その手と手の甘い空間

a first person narrative/teito ver.
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正直言って、あの日、病院のベッドの上で目を覚ましてからの日々はめまぐるしくて過酷で、ほんとうにオレは軍に入隊してから二ヶ月、毎日こんなことをしていたのかと不思議に思っている。
士官学校時代を含めて物心ついた時から、どんなことも何をするのも平気だったし、辛く感じることはなかったオレだけど、軍で働くことの厳しさを改めて感じさせられて、挫折……いや、ちょっとバテ気味。
でも、疲れてぐったりしてるとコナツさんがオレを気遣ってくれる。最近はちょっとだけだけど、素振りも始めてみた。最初はなんでバットを渡されたのか分からなかったけど、躰を鍛えるためでもあるし、案外ストレス解消にもなるってことを知って、たまにバットを振ってみたりする。シュリは野蛮なことをするなって部屋で騒いでるけど、お前もやればいいのに……と思うだけにして無視している。だって、折角貰ったんだし。
コナツさんは凄くオレに優しい。聞くところによると、上司があまりに仕事をしないから、オレが真面目に事務処理に取り組んでいるのを見て、めちゃくちゃ感動してて、オレのこと頼りにしてるらしい。コナツさんの上司って、ヒュウガ少佐というサングラスを掛けた、妙に懐っこい人。オレのことを可愛いとか小さいとか言ってからかってきたりするから、オレはちょっとこの人が苦手だ。背がデカイからか、同じように大きいカツラギさんという人も怖い。カツラギさんは大佐だから、もっと偉い人なんだけど、そういう地位もあるからか、やっぱり怖いものは怖い。だから、コナツさんに頼りにされて、それがなんとなく嬉しくて頑張っちゃうオレだけど、今のオレは軍人としてやっていくしかないわけで、そのために卒業試験も全力で受けたんだから、これからの努力も必要だと思う。まだまだ新人として至らない部分は、これから身につけていけばいい。

オレの仕事はデスクワークだけじゃなくて、参謀長のベグライターという役目もある。コナツさんがヒュウガ少佐のベグライターで、他に参謀部では、なんと、オレよりも小さいクロユリ中佐のベグライターが一番大きいハルセさんという人。この参謀部の組み合わせはちょっとワケが分からない。クロユリ中佐は、女の子……なのかな? でも、僕って言ってるからオレは混乱してしまう。そしてシュリはただの新人。
で、オレは参謀長の仕事を手伝ったり身の回りのお世話もしてるんだけど、参謀はいつも無表情で無口で何を考えているのかさっぱり読めない難しい人。雰囲気的にカツラギ大佐よりも怖いというか、冷たい感じがして、どうも苦手。……苦手っていうんじゃない、言葉では言い表せない感情がある。オレには、それが何なのか分からなくて、近づくのもやっとなのに、だからといって仕事だから仕方なく……というのでもなく、実は怖いと思っていながらそばに居て見てるのが苦にならなかったり、安心するわけじゃないけど、それどころか仕事がハード過ぎて不安にもなるけど、自然でいられる妙な感覚がある。無表情で冷たい目をしているから、参謀長のことを嫌いかもって警戒する割りには、嫌いという感情ではなくて、でも、好きでもない……興味がないだけ? いや、興味はある。好きでも嫌いでもないっていうより、もっと違う何か……が、あって、でも、やっぱりオレにはそれが何なのか分からない。
普段は冗談も言わないし、笑わない。ヒュウガ少佐とは対照的なところがあって、よく見てるとヒュウガ少佐とアヤナミ参謀が仲良くて、それが凄く不思議に思える。仲いいって、ヒュウガ少佐がアヤナミ参謀長にくっついてる感じするだけで、アヤナミ参謀は相変わらず無言のまま仕事を続けていることが多い。全然会話が成り立ってなくて、たまにアヤナミ参謀に怒られているヒュウガ少佐だけど、それでもアヤナミ参謀のことを「楽しそう」だとか「今、笑ったよね」だとか言ってるのを見ると、いや、楽しそうには見えないし、まったく笑ってないし……とびっくりさせられる。なんか、心で通じるものがあるんだろうか。……オレとミカゲのような、そんな関係なのか。

