Chinese Aviation Industry
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中華人民共和国建国後、朝鮮戦争が勃発し北朝鮮の支援のため以下の方針が立てられた。 沈阳飞机厂と沈阳航空发动机厂がEngineを含めたJet戦闘機の修理、製造。 哈尔滨飞机厂と哈尔滨航空发动机厂がEngineを含めた爆撃機の修理、製造。 南昌飞机厂と株洲航空发动机厂がEngineを含めたPiston Engine練習機の修理、製造。 それぞれの機体製造工場の沿革を以下に示すが、現在は軍用機生産部門グループである中国航空工业集团公司 AVIC (さらにEngine製造、戦闘機製造を主に担う中国航空工业第一集团公司 AVIC
Iとヘリコプター、輸送機を主に担う中国航空工业第二集团公司 AVIC
IIに分かれている。)と民間機生産部グループ中国商用飞机有限责任公司に大まかに2分され以下の製造部門の中で沈阳飞机厂から陝西飞机厂までは中国航空工业集团公司に属し従業員40万人を擁している。 ここで中華人民共和国の歴史の中で文化大革命は大きな出来事であり航空業界でも以下のような影響を受けた。 1960年までは旧ソ連の支援の基に順調に旧ソ連製の機体の試作、製造を行っていた。しかし中国の航空教業界も1960年代初期から70年代中期までの文化大革命の影響を避けることは出来ず、逆に被害の大きかった業界の一つであった。1967年1月以降航空関係の役所、事業体の指導グループは全面的に権力を奪い取られ冤罪の罪に陥れられた。専門職工も迫害を受け死に至る者もいた。製品の品質問題が発生し製造されたミサイルも工場に留め置かれ、正常な研究、新造機の開発は全く混乱に陥った。1971年の開発機はわずか27種でありその中には長距離爆撃機、大型輸送機、ヘリコプターもあったが、三面図も無くただ要求のみが存在し3年以内の結果が求められた。航空機の性能要求についても首脳部が定める性能要求は朝夕で変化し常に過大な要求が設定された。そのため研究費および技術人員の分散、研究周期の長期化を招くことになる。1966年歼-7(J-7)の試作は成功したが、生産型の重要性が過小評価され本格生産は10年後となった。歼-8(J-8)、運‐7(Y-7)、運-8(Y-8)の研究期間は10年以上に及んでいる。影響は生産部門に留まらず、教育部門にも及んだ。高等院校、中等専業学校、技術工学校、職工学校の教育はすべて停止し人材育成が止まってしまうこととなった。このような状況に対処するため1969年周恩来国務院総理は幹部に段階的な回復ではなく早急な回復を目指すように指示し、文化大革命推進派を排除しながらRolls Royce Speyの技術導入を行った。その後はケ小平副総理が中心となり混乱を収拾し1975年には大多数の企業で目標を達成できるまでに至った。 |
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沈阳飞机厂 1955年 歼-5(中国版Mig-17) 試作開始 1956年5000人規模の工場 1958年 歼-6(J-6)(中国版Mig-19)試作開始 1964年 歼-7(J-7)(中国版Mig-21)試作開始 1965年後半 歼-8(J-8)(Mig-21を双発にした中国独自戦闘機)試作開始 1980年沈阳飞机公司へ組織改編 現在は沈阳飞机工业(集团)有限公司へ組織改編され戦闘機の開発生産を主に行っている。 |
1956年9月 沈阳飞机設計室 1961年 沈阳飞机設計研究所へ組織改編 13設計室、3試験室、1実験工廠 1962年5月Mig-21の技術研究開始 1964年10月歼-8(J-8)の設計開始 1978年 歼-8I(J-8I)の設計開始 Fig 1 J-6 |
哈尔滨飞机厂 1957年 轟炸六型(H-6)
(中国版Tu-16)完成(これは部品をソ連から供給を受け、組立を中国で行った。 1963年 轟炸5型(H-5)
(中国版IL-28)試作開始、生産 1973年 水轰-5 (飛行艇) 試作開始、生産 1975年 運‐11 開発開始、生産 1980年 運-12 開発開始、生産 現在は哈尔滨飞机工业集团有限责任公司へ組織改編され輸送機、ヘリコプターの開発生産を主に行っている。ERJ145の生産も行っている。 |
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南昌飞机厂 1951年5月航空機修理工場として設立。中国でもっと早く建設された航空機工場。 初教5飞机、初教6飞机 製造 1957年 運-5(Y-5) (中国版AN-2)
試作開始、生産 1958年 歼-6(J-6)(中国版Mig-19) 製造開始 1958年 強5(Q-5) 試作開始 生産 1969年 歼-12設計製造、戦闘火力、推力低く失敗作となる 現在は中航工业江西洪都航空工业集团有限责任公司へ改編され、近年まで強5の生産また練習機の開発生産を主に行っている。 |
Fig
2初教6 |
