仕事中につき要注意


静まり返ったバルスブルグ帝国軍陸軍の参謀室に二人の男性の姿があった。どちらも書類を見つめていて会話をすることはなく、張り詰めた空気だけが二人の間に流れていた。
部屋の中はわずかな灯りのみで、外は暗く、しかし夜なのかどうか、時刻すらも分からない。聞こえるのは紙をめくる鋭い音だけ。
暫く経ち、一通り書類に目を通し終わると、小脇に抱えていたファイルと手帳を取り出し、ようやく片方が口を開く。
「では、本日の予定を申し上げます」
声は渋めである。
「午前中に一つだけ会議が入っておりますが、アヤナミ様と私が出席します。昼食後には事務処理をお願いして、夜からは元帥との会合があります。あとは理事長からの伝言を預かっておりますので、それを確認して頂いたら明日までにご返事を文書にてお願いしたいとのことです。今日の予定は以上です、急な変更がありましたらその都度お知らせします」
言い終えて手帳をしまい、姿勢を正す。
説明をしたのは参謀部の大佐であるカツラギだった。相手は勿論アヤナミである。
「分かった。では、すぐに参謀部に向かう」
「承知致しました」
少しずつ夜が明け、わずかな明るさを取り戻した空は新しい風を運びながら人々を眠りから覚ましてゆく。だが、アヤナミ参謀長官は午前4時には起きて既に仕事をしているのだから彼に付き合う部下は大変である。もっとも、アヤナミにベグライターは居ない。制圧したアントヴォルトからヒュウガが連れてきた双子の元戦闘用奴隷をベグライターとして就けているが、それは名ばかりの補佐で、割りと自由にさせているし難しい任務は与えていない。長年ベグライターをつけないアヤナミに対し、カツラギは参謀部に来たばかりの頃からアヤナミの片腕としてそばに仕えていた。実践はアヤナミの部下であるヒュウガ少佐が執り行っていたが、ヒュウガは事務などの細かい作業は性に合わず、難しいアヤナミの補佐には向いていない。だからといって一人にしておけないとカツラギが悟ったのは、帝国軍随一多忙と言われ、激務を余儀なくされている姿を見てからで、アヤナミには優秀な部下が必要だと思ったが、極度の人嫌いのために簡単には他人を寄せ付けないことを痛感した。士官学校に視察に行くこともあったが、それは滅多に無い行動で、アヤナミは頑なにベグライターをつけようとはしなかった。万策尽き、参謀部に配属されたのが定めとばかりにカツラギは自らアヤナミの補佐を買って出たのだった。
「ですがアヤナミ様、健康チェックがまだです」
参謀室を出ようとするアヤナミを遮り、カツラギが当たり前のように言及する。
「そんなものは必要ない」
「あります」
「下らぬ」
「耳タコですね」
「……」
真面目で几帳面な大佐は、普段からアヤナミに対して敬意を表し、決して逆らうことはしなかったが、たまに釘ならぬトドメを刺すように鋭い言葉を浴びせる。
「どんなに優秀でも有能でも、躰が資本です。まして我々は軍に所属する身。健康管理を怠っては軍人として失格です」
「……」
「別にスリーサイズを測るわけではないのですよ?」
「……」
「アヤナミ様は軍の健康診断も受けておられない。これは由々しい問題です。大体、身長178センチというのはいつのデータです? 日付けを見ると学生時代のようですが、こんなことでは困ります」
「……」
「我々軍人は常に身体データも正しいものにしておかなければなりません。いつ何処で倒れても身分が明らかになるようにしていなければならない。歯型はとってありますか? 歯医者にはどの割合で通っていらっしゃるのか」
畳み掛けるようにけたたましくカツラギが言うと、
「もういい、好きにしろ」
うんざりしたようにアヤナミが諦め、足を止めた。
「……そうですか、では遠慮なく。早速失礼致します」
カツラギはアヤナミの顎に指をかけ、クイ、と上を向かせた。こんなことが出来るのは世界中探しても誰一人として居ない。かろうじてヒュウガがその立場に居るが、通常では不可能だ。そもそもカツラギのほうが背が高く、そうでなければ出来ない行為である。アヤナミは表情を変えなかったが、それよりカツラギが難しい顔をして唸っていた。
「ふむ。顔色は昨日よりは良いようです。ですが疲れが残っていますね。少しお痩せになったのでは」
「それはない」
「……そうですか。年をとると体重は変わらなくても顔だけ痩せたように見えますからね」
こんなことが言えるのもカツラギくらいである。アヤナミが痩せたか太ったかを実際に確かめることが出来るのはヒュウガのみだが、
「一度脱がせてしまったほうがいいでしょうかねぇ」
真顔で冗談を言うカツラギは、或る意味ヒュウガよりも始末に負えないのだった。
