あの日遅刻などしなければ。
ユキナミは何度そう思ったかしれない。 スズナミとユキナミの双子の兄弟はバルスブルグ帝国軍陸軍士官学校の第312期卒業生である。士官学校を卒業してからすぐに新人研修として上官について仕事を手伝う補佐の役目をすることになるのだが、誰につくのかは発表当日まで知らされることはなく、卒業生たちは期待と不安を胸に自分の名前が呼ばれるのを待った。 だが、発表の日、ユキナミは遅刻をしてしまう。 道に迷ったという理由もあるが、いつも行動がのろいのだ。目覚めてベッドから出るまで、ベッドから出て次の行動に移るまで、すべてのことに一々時間がかかる。軍に入り、これから命を懸けた戦いを強いられるというのにユキナミは戦場に出るという緊張感がないのか、戦いの場にそぐわないほど穏やかな性格をしていた。 そして遅刻をした罰として与えられたのが帝国軍随一恐れられている参謀部のアヤナミ参謀長官のベグライターになるという、表向きは名誉ある指令で、裏では「貧乏くじ」という哀れみを一身に受ける惨状だった。 誰もが噂に聞く冷酷非情の参謀長官を恐れ、アヤナミのベグライターにだけはなりたくないと願っていた。知らなかったのはユキナミだけで言われて気付く有様だった。 今までの例から言って、たとえ補佐になったとしてもアヤナミの行動にはついていけず、次々と落第していき誰一人まともに彼の元で働くことは出来なかった。アヤナミ自身も使えない者は要らないと切り捨てていた。 彼ら新人に拒否権はなく、命令には従わなければならない。 そうしてユキナミがベグライターに付いてから新人研修にしては恐ろしくハードな仕事が待ち受けていて、ユキナミは目を回しながらアヤナミの後をついていき、文字通り追いかけるだけで精一杯、気を利かせて先回りし手配することや言われたことだけではなく、それ以上の仕事をこなすという余裕など全くないどころか言われたことすらまともに出来ない新人以下のていたらくだった。 何しろお茶もまともに淹れられない。毎回零すか落とすか、小さな子供でも出来そうなことでもドジを踏む。 そのたびにアヤナミに叱られるか無視されるかでユキナミは胃に穴が開きそうなほど怖気を振るっていた。 「すみません、すみません」 毎日幾度となく叫んでいる謝罪の言葉は挨拶代わりになっている。顔は可愛いと専らの評判だが軍人に容姿は関係ない。ユキナミは、そのうち「可愛いだけのお人形さん」と言われるようになるのではないかと恐れた。 だからアヤナミの同期であるヒュウガに、 「可愛いね」 と言われるたびに泣きたくなってしまう。 「可愛くないです」 ヒュウガには本音を漏らせるのか、そう言って落ち込む。 「君の兄貴は同じ顔をしていても活発なんだけどね」 「はい。スズは僕と違って自信もあってやり手です。双子なのに、こうも違うと辛いです」 「でも、君には君のよさがあるだろう」 「ないと思います」 「君は実力はあるよ」 ヒュウガが懸命にフォローしているのにユキナミは自分のことを分かっているようで、自分に対しては厳しい評価をしている。自信たっぷりの兄、スズナミとは180度違っていた。 「でも、アヤナミ様を見ているうちに色んなことが分かってきました。あの方は寡黙ではあるけれど、僕はあの方についていくだけで沢山のことが学べるのだと思っています」 「へぇ?」 「皆はアヤナミ様のことを厳しいと言うけれど、それは事実には変わりないですが、あの方のしていることにはすべて無駄がないのです。僕は感じ取るだけで勉強になります」 「ほぉ」 ヒュウガが感心していた。 「僕は黙ってあの方についていくだけです。そしてもっと強くなって全力でお守りしたいと思っています」 何度切り捨てられても這い上がっていきたい。 ユキナミは漠然とそう思っていた。 「うーん、今までずっとアヤたんを見てるけど、最近付いてくれた新人ベグライターは皆怖がってアヤたんが解雇すればすごすご引き下がってたんだよね。君は見込みがあると思っていいのかな」 「はい! アヤナミ様は僕をまだ認めては下さらないし、むしろ空気のように思われているかもしれませんが、決しておそばを離れません!」 