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『In the blue water 1(ネタばれあり)』

 >>>   -- 06/01/29-18:02..No.[898]  
   
「……泉が」
 彼は暗闇の中、独りだった。強い風に常緑樹の色味を落とした枝葉が震える。みずからの頬に片手をあてると、癒えることのないつぶれた片目からこぼれる液体が、手のひらとシャツを濡らす。
 崖下に遠く見渡せる湖は、鏡のように凪いでいる。その中心に小さな染みのような黒点が残っているのを見つけ、彼は形のいい口元をゆがめた。
 木立の間の暗がりに向かって彼は歩きだした。手で押さえているにも関わらず、片目から流れ続ける紫の血液は、ほおに幾すじものあとを残して足跡のかわりに彼の歩みを森の土の上に残していく。
「エレナ」
 唇からこぼれた遠い記憶の中の名前は、風の音にかき消された。


 その日は、西風の強い日だった。
「はいはい、今見てみるから」
 コロナの街から遠くない森の中、木に取り付けてある巣箱の辺りで騒いでいる森ねずみを見つけ、ラケルは弓を置いて木の節くれだった幹に足をかけてよじ上った。倒れた木から削りだした板きれを組み合わせて箱型に打ち付けた巣箱には、小さな動物達が枯れ葉やどんぐり、しいの実を運び込み、春を待つための快適なすみかにしている。
「あれ」
 大きめの巣箱の上部に取り付けてあるふたを外すと、陽の明かりに照らされたのは、青みがかった灰色のつばさをたたんで寝こけている鳩だった。鳩はよほど疲れているのか、巣箱にめいっぱい身体を押し込み、羽をわずかに震わせて寝息をたてている。
 森ねずみの集めたどんぐりや木の実は、鳩の身体と巣箱の壁の間に挟まっていた。
「もう、しょうがないな」
 ラケルは両手を壁と鳩のつばさの間に差し入れて、そっと抱き上げようとした。だが、その瞬間鳩はつばさをばたつかせて抵抗した。
「こら、おとなしくするんだ」
 そのとき、暴れた鳩の片足から何か小さなものが取れた。地に吸い寄せられるように落ちようとしたそれを、ラケルは片方の手で受け止めた。手を広げてみると、指の間に挟まっていたのは青い小さな巻紙だった。
「やっぱり伝書鳩だったんだ」
 小柄な鳩はごくなれた風に手紙を持っていないラケルの腕にとまって、つぶらな瞳をまばたきさせた。ラケルは鳩に手紙を持たせる制度がそれほど好きではなかった。人間が勝手のいいように動物を教え込んでいるように思えてならなかったのだ。
 だが、巻紙の表面に書かれた文字に、彼の視線は止まった。森ねずみがきいきいと泣きわめく中、ラケルはだまって巣箱にふたをかぶせて、伝書鳩を胸に抱いて木を降りた。
 ラケルが木から下りてから、めちゃくちゃになった住処を元通りにするべく、森ねずみは巣箱の壁にぽっかりあいた丸い暗闇の中に飛び込んでいった。