「……」
「こういう冗談はお嫌いですか? お嫌いでしたらヒュウガ少佐にするように私を鞭で脅しても宜しいのですよ?」
これも真顔で言っている。
「脅されたいとは変わっているな」
「ええ、それでアヤナミ様のストレスが少しでも軽減されるのでしたら喜んで」
「大佐を鞭で脅すなど、冗談でもそれはない」
「そうですか。やはりヒュウガ少佐には勝てませんねぇ」
カツラギが笑っていた。
これではまるでアヤナミに告白しているようなものである。
「ええ、告白です、これでも一応アヤナミ様にアプローチしているのですが気付いて下さってますか?」
カツラギは中々喰えない男だ。喰えない男として有名なヒュウガと並ぶほどである。
「それはどうかな」
「ですが、公衆の面前で迫るようなことは致しませんのでご安心を」
「……」
「ああ、質問がまだあります。今朝は何か召し上がりましたか? まだでしたら朝食をお供させて頂きたいのですが」
「食事は結構だ。コーヒーだけでいい」
「そうですか。では、私もそうさせて頂きます」
カツラギが穏やかに呟く。
「どういう意味だ」
わずかにアヤナミの表情が動いた。
「私もアヤナミ様と同じ食生活にしてみようかと。そうすれば分かりやすい管理が出来ると思いますので」
「……」
「昨夜の会食はワインだけでしたが、まさか今夜もワインだけではありませんよね?」
「食事に関する指図は受けない。大佐が私に合わせることもないだろう」
「部下の務めです」
「では命令しよう。私の健康に関する管理は今後一切干渉するな」
「その命令には従えません」
「カツラギ」
アヤナミが鋭い目でカツラギを見た。
「アヤナミ様。さきほども申し上げましたが健康管理は仕事の一貫です。では、私がアヤナミ様の健康管理をするのは仕事ではなくて私の趣味の一貫だと思って下さい」
とんでもないことを言い出すカツラギにアヤナミの目が更に鋭くなる。
「何を言っている」
「もちろん、上司の補佐や管理をするのは部下の仕事ですが、アヤナミ様は何も気にせずに普段通りにして下さっていいのです」
アヤナミは何も言わなかった。
「趣味となると、逐一ついて回りたい気もしますが、私にとっては仕事なので自重するとして……」
今度はカツラギが自分に言い聞かせるようにしていた。
参謀部は個性派揃いとよく言われているが、カツラギが一番変わっているのではないかと今頃になって気付くアヤナミだった。
そうして暫しアヤナミはカツラギの行動を追うことになった。他人には興味がないが、基本部下には優しい。
カツラギは仕事の合間に席を外すことがよくあるが、戻ってくる時には手ぶらではなく、手作りの洋菓子や和菓子などをメンバーに配っている。よく見ていると、それは時間に正確で、きっちり10時と15時に行われ、規則正しい休憩時間を提供していることが分かる。
時折コナツがカツラギとよく話しているのを見掛けるが、仕事のアドバイスをしているだけでなく、悩み相談を兼ねているようで、二人で深刻な顔をしている。こういった相談役というのは誰にでも出来るものではないから、カツラギも周りから信頼されているのだということが分かる。
そしてクロユリにはしょっちゅう話しかけていて、ハルセの居ない寂しさを紛らわせようとしているのも見て取れた。ハルセの代わりは誰にも出来ないが、話し相手ならば出来る。そしてカツラギはハルセのようにお菓子作りが得意だ。時々一緒に作ることもあり、クロユリにとっていい遊び相手になっているのだった。
料理の他、大抵のことには器用で、何でもこなし、編み物をしていると聞いたときにはさしものアヤナミも耳を疑ったほどだ。何があっても取り乱すことのない冷静な判断と処理、デスクワークを完璧にこなし、そして実践も強い。ヒュウガとは逆に実践は好きではないようだが、実力も相当なものだ。大佐として部下として十分に有能であり、人として魅力のある人物だということは間違いなかった。
だが、アヤナミはカツラギを懐刀として認めているわけではない。アヤナミがカツラギの正体を知らぬはずもないのだ。今は化かし合いをしているようなもので、胸に一物抱えていることに気付いていた。
だが。
カツラギの本心は読めない。カツラギ自身、嘘偽りなくアヤナミに仕えたいと思っているのは事実であり、懸命に仕事をこなしている。健康管理も補佐の役目も自ら買って出たのはベグライターが居ないことが不憫だからではなく、カツラギはアヤナミに魅せられてしまったのだった。
カツラギもまた、仕えている上司の一挙一動を見逃すまい、一言一句聞き逃すまいと常に神経を張り巡らせている。危険が迫ればそれを取り除き、不遇があれば改善を施す。始めは偵察や観察の意味で機械的に行われていた義務でも、アヤナミを目で追ううちに、まるで閃いたように、何かが弾けたように心を奪われてしまった。