「絶対?」 「絶対です!」 「拷問されても?」 「は?」 「あの鬼参謀の趣味は拷問だよ?」 「はぁ。でも、僕が拷問されるということは……」 「ないと思ってる?」 「と申しますか、拷問される理由がないです。アヤナミ様の視界には僕は入ってないようなので」 「あー、なるほどね」 「されたほうがマシかもしれません」 「うわぁ、そんなこと言う人を初めて見た!」 「そうですか?」 誰でも無視されるより構ってもらったほうが嬉しい。ユキナミの場合は拷問がどの程度のものか分からないし、ユキナミの感覚では楽しい遊びとして捉えているのかもしれなかった。 「もしかして兄貴より君のほうが大物かもしれないな。別な意味で」 「そんなことないです」 「いや、これは微妙に褒めてない……かもしれないんだけどね」 「え?」 「ああ、やっぱり可愛いなぁって話」 「ですから、可愛いって何ですか!」 「そういうところが」 「ひどいです! スズにもよく可愛いと言われるけれど、どうせならかっこいいって言って下さい!」 「無理」 「えー!」 ユキナミはヒュウガとは会話が弾むのだった。 ユキナミにただ一つ褒められるべき点があるとすれば、彼のザイフォンである。マナ使いとしての能力が他の人とは変わっていた。 彼が得意とするそれは「ランドカルテ」と呼ばれる空間移動術で、実際、ホーブルグ要塞の数ある軍人の中でも瞬間移動を使える者は少なく珍しい。アヤナミがユキナミを雇うにあたって注目したのは、アヤナミ自身が興味を示したからだった。 だが、技がまだ完全ではないために失敗することがあるという致命的な問題があり、何度もヘマをやらかしてはアヤナミに怒られていた。 一般的に物を移動させるために使うが、それすらもまともに出来ないことがあり、ユキナミはそれではいけないと地道に努力をして、いつしか自分自身を空間移動する手段を身につけた。これは遅刻癖のあるユキナミにとって都合のいい手で、寝坊をした時に自分を自室から執務室まで移動させるのだ。そうすれば走らずとも済むし就業時間に間に合うのだから一石二鳥。 しかし、これにも未完成な部分が多く、とうとうアヤナミの机の上に着点するという大失態を犯してしまった。 「キサマ。よほど私の机が好きなようだな」 背筋が凍る。 あとでどんな罰を受けても構わないと思ったが、この冷ややかな目で鞭打たれるとなると、やはり拷問は怖いと感じるのだった。 アヤナミとユキナミの関係が少しずつ変わっていったのは、或る事件が発端となりアヤナミがユキナミを認めるようになってからだ。 それは、囚人が逃げ出しラフェエルの瞳を狙うという大事件が起こったのだが、そこで命を狙われたアヤナミをユキナミが身を挺して守ったのである。そばに居たヒュウガも危険に曝されたが、ユキナミがザイフォンを使って自分とアヤナミ、ヒュウガの3人を現場から空間移動させ、一命……つまり三つの命を取り留めた。未完成であるが故に危険な賭けであったが、そうするしかなく、結果としては成功だったが、とんでもないところに移動させるなど相変わらずおかしなことをしてアヤナミに呆れられた。 そこから”進歩”と思える関係性が確立していった。 アヤナミの冷酷非情な性格には理由がある。 アヤナミには長年連れ添ったベグライターが居た。信頼していて無二の存在であった彼を失ったのは参謀長官になる前のこと。 彼は戦場でアヤナミを庇って命を落とし、それ以来自分にはベグライターをつけぬように、たとえ新人が研修としてやってきても一日で切り捨てていた。 当然ユキナミも切り捨てられる運命にあったが、その運命の歯車はシナリオ通りには動かず、思わぬ方向に動いていった。 懸命に努力をしようとするユキナミを認めるようになったのだ。一人前としてではなく、そばにいることを許可したというだけの些細なことではあるが、それでも辺りからすれば相当な進歩だった。 アヤナミの補佐の後釜が決まったというだけで大騒ぎであるのに、それがユキナミだということが意外で、その噂は瞬く間に軍内に広まった。 