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>>>花
-- 06/11/06-01:30..No.[963] |
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コロナの街に冒険者宿は数多くあれど、街の人々がこぞってすすめる宿はけして多くない。自力で宿を回って検分を重ねたのちに決める慎重派もいるが、たいていの旅人は近隣の町の宿に残されている情報ノートからうわさを書き付けておくか、乗合馬車の乗り場に待ち受けている客引きと交渉して、その宿に連れて行ってもらうかである。 商業地区の大通りから一本わき道に入ったところにある冒険者宿は、客引きなしでも客足のとだえない稀有な宿だ。三階建ての宿は扉を隔てて隣接する酒場とつながっており、宿のお客はいつでも階段を降りて酒場で食事をとることができる。小さいが居心地のいい酒場には昼夜を問わず旅装束の冒険者たちが日雇いの仕事を紹介してもらうべく足を運ぶ。とりたてて豪華というわけではないし、タオルやシーツは客みずから桶を借りて洗わねばならないが、コロナに来るたびにこの宿に泊まる客は多い。 「どうぞ、マスター」 宿の受付カウンターで書き物をしていたマスターは、鎖でつながったメガネを外して、リラ・アプリコが差し出した湯気のたつマグカップを受け取った。 「ああ、ありがとう」 リラは黒のセーターに灰色の毛織のロングスカートという地味な格好に、茶色と紺の格子柄のショールをゆるく巻きつけている。この一年で長く伸びた桜色の髪は後ろでまとめて、いつぞやマーロから贈られた瑠璃色の石つきのピンでとめてある。 柱時計の振り子が規則的に時を刻む。深夜の宿は静まり返っており、カウンターのすぐそばから伸びている階段からは二階の客室のある廊下がランプの灯りに照らされているが今は誰もいない。 「すまんな、リラ。お前さんも診療所の手伝いがあったのに、こんな遅くまで店番させちまって」 「いいえ、レティルさんも一緒ですし、ちょっとでも宿代になることがしたいんです。マスターの好意がなかったら、この一年ほんとに」 「まだそんなこといってるのか、お前ってやつは。宿賃なんて出世払いでいいさ。そんなどうでもいいもんのために無理するな」 「無理なんてしてません。……わたし、こうみえてもモンクの真似事していたんですから」 リラは意味ありげにほほ笑んだ。アトランティーナで何があったのか、彼女はその全てを話さなかったし、マスターもまた聞かなかった。コロナに戻ってきて数日たった今もなお、リラは今しばらくこの宿の二階奥の部屋を借りている。 「まあ、お前の頑固さは俺も知ってるよ。好きにしろ。酒場の戸締りをしたら寝ていいからな」 「はい。あの、マスターは」 「俺はまだここにいる。こいつの整理をしないといけないからな」 「宿帳の整理ですか」 「ああ」 カウンターに置かれたカップの周りには、数枚ずつ重ねられた羊皮紙、そして青い革表紙の分厚いノートが開かれている。羊皮紙には名前、年齢、出身地、旅の目的、職業、さらには手形を持っているものには手形の通し番号までも記入する欄があり、宿泊客たちそれぞれの字で必要事項が書き記されている。宿のあるじでもあるマスターは一年に一度、それらを宿帳にまとめて記入してギルドに報告する仕事がある。 「この仕事が一番めんどうだな。いちおうその日受け付けた客のぶんは書いてあるが、ギルドの監査官は不審な宿泊客にうるさいんだ」 「不審な……」 「平たい話、住所も身分も出身も不明の怪しい奴を多く泊めている宿は、問題ごとを多く抱えてるんじゃないかって聞かれるのさ」 「え。じゃあ……あのう、わたしみたいな者のことを」 「そういうことだ」 リラがうろたえていると、マスターは笑ってシャツをまくりあげた太い腕を伸ばし、数枚重なった羊皮紙のうちの一枚を抜き出した。 