ミカゲの行方が分からなくて、シュリに聞いても、どの部署に配属されたのかも知らないって言われて、軍では仲良しごっこは通用しない厳しいところなんだと痛感した。そりゃあ、楽しむために軍への入隊を希望したわけではないけれど、死ぬときは一緒だって約束したのに、それは子供の戯言だったと改めて証明されたようで、寂しかった。
今のオレは、過去二ヶ月の記憶がないまま仕事に打ち込むだけで、他にどうすることも出来ない。どうやったら記憶が戻るのか、軍の医療機関にも手伝ってもらってるけど、なにも進展はなくて、すごくもどかしい。
ただ、どんなに悩みや考えたいことがあっても、参謀部の仕事が忙しすぎて悩む暇もなくなる。特にコナツさんを見てると同情したくなるくらい、参謀部には大量の書類が舞い込んでくる。こんなに事務処理の多い部署だなんて知らなかった。オレはこういう仕事は嫌いじゃないけど、元々戦闘用奴隷だったし、特殊部隊と共に現場に借り出されることも少なくなかったから、いつ呼び出しを食らうんだろうと思ってたけど、今のところそれはないみたいで、アヤナミ参謀にも、
「オレはいつ戦場に行かされるのですか」
と聞いたら、
「当分それはない」
と言われて、驚いたし、ちょっと安心した。すっかり事務処理人になってる自分が不思議だった。

その後、アヤナミ参謀は会議があるといってカツラギ大佐と出掛けてしまった。なんかカツラギ大佐の方が、オレよりも参謀のベグライターに向いてるんじゃないかってくらい、そつなく補佐をこなしている。聞けば、カツラギ大佐にはベグライターが居ないという。……なんで? って思ったけど、本人は「必要ありませんから」と言っていた。そういうもんなのか? ……オレにはこの制度がよく分からない。でも、最初はシュリが推薦されたらしいけど、アヤナミ参謀が断ったと耳にした。そのシュリは、何故かコナツさんをお兄様と呼んで慕っている。一体どんな経緯があって、コナツさんをお兄様と呼んでくっついているのか分からないけど、それよりも元帥の息子であるシュリを断ってオレをベグライターにしたのは、オレが首席で卒業したからだと当たり前のように言われて、シュリは事務処理能力も戦闘能力も皆無だから仕方ないというより、現実は縁故より成績優先なんだと感じた。

