鳥籠の中の秘密

write a novel in third person
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「参謀長官って、優しいんですね」
参謀部内での、最近のテイトの口癖がそれだった。
「アヤたんは優しいよ。いっぱい人を殺したから怖い人だと思われてるけど」
ヒュウガは当たり前のように言うが、ヒュウガの言い分はとても褒めてるようには思えない。
「あ、あの、参謀長って、そんなに……」
テイトが恐る恐る訊ねると、
「そりゃあ軍人だもの。いざ陣地に踏み込めば……って、アヤたんの場合は敵味方なく、必要なければすぐに消しちゃうんだけどね。オレもアヤたんに似ちゃって、そうすることあるけど」
「そうですか」
テイトは急にかしこまったように小さくなっているが、
「でも、オレも小さい頃は……たくさん人を殺めました」
テイトこそ戦闘用奴隷で、殺人兵器だったのだ。自分の意思に関係なく、命令されればその通りにしてきた。
「君は特殊部隊にも居たんだよね。っていうか臨時戦闘要員か」
「オレのこと、そこまで知ってたなんて」
「知ってるよー。ちゃんと調べてる。でなきゃここには入れないし」
「参謀部って、凄い所なんですね」
「あはは。誰でも入れるわけじゃないから」
「廊下を歩いていると他の兵からの視線を感じるし、扱いも違う」
「基本、優等生しか入れないの、ここ」
それはテイトも分かっていた。戦闘能力の持たない兵士が尊重される部署に入れるはずもない。
「でも、シュリはコネですよね?」
士官学校時代、実技で余りいい成績ではなかったシュリが参謀部に居られるのは、縁故としか思えないのだ。
「……オレが任されたんだけど」
「え?」
「だって、不可抗力だったんだ」
「?」
オーク元帥からシュリを任されたときのことを思い出してヒュウガが苦い顔をしていた。その経緯はテイトには知らされていなかったが、
「何か事情があるようですが、心情お察しします」
シュリに関わるとロクなことがないということだけは理解出来た。
「まぁ、コナツの言うことは聞くから手が掛からないと言えば掛からないんだけどねぇ」
「オレは相手にしてません。一人で喋らせておくと勝手に自爆してます」
「ははは、面白いねぇ。テイト君らしいや」
二人が和やかに笑いながら会話をしていると、
「あっ、少佐ったらテイト君をナンパしてる! 少佐、アヤナミ様が参謀長室でお呼びです。夕方から懇談会があるので護衛するお役目があるそうです。それとテイト君、こっちで手伝って欲しい仕事があるので来て下さい」
コナツがしっかり仕事モードで声を掛ける。
「分かりました」
テイトは即答したが、
「護衛って今日だっけ。明日だったような……」
ヒュウガがぼんやりと呟いていると、
「今日と明日です。本来なら今日はカツラギさんがお供するはずでしたが、急遽代理で会議に出席することになったので、少佐に二日続けてお願いすると……」
「そうなの。まぁ、何でもいいけど。だってねぇ、アヤたんの後ろくっついて歩くと面白いんだよ。会食があると、まったく食べないからオレが代わりに食べるんだけどね、アヤたんは取り分けられた料理もぜんぶオレに横流しするからさぁ」
「……」
「その後の接待でも、お店の女の子に見向きもせずワインばっかり飲むし。だからオレが食べて飲んで女の子とお喋りするの」
「なんだか少佐の場合は仕事というより遊びに行くようなものですね。では、今日も少佐はお腹いっぱいになって帰館されますか」
「ん? 今日は遅くならないでしょ。平日だもん、アヤたん仕事する気満々で帰ってくるよ」
「そうでしたね」
テイトは、二人のやりとりをじっと見ながら。急にため息をついた。
「ヒュウガ少佐とコナツさんはいいですね」
「えっ」
驚いたのはコナツだ。
「上司と部下なんだけど、仲がいいというか」
「仲がいいですって!? 何処がですか!?」
コナツはあくまでも全面否定するつもりだ。
「すごくよさそうに見えます」
「違いますよ!」
即否認するも、ヒュウガは、
「まぁね、そんな関係なもんで、お互い心も躰も知り尽くしてるよ」
何食わぬ顔で茶化す。
「少佐! 適当なことを言わないで下さい! テイト君が誤解したらどうするのです!」