「いらっしゃいませ」
コロナの町の広場からほど遠くない冒険者酒場。昼時が終わって、一段落ついた時間帯に木戸を開けて入ってきた少年に、洗い物を済ませたばかりのリラは、腰に巻いたエプロンで手を拭きながらも、その続きがのどから出てこなくなった。
「あら、マーロじゃない」
 何か口ごもっているリラのかわりに、カウンターの真ん中の席に腰掛けていたルーが振りかえってひらひらと片手をふった。
「おお、珍しいな。今日は午後の授業はないのか」
「自主休講」
 グラスを磨いていたマスターは、笑うとまなじりにしわが寄る。マーロは学院からそのまま来たらしく、足首まである黒い外套の合わせ目から濃紺の毛織のローブがひとすじの縦線のように見え、色の白いほおは、冷たい風の中を歩いてきたせいか薄紅色に染まっている。そして、今日の彼は一人ではなかった。そのあとに続いて、フードをかぶった小柄な少年が入ってきた。
「学院の近くで迷ってたから、連れてきた」
「道を聞こうとしたんだよ」
「ラケル?」
 声を聞いたリラが名を呼ぶと、その声に少年は片手だけフードに手を伸ばして、後ろに払った。なめらかな短い髪と、エルフの血を引いているあかしの尖った耳があらわれる。
「マスター、ミントティーひとつ」
 カウンター端の席に腰掛けたマーロは、外套を脱いで適当にたたみ、カウンター下に渡してある荷物置き用の板に詰め込んだ。ルーが頬杖をやめて、マーロに尋ねる。
「マーロ、あんたリラに頼まないの?」
「いい。こいつがいれると不気味な液体その一になるから」
「なーにそれ」
「その、こないだ、マスターが留守のとき……ちょうどお砂糖がなくて、メイプルシロップでもいいかと思って」
「その発想もいただけないが、さらに間違えてアンチョビソース入れたのはもっといただけない」
「だ、だって鼻がつまってて、匂いがわからなかったんだもの」
 いわしのエキスとミントのかもし出す味のハーモニーに悶絶するマーロを想像し、ルーとマスターは互いに笑い出した。
「笑えるもんか、あのマズさは殺人的なんだぞ。おまけに酒場に充満した猛烈にクサい匂いを換気するはめにもなったし」
「マ、マーロの突風、役に立ったよ」
「フォローになってないっつの」
「いやいや、俺がいない間にそんなことがあったなんて、そりゃ傑作だぜ。まあ、風邪気味だったのに店番させちまったのは俺の責任だ。そのうちいれ方教えとくよ」
「……当分いい」
 マスターはカウンターの向き合う形で設置してある調理台の下から乾燥ミントの袋と砂糖つぼを出し、小鍋に水とミントの葉をひとつかみ、それに砂糖のかたまりを入れてストーブにのせる。
「お前は何がいい? ラケル」
「え」
 彼の動作を真似て、それでもマントのはじをきちんと合わせて畳んでいたラケルは、二人ぶんの白銅貨をカウンターに置いたマーロに戸惑った。
「ぼくは、べつに」
「店に来たらなにか頼むのがいちおう礼儀だ」
「……じゃ、ココア」
 自分に向けられているリラの青い瞳からすこし視線をそらして、ラケルは小さな声で頼んだ。
「それ、ほんとにココアか?」
「ココアですっ」
 からかい半分のマーロにきっぱりと切り返し、リラはすこし背伸びをして、戸棚からココアの入った金色の缶を取り出した。


「わたしに?」
 ほどなく、小指ほどの高さのグラスに注がれたミントティーと、白い厚手のマグカップに入ったココアがカウンターに腰掛ける二人の前に置かれた。ココアのやわらかな茶色い水面には、白いマシュマロが一粒、ぽっちりと浮かんでいる。
「伝書鳩はぼくの家で休ませてあるよ。それで……これ、手紙」
 そういって、ラケルが懐から小さな青い巻紙を取り出した。カウンター越しに手を伸ばしてそれを受け取り、糊でとめてある紙の端っこをリラは注意深く爪ではがす。伸ばしてもそれほど長くない紙だった。だが、木炭で走り書きされた文面にリラの顔色が変わった。
「リンさんからだわ」
「ああ、リンってパパの知り合いの? このごろ手紙をやりとりしてたみたいだけど」
 マーロとラケルから椅子ふたつぶん離れているルーが、杏色の目をまばたかせる。
「……アトランティーナに、急いで来てほしいって」
「それだけか」
マーロにうなずこうとしたとき、頭の中に声が響いた。