この日、会議から帰ってきた参謀を出迎えて、それで仕事が終わりかと思いきや、やっぱり参謀は机に向かってたまりにたまった書類を処理し始めた。……この人、労働基準法を違反してるんじゃ? でも、あまりに膨大な量で、これを放っておいたら明日には倍になって、更に明後日には三倍になって……と追いつかなくなりそうだから、とにかくやるしかないんだと思った。でも、もう23時を過ぎてるんだけど。オレ、眠い……なんて言ったら怒られるかもしれないから、眠い顔も出来ない。あくびなんて絶対禁止。
どうしようかと参謀長室で迷ってたら、
「これを読んでおけ」
参謀が机の上においてあるファイルを指差した。
「はい」
明日のスケジュールだった。
「ハード……」
見るたびに口に出してしまうけど、なに、この分刻み、いや、秒刻みのスケジュール。オレ、やることてんこもりだし、ついていけるの? 今日だってコナツさんと一生分かと思えるくらいの書類整理をしたんだよ? 明日もなの? しかも、明日はオレも会議に出ることになってるんだけど、参謀のフォロー出来る? ……まぁ、いいや、いざとなったらカツラギ大佐かコナツさんにヘルプしてもらおうっと。
って、頭の中でそんなことを考えていたら、
「今日はもう休め」
参謀が呟いた。
「ですが、事務処理のお手伝いを……」
「いい。これは私の仕事だ」
「はい」
「明日も早い。遅れないように」
「分かりました。では、失礼します」
オレはバタバタとその辺の書類を片付けて、急いでオレ用のファイルを持って参謀長室を出た。この分だとベッドに入ったら三秒で眠れる……と思ったけど、同室のシュリが先に帰って寝てるから、起こさないようにしないといけない。とにかくシャワーを浴びて、歯を磨いて……軍服、これ、クリーニングに出すのを忘れそう。あっ、参謀長のも出しておかないと。って、あの人はいつ寝るんだろう? いつも迎えに行く頃には起きてるし、着替えてるし。
そしてオレは、ベッドに入る前、もう一度明日の予定を確認しようとファイルを開いた。
「……あれ? 見たことない書類が……」
オレのではない、なんか機密文書的な紙きれが一枚入ってた。
「なんだこれ」
オレはその時すぐに気付かなかったんだ。それが、アヤナミ参謀の机の上にあった、大事な書類だということに。
「あっ、あー!! 慌てて片付けしたから、間違って挟んじゃった!? っていうか、どう見ても持ち出し禁止っていうか、明日までにまとめないといけないっぽい書類だけど!? これ、オレが持ってちゃマズイんじゃないか!?」
オレは青ざめた。本気で血の気が引いた。
「うるさいぞ、テイト・クライン」
やば、シュリが起きたし。
「悪い、ちょっとパニック」
「は? 今何時だと思っているんだ」
「まだ夜中の12時だけど?」
「まだって、もうそんな時間だ! ボクの大事な睡眠時間が!」
「はいはい、またすぐに寝ればいいじゃん」
「そういう問題じゃない!」
「どういう問題? っていうか、オレ的にはこっちの方が問題なんだけど」
オレは書類を持ったまま右往左往していた。
「睡眠不足は敵なんだぞ」
「?」
何の敵? 誰の敵? まさか美容の敵とか言うんじゃないだろうな。……と突っ込もうとしたら、シュリは既に寝ていた。早っ。……羨ましいやつ。
とにかく。
オレはこのまま知らない振りをするわけにもいかないし、すぐにでも返さなければならないと思って、部屋を出て参謀長室に向かった。パジャマのままだけど、気にしない。もしアヤナミ参謀が仕事を終えて参謀長室に居なかったらどうしよう、自室に届けに行くべきか、どうするか、そればかり考えていた。ああ、困った。きっと怒られる。あの、たまに出てくる鞭で打たれちゃう!
そう思うと恐怖に震えてしまうけど、オレは走って参謀長室に行き、ノックと同時に参謀長室のドアを開けた。

居た!

まだ仕事してる! そして書類の量が減ってるし! すげー!
「すみません! これを届けに参りましたっ」
まるで頼まれていた書類のように一枚の紙を差し出した。すると、
「ああ、お前だったのか」
「!?」
「そんな格好をしているから誰かと思ったが」
「あ……」
パジャマで失礼します。
「その書類はヒュウガが隠したのかと思っていた」
「は? ヒュウガ少佐がいらしたのですか」
え、何。そんなことあるの? そんなことしちゃうの、あの少佐。
「いや、昼間にここに座って書類をいじっていたからな」
「ええっ!?」
ほんとに空恐ろしい人だ。
「犯人はお前だったか」
「申し訳ありません、さきほど混乱して持ち帰ってしまいました。ですが、すぐに必要なのではないかと思い、届けに参りました」
「確かに明日の会議で使うものだ」
「すみませんでした」
良かった。返しに来たのは間違いではなかった。
お詫びに仕事を手伝おうとしたけれど、参謀に止められ、早く休めと同じことを言われてしまった。……パジャマのままだから? あ、こういう時は軍服を着てくればよかったのか? もしかして本当に失礼なことをしたのかな。
「でも、それではオレの気が済みません。全部はお手伝い出来ませんが、少しなら」
そう言って、オレは参謀の机の周りを整理した。大丈夫、もう余計なものは持って帰らないし。
「ならば、この書類の束を分けて、部署ごとにまとめてもらおう。見れば分かる」
参謀が別な書類の束をオレに渡した。
「はい」
……書類を広げる場所がなかったから、オレはソファとソファテーブルを借りることにして、一気に済ませようとした。特に難しいことじゃなくて、この書類も明日の会議で使うものだということが分かったから、大事に丁寧に扱って、分かりやすくまとめた。このまますぐに会議に持って行ってもいいくらいの出来で、参謀の机の上に置いた。もちろん、その際はちゃんと声を掛けて……。
そう、声を掛けて、机の上に置いたつもりだったんだ。なのに、書類をまとめた記憶は残ってても、その後の記憶がなかった。
つまり、気が付いたらオレは、自分の部屋のベッドで寝ていた。
「あれ?」
目を覚ましたのは5時35分。
ホッ、遅刻じゃない。
いや、待て。え? どういうこと? オレは確か参謀の部屋で仕事を手伝ってたはず……言われたことをやり遂げたのまでは覚えているけれど、挨拶をして退出した覚えがまったくない。眠すぎて寝ぼけてた? いや、どうやって帰ってきたのかも記憶がない。これって記憶の退行? え? マジで? オレ、夢遊病みたいになってるの? どういうことなの?
まさか、まさかまさか、仕事手伝ってる途中で寝ちゃったとかじゃないよね? そんなことしたらお詫びの意味ないもんね。そこまでオレもバカじゃないし? ……確かにソファの上で仕分けしてたけど? だんだん眠くなってきてウトウトしたような感じだったけど? でもまさか、途中で寝るとか有り得ないから。
向こうのベッドを見ると、シュリがまだ寝ていた。こいつを起こす必要はない。誰のベグライターでもないシュリには決まった出勤時間があって、オレよりも遅い。
「っていうか、自然に起きられたオレ、スゴイ」
とにかく、現時点で、寝坊もせずに目覚ましなしで起きられたのはエライと自画自賛してみた。
オレは身支度をしてから部屋を出て、急いで参謀の部屋に向かった。でも、アヤナミ参謀は居なくて、そこから参謀長室へ移動する。
参謀長は当たり前のように仕事をしていた。