「誤解? 何の誤解?」
ヒュウガはとぼけているが、
「いいなぁ、そういうの」
テイトは夢見心地に浸るように二人を見ていた。
「な、何がいい……んです、か」
コナツは冷や汗をかきながら顔を引きつらせ、どうにか言い訳を考えるものの中々口に出せずにいると、
「オレはアヤナミ参謀のお役に立てているのかなぁ。ここ二ヶ月の記憶がないせいで自信がなくて」
テイトの思いは切実なのだった。
「アヤナミ様は特別ですから」
コナツもアヤナミと仲良くなりたいと思っても、そんなフレンドリーな関係は望めず、不可能だと諦める方が早いが、ここに傍若無人の輩が一人居る。
「ところでテイト君はアヤたんと何処までいったの? もう手は繋いだ? アヤたんの気を引く方法ならよく知ってるからオレに何でも聞いて」
ヒュウガに敵う者は居なかった。アヤナミとヒュウガは仲がいいどころか、特別な関係であるとも言える。その特別というのは、色恋沙汰に限ったことではないのだが。
「何処まで? あ、あの……手を繋ぐって、それはつまり……」
テイトが本気で質問しようとしているところへ、
「あああ、何かおかしなことになっている。テ、テイト君、仕事しましょう!」
コナツが遮ってテイトの目を覚まさせようとした。
「はっ。そうでした、仕事中だった。オレってばつい……」
「ほら、こちらです。もう! 少佐も早くアヤナミ様のところへ行かれたほうがいいですよ。お怒りかもしれません」
「ちぇ、いいとこだったのに」
こうして一旦お開きとなったが、
「でも、アヤナミ参謀は心が読めないと思っていた人だけど、最近ちょっと違ってて……」
テイトが照れながら独り言を呟いた。それを聞いたコナツは、
「アヤナミ様はテイト君のことをとても大事にしていますよ。アヤナミ様、部下には物凄くお優しいですから」
にっこりと微笑んでテイトを安心させるように助言すると、
「じゃあ、オレももっと仲良くなれますかね」
真剣な顔で悩み相談をするように願望を言葉に端ににじませる。
「なれますよ」
「コナツさんとヒュウガ少佐みたいになれるかなぁ。オレも冗談言ってふざけたりしたいです」
「アヤナミ様は余り人前でお話にならないから……ただ、二人きりになればどうか分からないですね。もっとも、アヤナミ様はヒュウガ少佐の前だと素になると聞きましたよ。もしかしたら唯一心を開いているのがヒュウガ少佐だけかもしれませんが、それはヒュウガ少佐があんなだから、アヤナミ様もつられるだけかな」
「そうなんですか。オレのライバルってヒュウガ少佐ですね」
「ライバル? 面白いことを言いますね」
「え、オレ、本気です。最初、参謀のことは怖い人というか読めない人だと思って引いたけど、何だかもっと知りたい、話してみたいって気になるんです」
テイトは迷いなく答えた。
「……」
コナツは複雑な気持ちになったが、それも無理はない。アヤナミの謀略を知っていて用が済めば今後のテイトの身分の保証はないし、どういう扱いをされるのかコナツ自身も不安に思っている。コナツはテイトの戦力が頼もしく、出来るならこのままずっと参謀部に居て欲しいと望んでいるし、実際にテイトが居なければ捗らない仕事もあった。
(殺す必要はないと仰っていた。それだけが救い)
胸裏で呟いて安堵するも、
(何かあったら、私がテイト君を守ってやりたい。私にはテイト君が必要だし、むしろさっぱり事務仕事をしない上司よりもずっと役に立つ。私の精神衛生上、彼の存在はとても大事)
そこまで思いつめるほどに、テイトはいまや参謀部には欠かすことのない人物となっていた。すぐ参謀部に馴染んだのもその一つで、見た目が幼い、躰が小さいというのはクロユリと共通するところがあっても、キャラがかぶることなく、テイトはマスコット的なイメージにもなっている。アヤナミがテイトを必要として手に入れたことから、テイトの参謀部入りは誰も反対することはなかったが、アヤナミが必要とせずとも、彼は誰からも愛される運命にあったのだ。
「アヤナミ様も、そのうちテイト君の前でしか見せない顔を見せてくれるようになりますよ」
コナツは期待を含ませてそう言った。
「そうなるといいな。最近は結構面白いことを言ったり、冗談にも乗ってくれるようになったんですけどね」
