Heinkel He S-3B |
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Hans Ohain博士は1935年の初頭にまずはプロペラ無しの推力発生装置のPatentの調査を開始した。ただGuillaume博士, Frank Whittle博士のPatentを確認するまでには至らなかったが、1937年にはWhittle博士のPatenを確認した。Hans Ohain博士は経済的支援を得るため、小さなDemonstration Modelを完成運転しようと考え、自分の車の修理を依頼していた自動車修理工場に勤めるMax Hahn氏に自分のアイディアスケッチを見せ、Max Hahn氏のアイディアも取り入れ共同で1935年に最初のDemonstration Modelを完成させたが、Exhaustから火炎が噴き出す失敗に終わった。Fig1は1935年に収得したPatent。Max
Hahn氏は戦争中は終始Hans Ohain博士のJet Engineの開発に協力することとなる。[2] [9] |
Fig 1 |
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Fig2はパートナーのMax Hahn氏とDemonstration Model。Fig2,3からHans Ohain博士のEngineも板金構造であることがよく分かる。Fig3ではEngineの周りに細い燃料用のTubeが認められる。 |
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Fig2[1] |
Fig3[1] |
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He S-1 1935年11月Hans Ohainは博士課程を修了し、本格的にJet Engineの開発を進めるためGöttingen大学 Pohl教授の推薦状を持ってHeinkel社のErnst Heinkel社長に1936年3月17日に面会し、Jet
Engineのアイディアを説明したところ、好意的に受け止められ翌日には社内の技術者とも意見交換を行いHeinkel社でJet Engineの研究を行うこととなった。Hans Ohain博士も軸流Compressorの利点は理解していたが、簡素である利点を重視し遠心式をまず採用した。最初の問題は如何に効率的なCombustorを作り上げるかで、そのためには燃料を適切に噴霧する装置が必要になるが、まだピストンエンジン用のInjectorさえ開発されたばかりの時代なので信頼に足る噴霧装置はまだ無かった。当時はCompressorの研究はそこそこ始まっていたがCombustorの研究はほとんど始まっておらず、各社その開発には苦労している。Hans Ohain博士のアイディアは中空のVaneのTrailing Edgeに小さい穴をあけそこから水素を噴霧し燃焼させる方法を試し成功した後、液体燃料で運転出来るEngineを作るというものであった。Heinkel社長に計画の許可を得、1936年6月にMax Hahn、Wilhelm Gundermannと共に制作を開始し1937年2月にHydrogen
Engine He S-1(Fig4)は完成した。初試運転は1937年3月、He S-1をElectrical
Starter Motorにより加速させ2000rpmに達したころでIgnitionを点火し水素のValveをOpenし直ぐに自立運転を開始した。運転は比較的スムースで回転は10000rpmまで上昇し、推力は250lbと計算されている。Engine音も現在のEngine音とほとんど同じような音であったと後にHans Ohain博士は述べている。直ぐにHeinkel社長も寝間着姿のまま立ち合いを行い2回目の運転も成功裏に終わり、液体燃料のEngine開発へゴーサインが出た。[2] [9] |
“C”と示される部分が水素を噴霧するVane Fig4 He S-1 |
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He
S-3B Heinkel社内では1937年末にはHe-178の機体設計も開始された。EngineについてはMax Hahn氏のCombustorをCompressorの外側の空いている空間に張り出すことにより、Engineの全長を短くできるというアイディアを採用し改善を進めた。1938年にはHe S-3Aが完成したが必要推力を達成すること出来なかったため、流路を大きくしImpellerの前にInducer(Fig5の長方形のInlet
Guide Vane直後の部品、Fig9)を取り付けInlet
Lossを減少させることにより圧縮比を増大させたHe S-3Bを再設計した。1939年春に機体 He-178、Engine
He S-3B共に完成し1939年8月にはHe S-3Bは1000lbの推力を発生させることに成功した。ドイツ空軍省の助言により10時間の試運転を行った後、1939年8月27 He S-3B Engineが搭載されたHe-178は朝霧の中で世界初となるJet Engineによる6分間の飛行を行った。飛行は、通常プロペラ機で感じる、プロペラ自身の重量による加減速時のトルクを感じることはなく、ピストンEngineで発生するようなCockpit内の振動も無かったということである。試験飛行により、Turbine Inlet Temperatureは予測値より低くなることがわかり、Combustorも予測より広い範囲で運転可能であることが判明した。ただこの初飛行は公にされることはなく、ドイツ空軍省も特段の興味は示さなかった。その理由は5日後の1939年9月1日にはドイツ軍のポーランド侵攻が計画されており、軍は臨戦態勢を準備していたことによる。[2] [9] Fig6はEngineの後方からの撮影で、羽が大きく見える部品はTurbineである。 Fig7, Fig8に示されるようにFuel TubeはCaseの外側からCombustor内部に入り込み、そこで複数のTubeに分かれ、温度上昇しFuelの気化を促進し梯子状のNozzleに導かれCombustor内に噴霧される構造である。同じような仕組みをWhittle博士も初期のEngineに採用している。Fig5にもこのFuel Tubeが確認できる。 |
Fig5 |
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Fig6[4] Fig7 [3] Fig8 Fig9[9] Fig10 |
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Fig11-16 は2013年3月現在のMunichのDeutsches Museumに展示されるHe S-3BのMTUにより制作されたReplicaである。Fig15によりFuel Tubeの配置がよく分かるが、Fig15の左側上のTubeが中央に進み二股の分岐を繰り返しEngine中央のNozzleに導かれている。Fig15の左はTurbine側であり、Fig11の右側部分、その拡大写真であるFig10によりFuel TubeがTurbine軸受付近の歯車状の部分に接していることが分かる。おそらくこれがFuel Pumpで燃料をここから吐出していると推測する。現代のEngineはFuel Controlを非常に細かく行うがこのEngineはただ単純に回転に応じた燃料を吹いていたものと考えられる。Fig16の展示の全景になるがこの金属で出来たダルマ状の物体が現在の世界経済に欠かせないJet機の先駆けとなっている。 |
Fig11 Fig12 Fig13 |
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Fig14 Fig15 |
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Fig16 |
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参考Web [3]Gas
Turbine Images from Palolo Pisani [5]Elements of Propulsion :Gas Turbines and Rockets [8]A Birthday, One Hundred Years Ago [9]Pioneering Turbojet Developments of Dr. Hans Von Ohain—From the HeS 1 to the HeS 011 |