……もしかして寝てないんじゃ?

と思ったけど、まさかね。だってお風呂は? 歯磨きとか。その辺すごく気になるんだけど……。
「おはようございます! こちらにいらしたのですね」
出来るだけ大きな声で挨拶をすると、アヤナミ参謀はオレのことをチラッと見て、
「……さすがにパジャマではないのか」
と言った。
「えっ」
ちょ、参謀? 冗談?
「よく眠れたか」
「はい。ですが……あの、昨夜、オレ……」
「どうした」
「お仕事をお手伝いしている途中から記憶がないのですが」
オレは正直に告げた。
「記憶がない?」
「あっ、な、何でもありませんっ」
えー、どうしよう? やっぱり途中で寝ちゃったわけじゃなくて、ちゃんと帰ってきてたのかな? ただ、眠すぎて記憶が抜けただけかな? っていうか、これ以上のことは聞けない。なのに、真実をはっきりさせたくてもどかしくなる。だって、もし途中で寝ちゃってたら、すごく失礼な行為にあたるじゃん? そしたら謝らなくちゃいけないでしょ? こんな大事な問題、うやむやにしておけないっ。
冷や汗が出る。
オレは顔面蒼白だったんだろう。アヤナミ参謀に、
「顔色がよくない」
と言われ、思わず、それはあなたの方ですって言いそうになったけど、
「すみません、大丈夫です。ご心配お掛けしました」
一応言ってみたけど、たぶん、今のオレの目は泳いでいるに違いないと思った。この後の会話、どうしようか……なんて悩んでたら、アヤナミ参謀は、
「お前はずいぶん躰が軽いようだが」
突然、よく分からないことを言い出した。
「はい?」
なんでオレの躰が軽いって知ってるの? 健康診査の書類見たの? オレの体重が43キロだって知ってる? いや、その前に、そんなどうでもいいことにこだわるような人には見えないんだけど?
「そんな躰ではこの先我が部署ではやっていけんぞ」
「……!?」
わ、もしかしてオレのこと心配してる!? なんか優しい? っていうか意外。朝からこういうふうに話しかけてくれるなんて、普段の冷たい表情からは考えられない。それともオレはまだ夢の中にいるのか?
「はい、頑張って牛乳飲んで肉食います」
「……」
「それだけじゃ駄目か。ちゃんと寝ます」
オレ、真面目よ? ふざけてなんかないよ? ……そしたら、
「そうしろ」
やっぱり参謀も真面目だった。
「あの……参謀は休まれましたか?」
試しに聞いてみると、
「仮眠はとった。……シャワーはさきほど浴びたばかりだが」
おお! 超プライベートな話! 参謀にプライベートな話題って似合わない! っていうか聞いたのオレだけどっ。と、浸る暇もなく、
「今日の会議の時間が変更になった。新しいスケジュール表を見ておくように」
すぐに仕事の話に切り替わった。
「はい!」
そう、物思いに耽っている暇はないんだ。あっ、でも、その前に!
「参謀長、朝は何を召し上がりますか? コーヒーとワイン……どちらに」
と聞いて、聞いてから質問の内容におかしいことに気付いた。……案の定、
「お前は私に朝からアルコールを飲ませる気か」
わぁ、参謀長に突っ込まれた。
「そうでした! しかも会議があるのに酔っ払ってはいけませんよね」
そういう問題でもなく。
「カフェインだけで結構だ」
「分かりました。申し訳ありません、カツラギ大佐から参謀長はいつもカフェインとワインしか口にされないと聞いたもので……つい」
「そうだろうと思っていた」
あ、バレてましたか。でも、ほんとなんだ。豆知識じゃないけど、カツラギ大佐は、それが悩みだとも仰っていた。栄養が偏るだとか偏食も甚だしいとか、あまり普通に食事をされないのだと。
でも、今のオレが栄養がどうのと言っても説得力皆無だから、黙ってることにして、きっちり美味しいコーヒーを淹れてさしあげようと決めた。
「では、すぐに淹れて参ります」
オレは急いでいたものの、丁寧にコーヒーを淹れて参謀長室まで運んで、
「どうぞ」
机に置いた。
「……」
一瞬、アヤナミ参謀が不思議そうな顔をした。え、なんで? オレ、間違ったことしたかな。それともワインをご所望だったか?
すると、アヤナミ参謀はコーヒーカップを手にとって、口をつけた。そして一口飲んだ瞬間、
「なんだ、これは」
とても難しい顔をして呟いた。
「……?」
固まるオレ。えっ、ちゃんとコーヒーを淹れたのだけど。いくら早朝でも、寝ぼけてお醤油を淹れてきたとか、そんなんじゃ……ない、はず。