「信じられませんね。私なんかまだ緊張して冗談なんか言えませんよ。さすがテイト君」
「そうですかー? コナツさんに褒められると嬉しいなー」
屈託のない笑顔が眩しくて、コナツも笑わずにはいられなかった。
一緒に仕事をしながら、テイトは口を動かしていても手をとめることなく事務処理を要領よくこなしていく。コナツは、我が上司もこの半分でもいいから同じようにこなしてくれたらいいのに……と思うが、ヒュウガの場合は口を開けばカツ丼の話か酒の話、アヤナミの話、仕舞いにはコナツを直に口説き始めて仕事にならない状況になってしまうため、やはり距離を置いたほうがいいのかと悩むのだった。
「コナツさん?」
「えっ、あ……」
「この書類の続きは何処にありますか? オレが持っている分は終わりました」
ついボーッとして、テイトに声を掛けられ、我に返る。
「珍しいですね、コナツさんが何か考え事をしているなんて」
「あー、すみません、私も色々と悩みが多くて」
「……ヒュウガ少佐のことですか?」
「えっ、何故分かっ……」
「コナツさんはヒュウガ少佐のベグライターだから、仕事している間は上司のことを考えるでしょうし……ずっとついていなくちゃならないから……」
「それはそうですが、少佐の場合、大変な問題児ですから」
まるで手の掛かる子供のような表現をするとテイトが笑った。
「なんとなく分かります」
「どうやって仕事させようか、まるで働かない夫の心配をする妻のような……って違うか」
「あははー!」
和気藹々としている二人であるが、
「では、こちらの書類をアヤナミ様に届けなければならないので、一緒に参謀長室まで運んでくれますか」
「はい!」
ここからは無駄話の出来ない状態になる。
「確認はしてますので、そのまま渡せばいいです。というより、机の上に置くだけですね。アヤナミ様の机の上にはいつも書類が重なっているので、ちゃんと分かるようにしておけば大丈夫」
「分かりました。それにしても参謀って、あんなにいっぱい仕事してて嫌にならないのか不思議ですよ」
「もともと仕事熱心なお方ですから。帝国軍で一番多忙だと言われてますよ」
「ええっ、そうなんですか」
「参謀部自体が大変な部署なんです」
「そんな凄いところで働いてるオレはもっと胸を張ってもいいのかなぁ」
「……」
独り言のようなテイトの呟きにドキリとしたコナツは、すぐに返事をすることが出来なかった。
「もしかしてオレは参謀のベグライターをしてるってだけでも凄いんじゃ?」
今頃気付いたのか……とコナツは苦笑しながら、
「そうですよ」
と答えた。
「しかし、なんでオレがベグライターになったんだろう。記憶がないから分からない。コナツさんとかハルセさんでもいいと思うのに。シュリじゃ名前負けしてて役に立たないから無理だろうけど」
「アヤナミ様はベグライターをつけないことで有名でした」
「えっ」
「さすがに今は多事激務なのでどうしても補佐が必要になりましたが」
「聞いてみようかな。……どうしてオレなのか」
「それはあなたが優秀だからです」
コナツが説明をしても、テイトはまだ不思議そうな顔をしていて、
「他にも出来るヤツは居たはず」
自分の立場を受け入れようとしない。
「首席は一人です」
「……」
「私がどんなに説明しても、きっと自分で納得出来るまではアヤナミ様本人に聞いてみないと駄目なようですね」
「そ、そういうわけではないのですが」
「少しアヤナミ様を困らせるのもいいのかもしれません」
「困らせる?」
「アヤナミ様はあの通り無口な方ですから、たくさん質問をして嫌がられるくらいがいいのかも」
「あー、それは時々やってます」
「え、既に行動済みですか」
「はい。煩いとワイン飲ませて黙らせるとか言われます」
「ええっ、楽しそう!?」
「楽しい……のかな。面白い、かな?」
「それなら、普段からアヤナミ様に気軽に話しかけることも出来ますね。ヒュウガ少佐には及ばなくても、どんどん話しかけてみて下さい」
「やっぱりヒュウガ少佐がライバルなんだー」
「そうみたいですね」
二人が笑っているところへ、
「何の話をしてるのー」
また現れたヒュウガに、
「参謀長室にいらしたのではないのですか」