一つ一つの動作の身のこなしが美しく、外見もあの通りだ。冷たく非道だが、それもまた魅力。特に声質は女殺しどころか男でも参るだろうというほど色気がある。その声音は無口なせいで滅多に披露されることはないが、会議で一旦アヤナミが喋り始めると、その場が水を打ったように静かになるのは、その声に誰もが聞き惚れているせいだということを知っている。上層部でのアヤナミの評価は厳しいが、カツラギはいつも「嫉妬ですか」と一言言ってやりたい気分になっているのだった。
そうやってお互いを目で追うため、一日に何度か目が合うことがある。だからといって何があるわけでもない。アヤナミは書類と睨んでいるか、ヒュウガと話していることが多く、その他では動作に無駄がなく、隙もない。それなのに、あの青白い肌が”儚い”とさえ思えて、カツラギは自身に失笑している始末だった。
「私よりは若いが、いい年の男が儚く思えるとは。こんなことがアヤナミ様にバレたらどうなるか。でも、案外笑って下さるかもしれないな」
そう言いながら。
「機嫌がいい時は笑う」とヒュウガはよく言っているが、機嫌がいい時など年に数回しかないのではないかと思う。もしかすれば、アヤナミはヒュウガと居る時だけ笑うのかもしれないが、下手な冗談を好まないアヤナミは、おかしなことを言ってもむっとしているだけで、逆に引かれているのではないかと不安になる。
それでもカツラギは言葉で攻めることをやめなかった。
昼食の時間が近づけば無理矢理にでも何かを食べさせようと躍起になり、食堂には行かないため、カツラギが手製の料理を持ち込んだりしている。
「食事も仕事です。そもそも、こうして脅さなければ食事をしないなんて、子供みたいですよ。あなたの美貌の秘密は知っていますが、食事はきちんと摂って頂きます」
こういった台詞は二人だけの時にしか使わないが、最近ではようやくカツラギの言うことをきくようになってきているのも事実だった。
昼食を終えて午後の仕事を再開したとき、故意に揺さぶりをかけるように手の込んだ仕掛けをするのもカツラギの”小技”の一つだ。
「いい男を仕留めるのは料理から、という手がありますからね」
そう言ってやるのも忘れない。
「いい男とは私か」
アヤナミが言い返す。
「そうです。他に誰がいると」
最初の頃は、こうして会話が出来るようになるとは思っていなかった。そしてこの日は特別な展開が待っていることも全く予想していなかった。
「そうか。ならば条件がある」
「条件……ですか」
「今夜、ワインに合うものを作ってきてもらおう。私の部屋へ運んでくれ」
「!」
「どうだ?」
「腕が鳴りますねぇ。仕事を早めに切り上げたいところです」
望むところだった。こうくるとは思わず、あまりの突然の誘いに戸惑ったが、一番の切り札を相手のほうから要求してくるとは、カツラギにとっては嬉しい誤算だった。
「それは許可しない」
「いえいえ、仕事はこなします。出来次第、お持ちします」
「大佐にも付き合って貰いたい」
「は?」
「私の酒が飲めぬとでも?」
「……」
誘われているのだということに気付いたカツラギは、数秒の間、固まっていた。やっとその意味を理解したとき、万歳三唱で狂喜乱舞したい気持ちを抑え、
「私は酔うと危険ですよ?」
そう言ってみた。
「ワインで酔うほど下戸ではなかろう」
「そうですが。アヤナミ様に酔うかもしません」
こういうベタな台詞が言えるのもカツラギならでは。
「……」
「ああ、アヤナミ様を酔わせてしまえば良いのですね」
「それは……ない」
「分かりませんよ。ただ、確かめる術が一つだけあります」
「ほう」
「それは今宵のお楽しみということで」
そう言ったあとすぐに、アヤナミが薄く笑った。笑うと可愛いではないか、と言いたいのを必死で堪えた。
と、こんな会話をしているが、今は仕事中である。
「さ、書類がたまってきています。引き続き承認のための捺印をお願いします」
秘密の会話は、仕事中は要注意である。何故ならこれは内緒の大人の付き合いだから。本当の大人の男は、罪科のごとく危うい関係が生まれても、それらをワインの甘い香りのような行迹へと変えてゆく。

実のところ、ワインに合う極上のつまみやデザート、スナックを作ってもてなし、驚かせるのもいいが、カツラギの手の内は料理の腕ではなく、”本気で口説き落とす”ことだということにアヤナミはまだ気付いていない。

大人同士がどう転んでもどう足掻いても、それらはすべてワインのせいにしてしまえばいいのだ。実に簡単なことである。


fins