あっ。

「わぁ、つい、いつもの癖で!」
オレは、とうとうやってしまったのだ。
これはブラックコーヒーではなく、砂糖5割増しの、むしろコーヒーの味なんか消えてるほど甘い、甘すぎるコーヒーだったのだ。そう、いつも自分が飲む時はそうやって淹れてるから、砂糖多めというのが癖になっている。ミルクを入れなかっただけマシか? ……だから、そういう問題でもなく!
「これはお前が飲め」
「オレがですかっ」
「私はブラックしか飲まない」
「存じております。申し訳ありません」
カツラギさんからも指導を受けていたはずなのに、癖って怖い。もしかして、本当ならブラック派の人にとっては、一口飲んだだけでも吹き出すほどマズかったんじゃないだろうか。普通の甘さなら我慢して飲んだかもしれないけど、オレの場合は砂糖の量のほうが多いくらいだし、やっぱマズかったよね?
参謀長が書類にコーヒー吹き出したらびっくりだけど、どこまでもクールな人で……。
オレは淹れ間違えたコーヒーをお盆に乗せて、仕切りなおすために参謀長室を出た。途中、コーヒーが美味しそうで、立ち止まって香りをかいだ。
「うーん、参謀が飲むだけあって、上質な豆を使っているなぁ。いい香り」
ちょっとうっとりしながら、オレは誰も見ていないのをいいことに……。

少しだけ、そのコーヒーを飲んだ。

……これって、もしかして間接キスというやつ? 当てはまっちゃう? 実はそうなの? 貴重な体験? なんて、浮かれていいのか悪いのか。でも、こういうの、あの少佐はやってそう。参謀の食べかけとか飲みかけとか、進んで受け取ってるよね。すごく仲がよさそうだし、オレとミカゲも、食堂でおかずの取り合いしたことあったけど、そんな感じで……。