「まあ、この紙で聞かれていることを全部書いてくる奴もそんなにいないさ。たいがいの奴はどこかしら空く。全部書いてあったって嘘かホントかわかりゃしない。他の奴らの迷惑にならなければ、俺は誰であっても泊める。ギルドへの報告なんてのは二の次でいいさ。だが」 それはうっすら黄ばんだ紙で、名前の欄にだけよろけた青インクの文字で「リラ・アプリコ」と書かれている。 「明日やってもらおうと思ったが、今でもいいぞ。今のお前なら、ほとんどの欄に書けるだろう。書きたくなければ抜かしといておけばいい。他のお客みたいに俺が適当に書いておくさ」 「マスター……はい、すぐ書きます」 リラはカウンターに立てられている羽根ペンをとって、書き間違いのないよう、ゆっくりと用紙に書いていった。 「出身地・アトランティーナ、年齢・十七歳、職業」 「はは、そうやって声に出して書くくせはここに来た頃から治らないんだな」 「え。また出てました?」 「ああ。ま、いいんじゃないのか。うるさくチェックする奴もいないし、そいつが誰かへのラブレターでもない限りは」 「まあ。いくらわたしだって、そんなの声に出したりしません」 しかしマスターは内心、リラ・アプリコならいつものおっとりした調子で恋文すらも声に出しつつ書いてしまうかもしれないと思った。酒場の雑用としてじゃがいもの皮むきをいいつけておいたら、親切にもじゃがいもどころかにんじんや茄子、皮がとくにおいしい美味きのこに至るまで表面をきれいにこそげとってしまった彼女のことだ。 「一年前のわたしの字……よろよろですね。もしこの紙をギルドに出すなら、二度書きしてるってすぐばれそうです」 「はは。そりゃあそうだな」 一年前の四月に冒険者宿にやってきたリラは、かんたんな文章はおろか文字すら書けなかった。その時点では記憶とともに失われてしまったのだろうということで、仕事を終えた後、お客の少なくなった酒場や部屋の机で子供向けの教本と小さな黒板を広げてひっしで文字を勉強した。メモを持ち歩いて、気になったことばはすべて書きとめて、後で誰かしらに意味を尋ねた。 リラは残りの欄を埋めてマスターに紙を差し出した。職業と旅の目的の欄は空けたままで。マスターはそれにざっと目を通して、わかった、とだけつぶやいて再びもと重ねてあった羊皮紙の上にそれをおいた。 「こうしてみると、ほんとうにいろんな人がいますね」 「そうだな。一番多いのはこの辺や王都のやつらだが、南の砂漠から来ている奴も、北のカナ山越えをするやつもいる。お前さんのアトランティーナがある東の国からきたやつもいるよ」 「そんなにたくさんの人がここに……」 「ここだけじゃないさ。まあ、きまった出身のやつらばっかり集まる宿はあるが、旅人相手の宿ってのは分かれ道みたいなもんだからな。道が偶然交わって、偶然みつけた場所で休んでいく。ほとんどばらばらさ。ここに泊まるってこと以外はみんな、それぞれの目的がある」 国別に重ねられた羊皮紙の量にリラは嘆息した。めちゃくちゃな殴り書きの字もあれば、丸っこい小さな文字や、コロナでは使われていない異国の文字もある。それはその下にマスターの字で、この周辺で用いられている文字で訳されていた。客の文字を訳しているものの中にはリラの字や、本来宿の受付を担っているが、今はとなり街に出かけていて留守のマスターの兄の字もある。 「あ」 そばに重ねられていた羊皮紙の一番上にあった名前に、リラの青い目が釘付けになった。 「なんだ、リラ?」 「いえ、あの、わたしと同じ名字のひとだなって思って」 うす茶色に変色している紙には、右に傾いたきれいな文字でマゼンタ・アプリコと書かれている。年齢は六十七歳。出身は空欄。旅かつてこの宿に泊まってどこかに去った旅人。四月、リラがとっさに名字を拝借した顔も姿もわからない人。今ふたたび目の当たりにするなんて、どういうめぐりあわせだろうか。リラは古びた宿泊カードから顔をあげた。 