたんから注いでもらえるなんてラッキー。優しいなー」
そう言いながらヒュウガはステムではなくボウルを持ち、2、3度グラスを回した。
「いい香りだね〜」
ヒュウガはご機嫌だった。
「で? 会議はどうだった?」
喋るのは専らヒュウガのほうだが、内容を切り替えるとアヤナミも口を開く。
「ああ、やはりうまくいかないようだ。ミカエルの瞳は持ち主を選んでいる。やはりなんとしてもあの天使の枢を奪わなければならぬ」
ミカエルの瞳を奪還したのはいいが、テイトの躯から離れたそれはただの石にしか過ぎず、誰一人扱うことは出来ない。
「ふぅん。そりゃそうだろうね」
「どんな手を使ってでもあれを私のものにする」
「えー。妬けちゃうなぁ。そんなにテイト・クラインに夢中になってさぁ」
「……」
「確かに可愛いけどね? でもうちのクロユリとかコナツのほうが可愛いかな。あの双子も中々だけど?」
そういう問題ではないのだが、ヒュウガはどうしてもこういう言い方しか出来ない。
「で。やっぱりあの作戦?」
「そのほうがいいだろう。おそらく、預魂と繋魂が動く。そして遺魂も」
「そうだねぇ。じゃあ、オレは大司教サマに会っておこうかな。いや、会わなくても誰かを利用しよっか。教会に行くのはいいけど、司教服、オレ似合わないよ。アヤたんもどうせなら眼鏡かけるとかして変装したら?」
ヒュウガの冗談を無表情で無視すると、
「少しの間、面倒なことになるが」
アヤナミは暫く難しい顔をしていた。
「なんだ、そんなこと。分かってるよ、でも大丈夫」
「……」
「アヤたん、オレらの心配してくれるのは有り難いけど、オレはアヤたんが心配だよ」
「私が今更どうなると言うのだ」
「あはは、そうだね」
「手はずは整えてあるから、指示があるまで待て」
「この件、コナツにも伝えとく」
「そうしてくれ。……それよりヒュウガ」
「なに、アヤたん」
「ラグス語くらい、コナツより先に覚えろ」
「それはどういう意味で?」
「お前が一番分かっているだろう。コナツの仕事量を増やすな」
やはり部下思いのアヤナミである。
「……ほんと、普段はアーヤたんって意地悪だけど、こういうところがあるからねー」
「何が言いたい」
アヤナミが不敵な笑みを見せると、ヒュウガがサングラスを外す。
「憎いってこと」
「そうか。それは良かった」
「やっぱり意地悪だなぁ」
「……」
「意地悪なんじゃないな」
「なんだ。言いたいことがあるなら言え」
「素直じゃないんだよね」
「貴様、大概にしないと痛い目を見るぞ」
「へぇ? いいけど? もう慣れてるし」
ヒュウガがゆっくりと立ち上がる。アヤナミのそばで膝を下ろし、至近距離で呟く。
「近くで見ても、やっぱりアヤたんって美人さん」
「……」
「オレに言われるの、好きでしょ?」
アヤナミが体罰を好むなら、ヒュウガは言葉攻めをする。
「今日は結構いたずらしたけど、あんまり怒ってくれなかったね」
昼間、あれほど恐ろしい目に遭ったというのにヒュウガは全く懲りていないようだった。
「怒ってくれなかったら、オレがアヤたんに仕返しできないじゃん」
「……」
「テイト・クラインが現れてから、冷たいよ」
「それはお前の思い過ごしだ」
「そうかなぁ」
「何のためにここに呼んだのか忘れたか」
「だよねー」
ヒュウガの台詞が見えるとしたら、語尾にハートマークがついているに違いない。いつもそんな口調だが、実はその言葉の内容と行動が伴わないときがある。
今も、アヤナミをソファに押し付けるようにして、
「アヤたん、命令は?」
妖しげに迫る。
「そうだな……」
アヤナミは少しの沈黙のあと、薄く笑い、
「私を存分に愛せ」
まるで操るような囁きをヒュウガに返したのだった。
もちろん、アヤナミのそれは滅多にない戯言である。ヒュウガを試しているにすぎない。
「……難しいな、それ」
「出来るだろう」
「ま、ね」

夜はただ更けてゆく。時を彷徨う魅惑の熱が、ゆっくりと重なる二人を包みこみ、徒に耽りながら、滾る欲望が楼閣の階を登っていく。

「アヤたんのこと、素直じゃないって言ったけど、ほんとは何て言おうとしたか分かる?」
「さぁな」
「今言ってもいいんだけどぉ。怒るかなぁと思って」
「……ヒュウガ。もう何も言うな」
「そうだね、あとで教えてあげるよ。当たってるからさ」

部屋の明かりが消えると、衣擦れの音がやけに響く静けさに紛れて、心の中に在る闇までもが艶冶に染まってゆくのだった。

それ以降の会話はなかった。もちろん、ヒュウガがアヤナミに何を言おうとしたのかも明かされずに夜が明けた。

大人の関係には、そんなこともあるだろう。


fins