オズの魔法使いと100年の魔法

メモ: つまるところ、名作と呼ばれる物語とは何なのだろう。

「オズの魔法使い」は言わずと知れた物語で、1900年に書かれたものだから、発表されて既に100年以上の年月が経過している。その間、似たようなファンタジーはそれこそ山のように書かれてきただろうし、読まれて来たはずだ。それなのに、それら多くの作品は忘れられ、歴史に埋もれ、消えていった。

それら数多の作品群と、名作という名の冠を戴き、歴史上で輝く作品群との違いは一体、何なのか。一時期、考えた事がある。注目したいのは、「オズの魔法使い」はオズの国を舞台にしたシリーズの第一作目で、日本の出版各社共通で「世界の名作」としてリリースされているのは、この「オズ」シリーズでは、第一作目の「オズの魔法使い」だけだということだ。これは興味深いことだと、僕は思う。理由を探ってみようと思った。

とりあえず一時、本屋巡りをして出版されているオズシリーズを、一通り目を通してみた。そして本文を通読し、訳者の後書きなどから当時の状況を察するに、作者であるバウムが「こうあるべし」として書いた作品は最初の一作であって、あとの続編は「子供たちが喜んでくれるなら」として書いたファンサービスであったというのが、どうやら現実のように思われる。では作品にその違いは出ているのか。答えは僕の考えでは、イエスだ。

そもそも、最初の「オズの魔法使い」とは結局何の物語なのか。もう100年以上も前の物語なのでネタバレも何もへったくれもないけれど、要するに「ドロシーはヘンリーおじさんとエマおばさんが本当に大好きなのです。」という物語なのだと僕は思う。言ってしまえばオズの国が舞台でなくてもこの物語構造は成立する。各出版社の訳者の後書きなどでは、全然この点を指摘してくれないので最初自信がなかったのだけれど、物語の構成上、そうとしか考えられない。少し設定とあらすじを追ってみよう。

●ドロシーの両親は既に他界している
●ドロシーが住んでいるカンザスはからからに乾いた、灰色の世界。
●ドロシーの友達は子犬のトトだけ。それでもドロシーは楽しそうに生活している。現在ドロシーを育てているヘンリーおじさんとエマおばさんは疲れていて滅多に笑わない。なぜドロシーが楽しそうにしているのか不思議に思っている。
●カンザスの農場経営は苦しく、あまつさえ、時として竜巻が襲う。
●竜巻がドロシーの農場を襲い、家ごとドロシーは吹き飛ばされ、オズの国にやってくる。
●まあいろいろあって三人の舎弟を連れて、オズの国を冒険、カンザスに帰る為にオズの魔法使いの言う通り、悪い魔女を倒す。
●さて悪い魔女も退治した。皆は「ここで一緒に暮らそうよ」と言ってくれます。
●けれどドロシーは願うのです。「それでも私はカンザスに帰りたい」と。
●そうして少女は、銀の靴の踵を鳴らして、カンザスに帰ったのでした。

ちょっと待った。カンザスに一体何がある。既に両親はいない。物理的なおうち=「家」はドロシーと一緒にオズの国に落ちてきて、カンザスには現在、家の地下に掘った穴ぐらの竜巻避難壕があるだけだ。オズの国には新しくできた友達も沢山いるが、カンザスには友達はいない。(唯一の友達だった子犬のトトは、ドロシーと一緒にオズの国にいる。)ここにいれば、美味しいごちそうも食べられる。エメラルドその他宝石がっぽり、奇麗なドレスで王女様待遇。ふわふわのベッド、豪華な屋敷、何でもかんでも思いのままだ。そう、あるものを除いて。それは...

エマおばさんヘンリーおじさん

ここで注目して欲しいのは、エマ「おばさん」にヘンリー「おじさん」という点だ。カンザスにいるのは、つまり両親ですらない。親のもとに帰りたいと思うのは小さな子供として当然だろう。しかしバウムはドロシーの「気持ち」を抽出する為に、あえて両親ではなく、おじさんとおばさんを配置したのではないか。しかもおじさんとおばさんはいつも疲れていて滅多に笑わない。別にちやほやしてくれる訳でもないのだ。

あまつさえ生活は苦しく、竜巻も襲ってくる。大地は渇き、世界は灰色だ。友達も他にいない。とにかく、カンザスには何もないったらなんにもない。

それでも。

少女は二人の元に帰りたいと願う。涙を流して。帰りたいと強く願うのだ。

なぜか。「それくらいドロシーは二人が大好きなのだ」という事にほかならないからではないのか。他の要素となりそうなものはカンザスから徹底的に排除し、対するオズの国に、美しいもの、楽しいものを豊富に描く事によって、逆に、「ドロシーにとっての」それらの空虚さ、描かれなかったものの大切さが、浮き上がってくるという道理である。二人が「どうしてあの子はあんなに楽しそうなんだろう」と冒頭で不思議そうに思っているシーンがあるのだけれど、これなどは、ドロシーが二人と暮らせているから幸せなのだ、ということを示す、いいシーンだと僕は思う。