成都飞机厂 1964年 歼-5甲 沈阳飞机厂支援の基に試作完了 1964年 歼-7(J-7)(中国版Mig-21)沈阳飞机厂支援の基に生産開始 1966年 歼教-5 生産開始 歼-7改造型を多数製造 1979年 成都飞机公司に組織改編 現在は成都飞机工业(集团)有限责任公司へ改編され、戦闘機の開発生産を主に行いまた多くのBoeing, Airbus社の部品製造を行っている。また上海のリニアモーターカーの生産も行っている。 |
Fig 3 J-7 Fig 3 MD-82/83のNose製造風景 |
贵州飞机厂 1964年 歼-7(J-7)(中国版Mig-21)沈阳飞机厂支援の基に生産開始 19xx年 歼-6甲(中国版Mig-19) |
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西安飞机設計研究所 1966年 運‐7(Y-7) 試作開始、1970年に初試験飛行成功。1982年正式生産開始。Y-7は中国初の国産中型輸送機として位置付けられ民間機なので安全性、経済性、使用寿命の試験に時間を要した。1982年4月4日に行われた単発での着陸試験は重要な試験として位置付けられている。 西安飞机厂 1968年 運-8(Y-8) 試作開始、1974年12月25日初飛行 1984年 Boeing 737 Vertical Stabilizer製造開始 現在は西安飞机工业(集团)有限责任公司に改編され、爆撃機、戦闘機、輸送機と広範囲な機種の開発生産を行っている。近年は大型輸送機運‐20(Y-20)の開発を行っている。 |
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陝西飞机厂 西安、哈尔滨に次ぐ第3の輸送機生産工場として1960年代に建設開始された。Y-8の生産は陝西飞机厂で行うとこととなり1980年2月より正式に生産が開始された。 現在は中航工业陕西飞机工业(集团)有限公司に改編され、運‐8(Y-8)の生産を行っている。 |
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上海飞机設計研究所 1973年6月 4基のEngineを装備し約170人乗りの運‐10(Y-10)開発開始、1980年9月26日初飛行。中国各地を巡回試験飛行を行いTotal Cycle 121, Total Flight Hour 167, Total Flight 3600km, Max
Flight Hour 4Hr49min, Max Alt 3540mの飛行を行った。2機製造されたが計画は中止された。EngineはJT3D-7を4台装備。Y-10は中国ではFAA ACに従って設計製造されたと機体と記録されている。 上海航空工業公司 中国の海外からの民間機部品生産受託は1979年から始まる。最初はDC-9のLanding Gear Bayの製造を上海航空工業公司の前身である上海飞机厂で行い計100機分の部品を納入した。 1985年 McDonnell
Douglas社とMD-82の製造契約を締結、McDonnel Douglas社から部品の供給を受け25機の組立製造を1991年まで行い全機中国民航に引き渡された。このMD-82はFAAの耐空証明を有した。 1989年3月McDonnell
Douglas社と10機のMD-82/83製造の追加契約を行った。5機は中国民航に引き渡され、5機は米国の航空会社に引き渡された。 1994年11月McDonnell Douglas社と20機のMD90-30の製造を合意したが、McDonnell Douglas社のBoeing社との合併による機種削減方針の影響を受け実際は2機の完成のみで契約は完了した。2機はそれぞれ1999年10月、2000年3月に中国北方航空に引き渡された。 現在は上海飞机制造有限公司に改編され、ARJ21(CF34 Engine装備), C919(CFM56 LEAP Engine装備),民間輸送機の開発生産を主に行っている。 |
Fig 5 Y-10 Fig 6 生産ラインのMD-82 |
Airbus
天津工場 Airbus天津工場はAirbus社のヨーロッパ外の唯一のAssembly工場である。2009年6月にA320の1号機を完成させ2014年6月までに172機を出荷している。 この工場は当然純粋な中国資本工場ではないが中国における航空工業発展の重要な側面であるので本Pageに記す。 以下はChina
Dairy2012.6.14、China
Dairy 2014.6.17からの写真。 Fig 7 Airbus天津工場のA320 |
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参考Web [1]中国航空史 大象出版社 [2]中国航空 北京航空航天大学出版社 [3]当代中国的航空工業 中国科学社会出版 |
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