コナツが驚いて、まさか寄り道をしていたのではないかと身の細る思いに駆られていると、
「そろそろ出掛けるから、コナツの顔を見に来たの」
「何故私?」
「ん? 顔を見ておかないと」
「何故です。意味が分かりません」
「なんでだろうね」
「ほら、またそういうことを仰る。早くアヤナミ様のところに戻って下さい。私たちも今から参謀長室に向かうのですがお連れしますか?」
「うん、連れてってー。抱っこぉ」
ヒュウガがおかしな状態になっていたが、
「私もテイト君も両手がふさがっているのが見えませんか!? むしろ書類を半分持って頂きたい」
二人とも前が見えないくらいの書類の束を抱えているのだ。だが、ヒュウガは、
「嫌だよ。オレは箸より重いものを持ったことがないから」
真面目な顔で言っている。
「えっ、シュリみたいなこと……」
テイトが呆れていたが、
「ホラ、オレも王子様っていうか、いいとこのお坊ちゃまだからぁ」
テイトが参謀部のメンバーの内情に詳しくないことを手玉にとり、テイトにアピールすると、
「はいはい。もうどいて下さい」
コナツがあっさりと遮り、テイトは二人のやりとりに笑うしかなく、
「ヒュウガ少佐って、何処まで本気なんだか分かりませんね。その相手をするコナツさんって凄いかも」
大人の対応をしていた。
その後三人で参謀長室に向かうと、無言で仕事をしているアヤナミにヒュウガが何か耳打ちをしていたが、その内容を知らされないまま一度ヒュウガはコナツだけを呼び寄せ、誰も居ない所に連れて行った。
「どうしました?」
コナツが訊ねると、
「うん、ちょっと今だけテイト君をアヤたんと二人きりにしたくて」
「……もうすぐお出掛けなさるから、わずかの間ですね」
「それもそうだけど、オレがコナツと二人きりになりたかったんだー」
ヒュウガがふざけていたが、
「それだけではありませんよね? 何か私に言いたいことが?」
間をおかずに指摘した。
「えっ、コナツも最近鋭くなったなぁ」
「伊達に数年おそばについていませんから」
「そっか。だよね、オレの行動も読めるようになってきたってことか」
「まだまだですが、今回はたまたまそう思っただけです」
コナツが厳しい顔で答えると、ヒュウガは小さくため息をつき、
「ねぇ。テイト君の記憶が戻るかもしれないって考えたことない?」
そう問いかけた。
「!!」
「もし、テイト君がぜんぶ思い出したらどうなるんだろうねぇ」
「そ、それは……」
「記憶の封印だから、そんな簡単に思い出せるわけないんだけど人間の脳って不思議なものでさぁ、意外性がつきものだったり、何しろ彼の中には色々なものが有る。さっきも王子って単語出してみたけど反応ないし、パスワードを思い出すことによって何がどう覆されるのか、ただ、今のこの平和な時間が続けばいいのに、とか、コナツも考えるでしょ?」
「!」
コナツがとてもテイトを気に入っていることを知っての、コナツへの助言である。
「ミカエルの操者であり、フェアローレンの軆が封じられてるなんて凄いよねー。ちょっと信じられない話」
「少佐……それは、テイト君に情を抱くなとか……そういう意味ですか?」
「さぁ、どうだろう」
「……」
「オレはコナツが寂しく思ったり、テイト君が傷ついたり、アヤたんが悲しむのだけは避けたいなって思うだけ」
「!」
そのどれもが、避けられぬことだとすれば。
「でも、仕方のないことなんだよねぇ」
ヒュウガの憫笑がひどく寂寞としていて、やりきれない思いが滲み出ているようで、コナツは俯いたままくちびるを噛んでただ棒のように立っていた。

その頃、アヤナミの部屋に残されたテイトは、
「書類、ここにまとめて置いておきます」
机周りに配慮しながらてきぱきと文書の束を置いていった。
「ご苦労」
「これから懇談ですね?」
「そうだ。会食があるから遅くなる」
「分かりました。ヒュウガ少佐がご一緒だと聞いて安心しました。オレもこれからコナツさんと残って仕事を仕上げてから帰ります」
テイトが報告とばかりに言い終えると、
「明日のスケジュールのファイルはそこに置いてある」
「はい。目を通しておきます。明日は……」
と言い掛け、ファイルを見てから、再び朝の6時半には参謀長室に向かわなければならないことを知ると頭が真っ白になったが、