また、劇中、ドロシーは惑わない。彼女の意思はほぼ終始一貫して「何としてもカンザスに帰ること」に集約されていて、一本筋が通っている。これでドロシーが「こっちの生活も楽しそうだし、どうしようかな..」などと考えていたら、この作品は台なしになっていただろうと僕は思う。少なくとも、100年の歳月を越えて現代まで残る事はなかったのではないか。

また称賛すべきは、物語のラスト、文章が恐ろしくあっさりと、ストン、と終わっている点だ。お涙頂戴にしようと思えばできるのに。だがそれゆえに、「帰ってこれて良かったね」という、読了後にはえもいわれぬ、暖かさだけが残る。尤も、子供向けの物語だから、細かい描写を避けたのかもしれないけれど...

結果、この物語は出版されるや読者に熱烈に支持されて、その後バウムは読者から矢のような催促を受けて、続編を書くことになるのだが、恐らく、バウムの中でドロシーの物語はもう完結していたからだと思う。続編ではドロシーではない、トロットやベッツィ、という別の少女の物語を描く。...のだが、世の常として、最初の主人公を愛してやまない読者は、それを許さない。

「ドロシーを出して!」という声は高まり、(バウムは嫌がっていたようだが)結局カンザスの少女は、再びオズの国へと旅立つ。ヘンリーおじさんとエマおばさんも結局オズの国へと移住し、ここからのオズの物語は、最初の物語にあった、作品を貫く太い芯というものがあまり感じられなくなる。つまりここから先の物語は、現代的な、キャラクターを楽しむ作品といっていいと思う。

続編ものが失敗しやすいのは恐らく、「もうその主人公に関して、語るべきものは語ってしまった」為にテーマが作りにくくなる為ではなかろうか。別の主役を持ってきても、読者は前作の主人公を追い求めがちだ。なぜなら読者は「最初の主人公の物語が好きだから」続編を求めているからだ。ここにジレンマが発生する。実際、ドロシーが二回目に出てきた際、今度は「ヘンリーおじさんにとっても、ドロシーが大切な存在」だというテーマが掲げられたけれど、一作目程の太い柱になりえず、以降は、楽しさ主導の物語になっていく。正直、ドロシーが出てくる必要がない話も結構あるのだ。だがバウムは、どうやら半ば諦め顔で「子供たちが喜ぶなら」と愛情を持って続編を書き上げていった気配がある。

その結果かどうかはわからないけれど、やはり暖かく面白くはあるのだけれど、作品内部から感じられる輝きが失われて、表層の楽しさに終始しているのは、確かだと思う。

何だったかは忘れたけれど、つのだじろう先生の漫画の巻末のインタビューか何かで、「物語というのは綿菓子みたいなものだ」という論が展開されていたのを思いだす。即ち、作品のテーマは綿菓子の中心にある割り箸。割り箸を差し出したところで誰も口にしてはくれないけれど、おいしい綿菓子でつつみこめば、お客は割り箸までべろべろ舐めてくれる、という説明だったと思う。

結局、その「後に残る物語」にするためには、綿菓子における割り箸がどうなのか、という点が問題なのだろう。もちろんそれだけではないだろうけれど、「かくあるべし」という意思、テーマ、魂の叫びがないものは、綿菓子の綿の部分のみ、という感じになってしまうのではないか。綿だけの綿菓子は、やはり、どこかうつろだ。

尚、個人的には「オズの魔法使い」に対して世間で言われている「大切なものはいつも側に」というテーマには賛同するけれど、エマおばさんとヘンリーおじさんに対する言及があまりないのが気になります。個人的には、これこそがキモだと思いたい。尤も、作品をどう受け止めるかは、読者の自由なのだと思うのだけれども。

かかしと臆病ライオンとブリキのきこり等、キャラクターについてはまたいつか。

以下、余談。

映画版ではカンザスの農場に小作人が沢山いたり、夢オチだったりするのが、ちょっと解せない。映画は「誰にでもわかりやすく」しないといけないのでしかたないのかもしれない。ただ、そのせいで失っているものは、あまりに大きいと思う。
だって、夢オチなら、オズの国は存在しないことになってしまう。エーッ。

実際、夢オチにしたせいで、映画の続編「OZ」では、ドロシーに妄想僻があるということで、精神病院につれて行かれて、電気療法を試されようとするのだ!(なんてこった!)まあそのせいもあると思うのだけれど、この陰気なドロシーが出てくる映画は本国でもあまり好かれていない様子(ビジュアルはいいと思うんだけど..オズマ姫かわいいし。)。

それと、絵本として世に出ているものは、ダイジェスト版もいいところなので、作品を本当に理解しようと思えば、この話に限らず、やはり単行本で読むべきだと僕は思う。
「白鯨」とか「ガリバー旅行記」なんて、絵本と文庫でテーマ自体が違う。

BAT