「アヤたん、今日は何処行ってたのー!」
ヒュウガがノックもなしにアヤナミの部屋に入り込んできた。もう夜も遅い時間になっている。それでも構わずに、 「あ、オレね、今日の夜ご飯は天丼にしたんだ。イカがデカくてさ!」 何の前置きも無しに自分のことを喋り始め、まるで報告の義務があるように感情を露わにしながらアヤナミの机の端に腰掛ける。 「海老もデカかったんだけどね、今日は特別っていうより、食堂のおばちゃんがオレとコナツだけにサービスしてくれたみたい!」 ヒュウガは夕食時に天丼を食べ、同じものを食べていたコナツから海老を奪うと満足気になり、怒り出したコナツに「代わりにご飯をやるから」と言ってみたものの、当然怒りの治まらないコナツから釘バットで殴られそうになっていた。 「でさぁ、あとでコナツにデザート奢ったから高くついちゃったけど、コナツは怒ると怖いねー。クロたんも相当怖いけどさ、最近のコナツはだんだんアヤたんに似てきたかも。あ、クロたんが今日はアヤたんが居ないからって寂しがってたよー。それよりオレのほうが寂しくて死にそうだったけど」 「……」 当然アヤナミは無言で無視である。ヒュウガを見ようともせず、相変わらず無表情のまま書類を睨んでいる。 「ああ、アヤたんってば今日も真面目ー。こんなの後でいいじゃん」 ヒュウガが書類を取り上げようと手を出した瞬間、アヤナミの鞭が飛び出した。 「おっとぉ」 しなる鞭の先を左手で受け止め、ついでにアヤナミの手から書類を取り上げてしまう。 「ヒュウガ」 アヤナミがようやく口を開いた。 「なにかな?」 「私は仕事中だ」 「分かってるよ」 「邪魔をするな」 「えー、手伝いに来たんじゃん」 「……」 とてもそうには見えないのだが。 「でもその前に少し会話をして交友を深めようと思って。会話は大事だよ」 「……」 「あ、そうそう、お酒、お酒。まずはこれだね」 そう言いながら立ち上がってボードへ行き、少し考え込んだあと適当にワインを取り出すと、勝手に開けて一人で飲んでしまっていた。普通なら梃子摺るはずのスクリューキャップの扱いもヒュウガには慣れたもので、もしかすればソムリエとしてもやっていけるのではないかと思えるほど華麗なテイスティングもこなす。ワインラベルの格付け表の見方も知っているし、アヤナミ以上にワインが好きなのかというほどだが、 「でもオレ、アヤたんのほうが好きだしー」 ひとしきり味わって満足したあと、アヤナミのそばに寄り、 「で、相談なんだけど」 次々と話題を変えていく。 自分だけワインを飲んで仕事の話をするとは、わざとしているとしか思えないが、アヤナミはまだそれを欲していない。つまり、ヒュウガがワインを用意しても、一切口をつけることはないということだ。ヒュウガはアヤナミが必要とするものをすぐに見抜く。何を思い、何を考えているのかが分かるのだ。だから、ワインを用意することはなかった。 「明日の話」 アヤナミが無言でいようともさくさくと話を進めるヒュウガは、アヤナミの返事や返答を期待しているわけではなかった。だが、 「明日はお前に任せる。好きなようにすればいい」 「あ、そう? じゃあ、数もオレの判断でいいんだね? あと、報告書どうしよう」 「これは極秘任務だ。私とお前が分かっていればよいこと」 「了解」 暗号のように交わされていく会話は、ほとんどが仕事の内容だが、 「ねー、そろそろ移動しない? そこに」 寝室を指差し、アヤナミが肌身離さず被っている軍帽を取り上げる。 「余計なことをするな」 アヤナミの鞭がヒュウガの首を捕らえた。 「死んじゃうって」 避けることも出来たのに、わざと巻かれてみたのは、 「オレ、首がめちゃくちゃ弱いの知ってるくせにー」 こうして喜んでいたいからだった。 アヤナミのほうから先にベッドへ移動すると、早速ベッドボードに置かれていた書類を上に撒き散らすようにして広げた。 「これを見ろ」 「なに? ん? 決算報告書?」 「そうだ」 書類を手にとってまじまじと見ていたヒュウガは溜め息をつきながら、 「あー、まだバカなやつらが無駄遣いを……名目変えたってバレバレだっつの」 何処に問題点があるかを一目で見抜き、頭を掻いた。 「どうする、これ」 「提議せねばならんだろう」 「分かった、やっとくよ」 やっておく、とは、相当する連中に前以て揺さぶりを掛けておくということだった。こんな脅しようのうなやくざな仕事でも必要不可欠で、アヤナミの気分次第では「消せ」と指令が出ることもある。