「明日も頑張ります」
意気込みだけは伝えておいた。
「下がってよし」
「……はい」
と返事をしたものの、テイトは動く気はなく、ただじっとアヤナミが書類にペンを走らせる姿を見ていた。
「どうした」
「あっ、いえ、お出掛けにならないのかと思いまして」
「お前が帰ったら出る」
「オレは参謀が出掛けたら帰ります」
どちらも譲らない。
「私が下がっていいと言ったのだ。言う通りにしろ」
「そうしたいのですが、オレは部下なので、見送りたいです」
テイトはすっかり我儘を言うようになっていた。
「自己主張にしては激しいな。誰の真似だ」
アヤナミが冷たい目でテイトを見た。
「真似ではありません」
「そうか。ならばお前も強情だということを覚えておこう」
アヤナミは冗談を言っているつもりもなく、ペンを置いて席を立った。テイトはすぐにポールスタンドからコートを持って来て、アヤナミに腕を通すように差し出すと、
「!」
次の瞬間、テイトはコートごとアヤナミの腕に抱かれていた。
「参謀?」
「驚かぬのか」
「驚いています」
「その顔で驚いているとは思えぬが」
「ですが、これは驚くべき事態かと」
慌てることも照れることもなく、テイトは真顔である。
「お前も大したものだ」
不意打ちは、されるのも、するのも慣れている。だが、それは戦場での話だ。しかも、人を殺めるのならまだしも、誰かに抱きしめられるなど、テイトには経験がない。
「あ、あの」
「……今夜も私の部屋で休むか」
「えっ」
「お前の意思は関係ないな。これは命令だ。従わねば、罰する」
「!!」
「私の部屋で待っていろ」
「あ……」
「理由など、聞かぬとも分かるだろう」
アヤナミは一方的だった。しかし、それはテイトも望んでいたことで、こうして欲しいと思っていた感情が勝手に指先に表れ、テイトはアヤナミの腕を強く握りしめ、まっすぐに至近距離でアヤナミを見つめ返した。
「いい目をしている。そして正直だ」
アヤナミが腕の中でゆっくりとテイトの躰を倒してゆく。テイトは不安定になる自分の躰の支えがアヤナミの腕だけだと知ると、今度はアヤナミにしがみつくように軍服を掴んだ。それと同時に、アヤナミがテイトに近づき、瞳の奥も覗き込めるようなところまで来ると、
「おかしなものだ。違和感がない」
そう言って薄く微笑んだのだった。
「参謀!」
普段から笑わないアヤナミの口元がわずかに綻ぶだけで大事件だと思うテイトは、思わずアヤナミの頬に触れてしまう。そこで一瞬、ほんの一瞬時間が止まったような気がしたが、
「その顔、凄く好きです」
テイトの、上司に向けた台詞とは思えない言い様にアヤナミが眉根を寄せて怪訝な顔をした。
「あ、その顔じゃなく、笑った顔が……」
この体勢で言う台詞ではなかったが、テイトは本気でアヤナミの笑みが嬉しく、もっと見たいと思った。
「お前が笑えばいい。そうすれば、私もそうしよう」
「えっ、じゃあ、オレ、なるべく笑うようにします」
テイトはふと、ミカゲから笑い方を教えてもらっていてよかったと思うのだった。
「友達から教えてもらった笑い方が、ここで役に立つなんて」
独り言を呟いたが、アヤナミにはしっかりと聞こえている。
「ただし、人の居るところでは許可しない」
「えっ」
「誰にでもそういうことをするな」
そう言われて、テイトは数秒考えたあと、
「……分かりました」
返事をしてから、またよからぬことを口にする。
「オレは参謀には皆の前で笑っていて欲しいと思うのですが駄目ですか」
「それは呑めない条件だ」
「ですよね。クールなのが参謀の売りだとすれば、今更そのイメージを覆すわけにはいかないし、格好もつかないでしょうし」
勝手なことを喋り続けるテイトにアヤナミが再び笑った。
「あ、また笑ってくれました。……やっぱりオレ、出来るなら参謀の特別な顔は独り占めしたい」
それが本音だったのだ。
「ほう」
「オレはベグライターなんだから、いいですよね?」
「その立場を利用するとは」
「いけませんか?」
「好きにしろ」
「します。でも、あ、あの……」