「リラよ。明日、用意を終えたらわしの所に来るのだ。わしがお前をアトランティーナの近くまで送ろう」

「おじいさまも、わたしを呼んでる」
 それが誰を指しているのかわかったのは、マーロだけだった。だが、リラがすぐにでも出発しなければならないことはその場にいた者の誰にもわかった。
「リラ、今日の手伝いはこれでいいぞ」
「いいんですか」
「なあに、たまには客にセルフサービスでもやらせればいいさ。早く支度しな」
「は、はい。あの、マスター」
「うん?」
 夜のメニューの仕込み用にじゃがいもをいくつか箱から取り出していたマスターは、しゃがんだ姿勢のまま振り向いた。
「あの、ありがとうございます」
 会釈のような軽い礼をして、リラはエプロンを外してカウンターのはじにたたんで置いた。すると、ルーが思いたったようにいった。
「リラ。アトランティーナにいつ行くの」
「……明日、かな」
「じゃあ、ぼくも行くよ」
 飲みかけのココアから顔をあげて、ラケルがいった。
「でも、今度は」
「わかってるよ。なにが起こるかわからないけど、だから一緒にいきたいんだ。村の入り口まででもいいから……ぼく、リラを守りたい」
「ラケル」
 リラはうつむいた。すると、ミントティーの小さなグラスを空けて、マーロは丸いすから立ち上がった。手早く外套を引っ張り出し、袖を通してすそを整える。
「マーロ」
「もし、おれの力が必要なら、あとで学院まで来てくれ」
 そういって、マーロは表に出て行った。角のとれた木戸が揺れているのをみつめていたリラに、ルーは片目をつむってみせた。
「あいつ、休学届でも出しにいったのよ」
「……そう」
 晴れない表情のリラに、ルーはすこし考えてから口を開いた。
「それなら今日はまだ大丈夫よね。アトランティーナに行く前に、二人でデートしない?」
「デート?」
「そ。二人っきりで」
 ルーがどこに行くのか、リラにはわからなかった。壁にかかっている振り子時計の振り子は、ガラスの向こうで静かに揺れていた。
「うん」
 リラはうなずいた。できるなら、ぎりぎりまでここにいて、とりとめもない話に花を咲かせていたかった。けれど、それはできないとリラは自分にいい聞かせた。
「ラケル」
 リラは彼の、ソーダ水のような淡いグリーンの瞳をみつめた。
「明日、太陽が昇ってから神殿に続く森の入り口で、待ってる。でも、もう一度よく考えて。何があるのか、わたしもわからない……それでもいいなら、待ってるから」
「うん、ありがとう。それからごちそうさま。マシュマロ入りって、おいしいね」
 ラケルはココアの残りを飲み干してマグカップを置き、マントを羽織った。今度はフードをかぶらずに。
「リラ、あたしたちも行こうか」
「……うん」
 魔法の終わりまで、あと二日。