消せ、とは書類の破棄ではなく、命を狙えということだ。だが、相手は上層部の面々であり、簡単に斬るわけにはいかなかった。 「しかし、数字の羅列を見ると頭が痛くなるねぇ」 これは、決して計算が苦手というのではなく、尸位素餐な上層部がやっていることに対しての不満である。 「いい人も居るんだけど、駄目なヤツは何処までいっても駄目なんだなー。理事長も元帥もオバカな上層部をいつまで泳がせるのか」 「理事長も元帥もすべてお見通しだ。今は時間かせぎといったところだろう」 「……その時間かせぎだけど」 「……」 「教会のことで」 ヒュウガは何か情報を得たのか、声を落としてアヤナミに切り出した。 「待て。その話はもう少しあとだ」 アヤナミが鞭を投げ出し、自らの軍服の襟に手を掛ける。それが何の合図かはヒュウガには分かっていた。 「はいはい、開拓のほうが先ね」 この開拓という単語が意味するものは……。 「いいよ、アヤたん、オレが脱がせてあげるから、はい、バンザイしてー」 「……」 「冗談だって」 ここからの会話は一切なかった。あのヒュウガが何も喋らなくなるのだ。これはヒュウガとアヤナミが交わる時に必ず起こる「現象」のようなものだった。まずアヤナミのほうが言葉を発しなくなるが、元々無口なので変わらないように見える。ただ、時折漏れる吐息だけが、ヒュウガを喜ばせる快楽の素となる。 ここで言う開拓とは、性的快楽への誘いのことである。ただキスをして愛撫、そして結合という基本的、そして単純な流れではなく、ヒュウガは相手の”刺激に弱い部分”を見つけるのが得意だ。まるで静脈認証でもするかのように皮静脈の位置を把握する。その敏感なところを徹底して攻めるか、やんわりと扱うかは個人によって違うが、何処をどうすれば相手を愛撫だけで絶頂へと導けるか、魔術師のようなテクニックを持っているのがヒュウガだった。 だから今夜もこうして、アヤナミはヒュウガの下で、青白い肢体を隠すことなく晒し、いいようにされている。 だが、アヤナミも決して好きなようにされているばかりではない。ヒュウガを悦ばせる術を知っているのだ。互いが互いに与え、共用する。アヤナミも大人の男なのである。 時が止まったかのような静かなところで、ゆっくりと始まった儀式は言葉もなく静かに終わる。素っ気ないのではない。後を引くほどの興奮は、麻薬のように爪の先までをも刺激した。 本当なら後戯も無しに、すぐにでも仕事の話に切り替えたいが、快感が脳を支配し、躯から抜けない。 「っていうか、このままがいいんでしょ」 わざわざ軍服に着替えて机に戻らなくても、今からする話は大きな声では言えない内容だった。だから、小声のまま耳元で交わす。まるで睦言を語り合うように、ヒュウガは声質を変えて冗談を混ぜながら秘密の会話をする。そしてこの時だけは、アヤナミがよく答えてくれるのだった。そうしなければ話が進まないし、必要だからそうしているわけで、サービスではないにしろ、 「お前だけにはすべて話そう」 と言って何もかも打ち明けてくれる。 これが熱く躯を重ねたあとの後戯、並びにピロートークである。ヒュウガも、こんなふうにベッドダブルなアヤナミが好きだった。 「教会を敵に回すと厄介なんだけどねぇ。そう言ってたのはアヤたんでしょ?」 寝物語に煙草でも吸いながら語り合うほうが絵になるのに、ヒュウガは裸のままりんご飴を食べていた。 「あそこには欲しいものが沢山あるからな」 「誰のことを言ってるのか分かるけど」 「今はまだ一つだけでいい」 「ってことは、やっぱり預言魂か。アヤたん、預言魂好きだよね。ラブラブ?」 「能力としては欲しいところだろう」 「オレは別に……預言しなくても、オレには分かるし」 「ほう」 「っていうか、アヤたんが居ればそれでいいんだ」 分かりきったことである。ヒュウガにはアヤナミが居れば、それがすべてであり、居なければ何も意味はない。 「オレは斬魂とミカエルの子を一緒にしておくほうが問題だと思う」 「……」 ヒュウガは時折テイトのことをミカエルの子と呼んでみたりする。たまに「カワイコちゃん」だったり「グリーンアイ」だったり、「おチビちゃん」だったりと好き勝手呼び放題だ。それだけ興味があるからだが、 「斬魂があんな可愛い子に手を出さないはずないし」 そう言って鼻息を荒くしているあたり、テイトの身の上を案じ……否、相当嫉妬をしているようだった。 