いつ誰が入ってくるかも分からない参謀長室は隣の参謀部と隣接し、双方から覗けるようになっている。二人が密着している場所は死角になっていて外からは見えない。だが、誰かが中に入ってくれば一目瞭然、抱き合っているのがバレてしまう。抱き合うというよりアヤナミが一方的にテイトを腕の中に抱き込んでいる形だが、テイトはそれをはねのけることもなく自然に納まり、そしてテイト自身、動揺しているようにも見えず、傍から見れば完全なラブシーンである。深夜の密室ではなく、あくまでも仕事場で、今からアヤナミはヒュウガと出掛けるのだ。まさにヒュウガが迎えに入ってきてもおかしくない状況で、今のテイトにとってヒュウガはライバルだから見られても構わないという捨て身の覚悟もあるものの、入ってくるのがヒュウガ以外の人物であれば大問題である。
「そろそろお時間では。遅れたら大変です」
テイトが注進すると、
「……お前を置いていくのが惜しいだけだ」
「!」
二人きりになると、こんなにも甘くなるのか。
テイトは信じられない思いでアヤナミを見つめた。しかし、その瞳はすぐに冷たさを取り戻し、あっさりとテイトを解放すると、
「言いつけは守るように。帰ったらまた話がある」
先に歩き出し、振り返ることなく参謀長室から出て行った。
「……」
テイトはしばらく呆然と立ち尽くして、そこから動けず、自分の躰を抱きしめるように腕を回して何度も大きく息を吸っては吐き、吸っては吐いて呼吸を整えていた。
「超、緊張」
まるでスキンシップを図るような接し方は初めてで、アヤナミが自らテイトに触れてきたことにも大きな衝撃を受けた。
「オレだって緊張することあるのに。実はとっても焦っていたのに!」
誰も居なくなってから吐露し始め、
「手合わせで剣を交えろと言われた方がまだラク……かな。でも、参謀も剣の腕は確かなんだろうし、やっぱりあの人を前にすると緊張する」
参謀長室に残されたまま、その独り言が続き、一刻も早く参謀部に戻って残った仕事を片付けなければ終わらないというのに、まるで腰が抜けたようになっている。
「めちゃくちゃ近かった。参謀って、オレよりずっと年上だけど、綺麗な顔してた。学生時代とか、どんなだったんだろう」
冷静に相手を見つめることが出来て、その記憶がしっかりあるとすれば、テイトはアヤナミに抱き込まれている間は動揺せず、終わってから改めて意識して感情の起伏が激しくなるようだった。
「でも、揺れてはいけない。もしオレが乱れたら、きっと参謀はもうオレにはあんなことしなくなる」
そんな不安を胸に、テイトはアヤナミが座っていた椅子を見つめ、
「参謀の躰、冷たかった……ような」
それだけ呟いてから、もう何も考えるまいと今度こそ立ち上がり、まだどこか定まらない足取りで参謀部に向かうのだった。

アヤナミが戻ってきたのは午後11時を過ぎてからだった。
テイトは言われた通りアヤナミの部屋で待っていたが、実は個人的に任された仕事が終わらず、コナツと半分にしてそれぞれ持ち帰るという状態になり、テーブルの上に書類を広げて仕事をしていた。検印の仕方も慣れたものでリズムよく早業で一枚一枚正確に押すことが出来るようになった。
「うん、いい感じー」
そんなふうに調子よく乗ってきたところでアヤナミが帰ってきたのだ。というより、テイトが気付いたらそこに居た。
「わぁ! お帰りなさいっ! いつの間に!?」
驚いたが声を掛けないわけにもいかず、テイトは飛び上がりながら参謀を迎えた。
「あれっ。外は雪が?」
アヤナミのコートには雪がちらほらと残っていた。
「今夜は冷える。明日はもっと積もるだろう」
「あ、オレは今、ちょうど燃えてたところで熱くなってました」
「判を押すのにか」
「はい。オレ、これは才能あると思うんです」
真顔で自慢しているが、特に優越意識を持つほどの事柄ではなく、
「私には遊んでいるように見えたが」
アヤナミに冷たくあしらわれて言葉に詰まる。
「それくらい余裕があって得意だということですっ」
テイトは負けなかった。
アヤナミからコートを受け取って、ひんやりとしたそれを気持ちよさげに一度両腕で抱きしめ、中々離せずにいると、
「それが欲しいのか」
そう言われ、
「えっ!?」
きょとんとして自分の行動を顧みる。
「私のコートではお前のサイズに合わないだろう。そもそもお前にも与えてやったはずだが」
「あっ、これ……って、オレ……どうしたんだろう? つい。すみません、今、片付けます」