「だいぶ前に泊まった方なんですか?」 「ああ、マゼンタのばあさんか。そうだな、俺がまだここに立つようになってすぐだから、二十年くらい前か。旦那に先立たれて、遺産で冒険旅行に出ることにしたんだと。お前と同じで、ここに滞在して依頼受けていたんだ」 「まあ……元気な方なんですね」 リラの指が老婦人の書いた文字をなぞる。旅の目的は、観光。マスターは遠いまなざしで時計の針をみつめている。 「ばあさん、心臓の病気もちでな。酒で薬流し込んでたが、たぶんあれは長くなかった」 指が止まった。宿を出る日はたしかに書かれている。 「マゼンタさんは」 「ここのやつらが心配するのがうっとおしいっていって、出て行ったよ。けどばあさんの乗った馬車が霧にまかれてな、馬車に乗っていた奴らもばあさんも、それっきりどうなったのかわからない。 まあ、そんなことは他の奴らも同じだがな。この宿を出たら、また泊まりに来るときまで、生きてるかどうかなんてわからない。残るのはこの紙きれと、忘れ物くらいだな」 「マスター」 「まあ、宿屋なんてそういう商売だ」 「そうですか……さっき、カップを持ってきたときのマスターの顔、なんだかとってもやさしかったので、どうしてなんだろうって思ってたんですけど……なんとなくわかりました」 開きっぱなしの宿帳には、マスターの字でびっしりと宿泊者の名前や出身、職業が書き込んである。その一つ一つの項目が、マスターの心にしまいこんである数え切れないほどの宿泊客との記憶なのだろう。 素泊まりだけでさっさと次の街へ行くもの、コロナが気に入ったというだけで半月以上も泊まり続けるもの、ことばがわからないもの、子供の頃あこがれた職業についているもの……どこまでが本当かわからないけれど、ばらばらの出身と職業の宿泊客たちは、一度はこの場所で名前を残した。マスターはそれぞれの人生が重なるこの冒険者宿と酒場に立つ。それが彼の商売だ。 そして同時に、リラは古びた羊皮紙に書かれているアプリコという文字がいとおしかった。 文字にすぎないとしても、一年前にリラがこの名を見かけなければ、別の名を名乗っていたかもしれない。今と同じ道をたどることはなかったかもしれない。 (アプリコさん、ありがとう) 心の中でリラは、霧の向こうに消えた冒険者にそっと感謝のことばをつぶやいた。 「リラ」 酒場につながる扉が開いて、モスグリーンのセーターを着た赤毛の女が顔を出した。バレンシアの町から旅をして、コロナに滞在している剣士レティルだ。赤い竜の手がかりを探しているという話だけは聞いていた。 「戻ってこないからどうしたのかと思ったわ。こっちはもう鍵しめちゃうけど、どうする」 「あ、ごめんね」 「そろそろ寝てこい、リラ。明日が休みってことは、朝から洗濯するつもりなんだろう」 ずばり言い当てられたリラは、照れ笑いするしかなかった。週末に洗濯用のたらいを使うのは、滞在している客の中でもリラだけだ。 「それじゃあ、おやすみなさい。マスター」 レティルとともに階段を上がる。外からの光が入らない夜の廊下は暗く、空気も冷えこむ。暗がりにもわかる白い息を吐いて、レティルは背伸びをした。 「マスターも大変ね、夜通し起きてないといけないなんて」 「明日の朝にお兄さんが帰ってくるから、それまでの辛抱ですね」 「そうでしょうね。ところであんた、来月もここにいるの? あたしはまだいるつもりだけど」 レティルは廊下の突き当たり、二〇五号室。リラの部屋はその左斜め向かいの二〇三号室。それぞれの扉の前に立って別れ際のあいさつの代わりにそう尋ねられたリラは、すこし考えてからうなずいた。 「はい、もう少しだけお世話になります」 宿賃は安くない。部屋を借りて住むほうがよほど安くつくのはわかっていた。だが、リラはあの羊皮紙と宿帳に書き込まれた文字、そしてマスターのやさしい黒い瞳が忘れられなかった。 これからどうしていくか。それがはっきり決まるまでここにいよう。それこそが、この一年の宿賃よりマスターが自分に求めているものだろうから。 「それがいいよ」 レティルはリラのほほ笑みに切れ長の目をほそめた。 「あんたがいきなり出て行くなんていったら、マスターはさぞびっくりするでしょうよ。……顔じゃ笑っていてもね」 そうして彼女はおやすみ、と言い残し、ドアの向こうの暗い部屋に行ってしまった。リラはやわらかな格子柄のショールを胸の前に手繰り寄せ、はあっと手に息を吐きかけた。そのあたたかさが消えないうちに、冷え切った真鍮のノブを握りしめた。 |