ヒュウガにとっても、テイトは気になるカワイコちゃんなのである。 「貴様、遊びではないのだぞ」 アヤナミが叱責すると、 「当たり前じゃん、オレはいつだって真剣だよ。あの時だってどんだけミカゲって子に根堀葉堀聞いたと思ってるの」 「あれはお前の私情が混じっていたがな」 「あは、バレてた?」 ヒュウガがミカゲへの拷問を手伝ったのは事実だが、どうせならテイト=クラインを拷問したかったと言ってアヤナミに白い目で見られていた。 「お前は少しあの少年の肩を持つ傾向があった」 あの少年とはミカゲのことである。 「違うよ、オレはあの子の気持ちが分かるだけ」 「……」 「それだけさ」 そうして、もう少しだけ秘められた蜜時を過ごし、ようやくヒュウガはアヤナミを解放した。 ベッドの中で行われることは、打ち合わせや報告などの仕事の話から始まって、相談や愚痴、そして語り合い、分かり合うことと求めるがまま抱き合うこと、たまに睦まじげに戯れ、触れることなど多岐に渡る。だが、こんな時が一番効果を得ていて、仕事の処理も躯の相性を確かめるにしても一度に出来て一挙両得なのである。 「そんじゃ、オレは帰るよ」 ズボンはしっかりと穿いたが、上半身は裸の上に軍服の上着を羽織る。 「その格好でここから出て行くのか」 「え、駄目?」 「……今夜だけだ」 「わーい。って、アヤたんまた軍服に着替えるの」 「そうだ」 「ひぃ。パジャマは?」 「これから仕事だ」 「仕事って……」 「片付けなければならぬものが山ほど残っている」 「だよね。でも、今から行くんでしょ?」 「……」 「どうせなら素っ裸で行ってみたら?」 「お前でもあるまい」 「アヤたんの場合は意外性を出したほうがいいと思うんだ」 「何が狙いだ」 「そのほうが仲良くしてくれるかもよ、向こうも」 「……結構だ」 「そんなこと言って嫌われたくないくせにー」 「下らん。もうお前は帰ったほうがいい」 アヤナミは既に軍服に着替え終わっていた。軍帽はヒュウガが被せてやろうとし、後ろと前を逆にしていたずらを仕替えているのがバレてザイフォンで飛ばされそうになっていた。 「ああ、怖い。もう帰る。なんかコナツに探されてそうだし。最近クロたんも甘えてくるようになったんだ。ハルセが居ないから寂しいんだね」 「クロユリには私からも言っておく」 「あららー。ますますアヤたんに惚れちゃうじゃん。めっろめろに」 「大事な部下だ」 「えー、同じくらいオレにも優しくしてくれたっていいじゃん。オレ、そのうち上司が優しくなる風水とか上司が優しくなるパワースポットとか探してハマっちゃうかもしれないよー」 「好きにしろ」 「ひどーい」 アヤナミはヒュウガに一番厳しいが、それ以上に信頼し、固い絆を結んでいるのだ。分かっていてヒュウガはアヤナミが冷たいと嘆くが、そうでも言っておかないと顔がにやけてしまいそうだった。 「それにしても、さっきのアヤたん、いつもより感度良かったなぁ。近頃敏感だよねー」 ということを所構わず自慢してしまいたくなる。 「貴様」 「もう言わないよ、怒りんぼだなぁ。そんなだから逃げられちゃうんだよ」 「……」 「さぁ、時間だね。行ってらっしゃい。あの子に宜しくね。翡翠の瞳も魅力的だけど、緋色の瞳の君はもっと素敵だって伝えてて。あ、もちろんオレからだってちゃんと言ってね」 「知らないな。お前が言ったらどうだ」 「じゃあ、今度オレも連れてってよ」 「考えておこう」 「おやすみ、アヤたん」 「……」 アヤナミからの返事はなかった。わずかに口元が綻んだのを、ヒュウガは見逃さない。 「アヤたんは可愛いねぇ」 そこからは返事も表情も確かめようとはせず、ヒュウガはアヤナミの部屋を出て行った。残されたアヤナミは一人静かに或る場所へと向かう。 瞑想部屋だった。 椅子以外は何もない杳冥とした部屋である。 大きな雹が主を歓迎し、甘えるように擦り寄ってくる。アヤナミは頭を撫で、わずかに首をくすぐると、 「必ず手に入れてみせる」 それだけ呟いて椅子に腰を下ろした。 そこで何が起きるのかは、誰にも知らされず、そして知られてはいけないこと。 アヤナミはゆっくりと目を閉じた。その瞼の裏に浮かぶものこそが、アヤナミの千古不易の願いである。 「さぁ、テイト=クライン。今夜は、もう容赦はしない」 アヤナミの冷たい科白が、時空を射抜くように鋭く響いた。 |
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