ユキナミは同期の少年たちから、 「本当についていけるのか」 「脅されているのではないのか」 「酷い目に遭わされてノイローゼ寸前」 などというあらぬ噂が立ってしまったほどで、ユキナミは一つずつ否定していかなければならなかった。 「僕はあの方のお側でお仕えすることが出来て光栄に思う」 そんなふうに顔を赤らめて言うようになったものだから、ユキナミの身に何があったのか、実はアヤナミはいい人なのではないかと数え切れない憶測が流れた。 ユキナミはアヤナミが帝国について語るときの表情が好きだった。帝国を思う心が好きだった。 時折優しく、 「無理をするな」 と言ってくれる声が好きだった。それは滅多にないことだが、ユキナミにとって何よりも嬉しい出来事なのだった。 「本当はとても優しい方」 自分だけは彼を信じようと思えた。 だが、日々精進の心がけは変わらずにいてもユキナミはまだ力不足でアヤナミに褒められる回数は増えていない。 脱獄した囚人からザイフォンで救って以来、偉業を成し遂げたのはその時だけで、ユキナミは遅刻をしそうになったりお茶を零したりと成果がなく、いつ見放されてもいいような状態であった。それでも必死に技を磨くための訓練は怠らなかったのだが、その努力の甲斐も空しく、或る朝、遅刻しそうになって已むを得ず空間移動術で執務室に行こうと自分の部屋から起点し、なんと、こともあろうか仕事中のアヤナミの膝の上に着点してしまったときは全身が凍るような冷たい目で睨まれてユキナミは腰を抜かしたことがあった。叫び声とともに飛び降りたときの素早さを褒められるという嫌味はあったが、二度目にそれをやらかしたときには、 「お前は随分と私の膝の上が好きなようだが」 何の感情もない口調で言われ、 「はい、とても好きなんです」 そう言ってしまって吊るし上げられた。 あまりのことにヒュウガに泣きつくと、ヒュウガは笑ってユキナミの話を聞いたが、 「殺されなかっただけマシ」 と慰めなのか脅しなのか分からない台詞でユキナミを力づけたのだった。 あの日遅刻をしていなければアヤナミの部下になることはなかったかもしれない。 もし部下になっていなければ? と自問してみると、 「それは嫌だ」 そう思うのだから、ユキナミは現状を受け入れて自分なりに前に進んでいるのだと感じている。成長しているのかどうかは分からないが、アヤナミに少しでも認められるように努力をしたい、褒められたいと思う気持ちは大きくなるばかりだ。それが叶うことは遠い道のりでも、決して諦めず、ついていきたい。 少し前までは、学校を卒業をしたばかりで何も知らなかった。 柔らかい日差しの中で通りに咲いていた花を見つめ、あの時何を思っていたか。 「僕はまだ幼い。まだまだこれからなんだ」 この国を守り、誰かの役に立ちたいと願う気持ちは変わらず、次の同じ季節を迎えるときに今と変わらぬ景色の中で、16の春を思い出して懐かしく思えるようになればいい。 「あの方のそばにいて、少しでもあの方に近づこう」 今は、これで良かったのだと思う。 「アヤナミ様、会議のお時間です」 「お前もついてこい」 「はいっ!」 ユキナミは、自分は幸運だと素直に喜びを噛み締める。 明日もきっと今日以上にハードで、またドジを踏んでアヤナミに冷たい目で見られるかもしれない。けれど、努力だけは怠らずにいようとユキナミは気合いだけは十分に入れている。しかも、その心意気を声にまで出してしまい、アヤナミに聞かれる羽目になると、アヤナミは忠誠心丸出しの部下を見つめ、 「言っただろう。お前はお前のままでよいのだと」 そう言ったが、 「それは僕が失敗ばかりしていてもいいということですか?」 とぼけてそんなことを言い、失言したと気付くより先にアヤナミが鞭を取り出すほうが早く、 「私の言っていることが理解出来ているか」 「はっ、はいー!」 どうしても鞭でお仕置きされなければならない流れになってしまう。 無理せず成長していけばいい。 上司の助言が理解出来れば、恐怖で躯が竦んでも時折見せるアヤナミのわずかな優しさがユキナミにとって何よりのご褒美になる。 これからの毎日は更に波乱万丈になるだろう。鉄壁の防御と随一の軍事力を誇るバルスブルグ帝国軍に甘い休息はないのだった。 |
to be continued |