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あとがきという名のたわごと >>> 花 -- 06/11/06-01:46..No.[964] | |||
青い竜編終了後のお話です。私家版青い竜編は(蛇足にほのめかしてありますが)リラさんはコロナに戻ってくる設定になってます。こんなラストで付け加えんなよって感じですが(笑) 今回はマスターのお話……というか、宿帳のお話です。 旅人の情報いっぱいの宿帳は、宿の毎日と宿泊客の残した名前で、そのうち世界地図だってかけそうなほど豊かなものに思えます。字数ばかりが多いお話ですが、ここまで読んでくださったみなさまに心から感謝いたします。 | |||
>>> べに龍 -- 06/11/23-17:26..No.[966] | |||
そうか…冒険者宿も、宿である以上、宿帳があるはずですよね。 そして、その一見無味乾燥な名前の羅列の中に、いろんな話が潜んでいて…見落としていましたので、ちょっとした驚きを持って読めました。 それに、相変らず、情のあるお話ですね…楽しませていただきました。 | |||
>>> 花 -- 06/11/25-01:44..No.[967] | |||
べに龍さん>お久しぶりです! レスありがとうございます。 旅先で必ず宿泊カードなりや宿帳を書くので、それならと思ってお話にしてみました。なんだか、かえるキャラのお話というよりお話をかえるキャラが演じてるような仕上がりになってしまって、微妙なところだろうと思っていたのですが……情状酌量の余地はあるようで、よかったです(笑) へっぽこな話ばかりですが、今後もぽつぽつ投稿はしたいと考えておりますので、よろしくお願いします。 | |||
はじめまして! >>> yumi -- 06/11/26-00:52..No.[968] | |||
はじめまして、花さん。 いきなりの感想失礼いたします。 宿帳からとっさに名を拝借したリラさん。ふたたびその宿帳を目にしたことでよみがえる一年前の風景…… 読みながら、どこかこう、心地良い懐かしさに包まれるような、そんな印象が感じられました。 切なさも少々、けれどもじんわりあたたかい……とても素敵なお話だと思いました(^-^) ご投稿直後に拝読していたのに、私事でバタバタしており遅いコメントになってしまい申し訳ありません。 やはり感想は感動したらその場で送らねばー!!(><) | |||
とんでもないです〜! >>> 花 -- 06/11/26-22:27..No.[969] | |||
はじめまして、yumiさん。じつはサイトの方には何度かお邪魔させていただいておりますので、初かどうか微妙ですが(笑)感想ありがとうございます。 現在進行形で物語が進んでいくお話もすきなのですが、私はわりとこういう完了形のお話がすきで、よく書いてしまうんです。懐古趣味になりすぎないよう明日に前向きでいたいと思うのですが……あまり先のお話を書きすぎるとここに載せられないほどオリジナルの二年目をぶちかましてしまうので、それは後々どこかにかんたんなサイトを作ろうと思っています。 じつは、yumiさんのサイトに載せてある台詞集や小説も参考にしています。これからもお話、楽しみにしています♪ | |||