 めったに人を選ばないルーがリラを連れてきたのは、街を囲む城壁のところどころに設けられている見張り用の古い尖塔の一つだった。ろうそくもない暗い階段を上りきると、うすく雲のかかる青空の下に、橙色の三角屋根が連なり、街を区切って走る大通りが行き着く噴水広場が小さく見えた。
「すごい。あの伝書鳩もこんなふうに街を見ていたのかな」
「ここ、塔の中でも一等高いんだ。たまに、一人になりたくなったらここに来るの」
「ルーの秘密の場所なの?」
「そうね、アルターもたまに来るし、ここを見つけた頃のあたしたちのような子供たちも、来ているのかもしれないけど……でも、あたしがここで泣いてることは誰も知らない」
 風下になぶられる長い髪を片手でおさえると、となりでルーも同じように壁際にもたれかかる気配がした。黄色いセーターの両ひじがぼろぼろの石の上につく。
「アトランティーナ、行くのよね」
「……うん」
「そこに、何があるの」
 陽射しは穏やかに、積み上げた石の隙間から生える小さな黄色い花を照らしており、強い風はちぎれ雲を西のほうへ流していく。リラは力なく首をふった。胸がじょじょにしめつけられるように苦しくなる。
「話さないから聞かなかったけど、パパもアトランティーナについては何もいわないの。そういうときって大体ただ事じゃないから、ちょっと心配になったの」
「ルー」
 リラは思い切ってとなりの彼女の名を呼んだ。
「わたしが話すこと、あなたはどう思うかわからない。でも……ルー、聞いてくれるかな」
 となりから彼女の返事はなかった。けれど、リラはそれが彼女のうなずきだと受け取った。
 リラは話した。青い竜の呪いのこと、エレナという女性のこと、竜を恨んで人以外のものに身をやつしたリュウベン、そしていなくなった竜の子供のこと。
「アトランティーナに行けばわかるんだと思う。自分が何者なのか、何をするべきなのか。今ぼんやりわかっていることが、はっきりすると思う。でも、そうしたら……おおげさかもしれないけど、わたしはたぶん、ここには戻れない」
「そう」
 風にまじって、ルーのため息がかすかに聞こえた。
「あたしだって、酒場で仕事してるんだもの。昨日今日と同じ人がいつまでも来てくれるわけじゃないってわかってるつもり。でもね、リラ」
 首をかしげたリラに、ルーは切れ長の目をいたずらっぽく細めて笑った。
「リラがほんとうはどこの誰なのかなんてそんなのどうでもいいんだ。あんたがたとえ何者でも、いつだってコロナはここにあるし、あたしはここのどこかにいる」
「ルー」
 リラの声が震える。泣くまいとつばを飲み込んで、リラはまだつめたい空気を胸いっぱいに吸った。
「あーあ、なんか湿っぽくなっちゃった。リラ、もうすぐリラがコロナに来て一年になるけど、この街、なかなかいい街でしょ」
 とうとつに聞かれ、リラがうなずくと、ルーはうんと両腕を空に伸ばした。
「ねえ、さけんじゃう? あたし、本気出せば雲まで届くくらいの大きな声出せるわよ」
「……そういえば、わたし、どこまで自分の声が届くかなんて、やったことなかったかも」
「決まり。じゃあ何にしようかな……いっそ大好きなひとの名前なんてどう?」
「そ、それはダメ」
「あーら、即答で否定するなんて、なにか訳ありね。誰も好きにならないなんていってたのに」
「……それは……」
 きつめのまなざしでも瑠璃色のローブでもない、自分のブーツの先っぽをみつめているだけなのに、首から上がみょうに熱っぽい。
 リラのそんな様子に、ルーは肩をすくめた。
「はいはい。ま、宣言したって、状況は変わるものよね」
「ルーってば、もう」
「いい意味なんだから、おこらないでよ。マーロ、あんたと何があったのか知らないけど、けっこう変わったもの。気づいてる? あいつ、もうずっと前からフードも帽子もかぶってないのよ」
「……うん」
 リラの脳裏にマーロのすがたが思い出される。酒場に入ってきたマーロ、魔法学院の書庫で本の背表紙を探しているすがた、広場で催された大道芸に、足をとめているマーロ、小さなルームメイトをからかいに、リラの部屋に遊びにきたマーロ。思い出されるその中で、リラは彼の、長いまつげにふちどられた鳶色の瞳をいつも見ていた。そして、その目と視線が合うとき彼が何を見ていたか。
「……わたし……」
 職人通りの段差で転びそうになったとき、腕をつかんで引っ張りあげた力の強さ。髪についた花びらをのけたとき、風のように触れた指。同じように花びらをとろうと彼の髪に手を伸ばしたときの、どこかばつの悪そうな顔。
「わたし、ばかだ」
 リラは顔をあげた。
「ほんとは、ちょっと気づいてた。でも、ちっともわかろうとしなかった……自分のつま先ばっかり見て、前か後ろか、どっちに進むかで頭がいっぱいで……向き合おうともしなかった。いつも、となりにいてくれたのに」
「あたしも、なんとなくわかる」
 それまであたりまえのように歩いてきた昨日までに、むしょうにいとおしさがこみあげ、リラは強い風にばらばらにほぐれる髪を肩の後ろへ払って、城壁から半ば身を乗り出すようにして指先ほどの大きさの路を行く人々に目をこらした。
「リラ。あそこにいるの、あいつらじゃない」
 ルーが指さした先を探すと、真冬でも目立つ真っ赤な髪を逆立てた男と並んで、やや背の低い少年が歩いている。スラムの酒場に行くところだろうか、何かを話しているようにも見える。
 リラは空を仰いだ。ところどころ藤色の濃淡を影に、雲はゆっくりと東の方角へ動いていく。
「ねえ、ルー。この空の雲のどれかは、アトランティーナまで流れていくかな」
「え」
 ルーが思わず目を見開いたとき、リラは路地をゆく黒い外套の後姿に向けて、空に浮かぶ雲へ届くほどの声で叫んだ。

「マーロ」







●○●○●In the blue water 1

 やっとこさ最終話です。残り二日にして、ようやく360度に向けて恋愛宣言できたリラに、作者ひと安心です。
 





 


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