ようやくクロークにしまい、
「参謀はもう休まれますか?」
そう聞いてみた。
「そんな暇はない」
「暇って、躰を休めるのは、暇だからとか好き嫌いでするものではないと思いますが」
部下にしては生意気だが的を射た台詞であることは確かだ。
「そういうお前は何をしている」
「えっと、仕事です」
「……」
「夕方に他の部署からの依頼がたくさんあって……コナツさんと分けたのですが、やっと半分まできたところです」
「あとは私がやっておく。お前は休め」
「ええっ、そうはいきませんっ」
テイトは何故か軍服の上着を脱ぎ、シャツ一枚になってボタンを二つほど外し、腕まくりをして右手に印鑑、左手に書類の束を持つと、
「今から更に一枚でも多く捺印するための早業を生み出そうと思います。そうすれば尚早く仕事が終わるというもの。なので、放っておいて下さい」
目をらんらんと輝かせてやる気を見せた。しかし、
「……では、私が放っておかれるのだな」
「あっ」
その一言でテイトは印鑑と書類を放り出し、
「ワインの準備でも!? お風呂はどうされますか? 参謀のことだからまた何も召し上がらなかったのでは!」
急に世話焼きを買って出た。
「……」
「お着替えは? っていうか、参謀、冷たいですよ!?」
外から帰ったばかりというのもあって、アヤナミの軍服もまだ冷たいままだ。するとテイトは何を思ったか突然アヤナミの手をとり、手袋をはがと、
「しもやけになっちゃいます! オレ、ちょうど動いてたところなので、熱いですよ、ほら!」
自分の懐、つまり、シャツの中にアヤナミの手を入れてしまったのだ。
「……」
「オレ、普段も体温高いんです。暖かいでしょう?」
「……」
手を取られたアヤナミは無言でされるがままになっていて、テイトは冷たい手を温めようと好意でしたことだが、あまりにも大胆な行動であるし、男同士だからといって胸に手を入れるとは一体どういう思考をしているのか、アヤナミも首を傾げるところであった。
「そちらの手も」
意に介せずによもや両手を自分の胸に当てようとしている。
「気持ちは分かるが……」
アヤナミはそう言って手の向きを変え、てのひらをテイトの胸に当て、故意に撫でる振りをした。
「!!」
テイトの小さな躰がビクンとしなる。
「お前は誰にでもこんなことをしているのか」
アヤナミの低い声がテイトの精神を犯すように攻め入り、テイトはハッとしたように驚いて慌てて口を開いた。
「そ、そういえば、しません。したことありません。こんなこと初めてで……オレも度が過ぎたって、今、分かって……何も考えてなくて、気付いたらこんなふうにしていて……」
ミカゲにすらしたことはなかった。例えどんなに親しい相手でも、普通ならしないと思い、テイトは引き際が分からずアヤナミの手を胸に入れたまま固まっていた。
「油断するな。お前は他人に躰を触れられてもいいのか」
指先を動かすとテイトの顔つきが変化する。
「……っ」
頬を真っ赤に染めて、焦ったように目を泳がせているが、今更引くに引けないといった様子だった。
「随分慣れているようだと思ったが、初めてならば仕方がない。ただ、今後は他のやつにこんなことはするな」
「……はい。気をつけます」
アヤナミだからいいのだとは言えなかった。今のテイトは、弁解をすることも、アヤナミの手を戻して体勢を整えることも出来なかった。
「そうは言ったが、ついでにここも暖めて貰おうか」
「?」
アヤナミの思うとおりに事が進められていき、テイトがふと面を上げると、アヤナミはテイトの胸を触ったまま顔を近づけ、テイトが驚いている間もなく、
「そのままじっとしていろ」
そう言い、テイトの幼いくちびるに自らの冷たいくちびるを重ねた。
── !」

本当に時間が止まったような気がして、或いは夢でも見ているような気がして、それならば、今だけ、この瞬間だけなら何が起きてもいいと、淡くふしだらな思いを抱き、テイトはすぐに目を閉じ、その歓待すべき悪意を受け入れたのだった。

彼らだけの、彼らにしか分からない秘密がまた一つ増えてゆく。決して外の世界には知られてはいけない、まるで鳥籠の中のような、小さな苑。

もっと、もう少し、もう一度。
貪欲に、呆れるほど甘く、そして熱く。