ミカゲ……。

今度はミカゲを思い出して感傷に浸ってたら向こうから誰かがやってきた。金髪だけど、シュリじゃないことは確かだ。あっ、コナツさんだ!
「おはようございます!」
「おはよう、テイト君。早いね」
「オレはもう出勤時間なので」
「アヤナミ様は早いからね。大変だろうけど、頑張って。でも、そのコーヒー、どうしたの?」
「あ……、実は」
オレは事の顛末を話した。コナツさんは、オレがミス一つしない優秀な人材だと思ってたらしく、最初は信じて貰えなくて意外だと言われた。
「でも、デスクワークや戦場でのミスじゃないから、全然いいよ」
コナツさんがフォローしてくれて、コナツさんもコーヒーを淹れなおすのを手伝ってくれた。というより、コナツさんもマグにコーヒーを淹れてる。
「それは?」
オレが聞くと、
「これは寝ぼすけの上司に持っていくものです」
「え?」
「私の朝の仕事は上司を起こすことから始まるんですよ」
「ええっ」
コナツさんの上司って、ヒュウガ少佐だよね!? アヤナミ参謀はとっくに起きてるのに、もしかして朝に弱い人?
「テイト君のパジャマのまま参謀長室でお仕事とか、アヤナミ様に砂糖5割増しのコーヒーの件は内緒にしておきます。特にヒュウガ少佐に知られたらからかわれますよ? きっと大喜びで『オレにも』とか言いそうですからね」
「はぁ、そうなんですか」
「では、また参謀部で」
コナツさんは忙しそうに給湯室から出て行った。
なんだか短時間に色んなことがあって、まだ始業時間にもなってないのに一日分の仕事をした感じ。いやいや、こんなんじゃ駄目だ、これからが正念場、参謀のベグライターとして務まらない。もっと精進しなければ。

めちゃくちゃヤル気なオレ。だって、デスクワークも嫌いじゃないし、戦場に出ても役に立てるはずだと思ってるし、カツラギさんからも太鼓判押されてるし? そのうち昇進して、絶対一人部屋に入るんだ。脱、新人。

オレは新しく入れたコーヒーを持って、再び参謀長室に戻った。
相変わらず参謀は無言で書類にサインをしたり、何かを書いたり判を捺したりと忙しそうにしていたけれど、
「お待たせしました、どうぞ」
コーヒーを置くと、参謀はすぐにソーサーを寄せてカップを持ち、香りをかいでから一口飲んだ。
「合格だ」
「そうですか!」
ま、最初に失敗したけど? っていうか参謀に合格って言われちゃったー。こんなことくらいで舞い上がるのも子供っぽいけど、普段褒められるなんてことなかったから感激? しかも、無表情の参謀に言われるって、喜びもひとしお?

それからは書類の受け渡しが始まった。参謀が処理したものをまとめてファイルしたり、処分するものは分けて、保管が必要なものは別な箱に入れたり、ちょっと忙しい。
でも、この距離が何故か心地いい。オレはこの人が怖いって思ってたはずなのに、こうしているのが嫌じゃないし、だけど、どうしてなのか、胸がざわめく。これって何だろう。よくない知らせなのか、それとも……。
ただ、今は、コーヒーを渡したり、書類を受け取ったりする間合いとか、この立場が、ひどく厳しいはずなのに、誰にも見えなくて誰にも分からない隠れた甘さが少しだけあって、それをオレは秘密にしたいって思う。
もうすぐ参謀部に戻って皆と仕事しなきゃいけないし、今日は会議があるからバタバタしそうだけど、この時間だけは参謀長室にアヤナミ参謀の他にはオレしか居なくて、それがすごく貴重に思えるのは、オレはたぶん、この人のこと……。

んー、やっぱりよく分からない。とにかく真面目に仕事しよう。

……今更なんだけど、昨夜、オレはパジャマのまま仕事手伝って、手伝ったのはいいけど途中で寝落ちしちゃって、自分の部屋で目が覚めたってことはアヤナミ参謀がオレを運んでくれたんじゃないよね? そうだったら……。まさかね。そんなはずない。あれ、でも、オレの躰が軽いって言ってたけど、もしかして……。
ううん、考えるのよそう。怖い。怖すぎる。
「気が散っている。集中しろ」
「はいっ」

怒られた。
厳しい。なんでオレのこと分かるんだろう。でも、別にオレは違うこと考えてたわけじゃないですよ。違うことっていうか、あなたのことを考えていました。

なんて、言えるわけないよね。