28年度下期「トークサロン」第1回

 

   『厚木市小野の小町神社に伝わる「伝説」を調べる』

 

 H28年度下期第1回厚木稲門会「トークサロン」が、1120日(日)1200

からレンブラントホテル1階 中華レストラン「トルファン」にて開催された。

 スピーカーは岡部 清さん(S27年 文)。

テーマは『厚木市小野の小町神社
に伝わる「伝説」を調べる』


 先ず、小町神社の祭神小野小町についての伝説から説き始められた。“小野”いう地名は日本各地に多くあり、おそらく小町伝説もそれら地名と何らかの相関関係を持って、複数ケ所で存在しているものと考えられる。今回は小町伝説の本場とも言える秋田県の雄勝町小野(厚木市の姉妹都市、横手市の南に位置する)に伝わる小町伝説に先ず触れられた。

 小町の生没年は不明であるが、一般的には、平安前期(9世紀中頃)の歌人で、六歌仙の一人と数えられ、絶世の美女であったと伝えられている。出羽の国の郡司小野良真と土地の女性との間に生まれた娘で、姉があったという。父親は美しい次女の方を京に連れて帰り、朝廷に出仕させた。35歳で故郷に戻り、91歳まで生存したと伝えられている。

 

 さて、一方、厚木の小町神社の伝説は?

当日、配布された資料から、一つの物語が浮かび上がる。資料@は、安政7年3月(1860年)、小町明神社縁起として、別当、宮野院の名前で記されているもの。

又、資料Aは、明暦2年9月(1656年)、妻田にある薬師堂本尊大縁起として書かれたもの。この@、Aの資料の年号からも明らかなように、Aの方が古い資料であり、@はAを参考にしていることも明らかである。

 

 その内容とは、@については以下のようである。

鎌倉が都であった時、丹後局という世に並びなき美女がおり、頼朝の寵愛を受けていた。そのうち、頼朝の子を懐胎したため、頼朝の妻政子は、激しい嫉妬にかられた。そこで、畠山重忠に由比ヶ浦にて、局の首をはねるよう命じたのである。

重忠はこれをあわれと思い、家来の本多次郎に命じ、局の身代わりを立てたのである。(これとて、ひどい話であるが・・・)

 その頃、小野の里には重忠の乳兄弟の川上酒匂という者がいて、局はそちらにかくまわれていたのだが、そのことが、いつとなく政子の耳に入り、その怒りは大変なものであった。このことを知った丹後局は、にわかに白髪の姿となってしまった。乱れる心を鎮め、“俤のかはらてとしのつもれかし、たとへ命に限り有りとも”という小町の歌とされる古歌を短冊に認め、身心を清め、七日七晩、小町を一心不乱に念じたところ、たちまち元の黒髪となった。まことに霊験のあらたかなるを感じ、則ち、小野村の村中に小町の霊を勧請したのである。

 

 以上が、古文書に見る厚木の小町神社の縁起の概要である。

ところで、参考とした妻田薬師の縁起には、丹後局が日頃信仰していた薬師の御利益についての内容が、多く記され、黒髪となったという記述は見当たらない。

が、子供が生まれ、その子が後の島津氏の祖となるという経緯が書かれている。

今回、厚木の小町神社に伝わる丹後局についてのお話を伺い、日本のいろいろな地域の伝説の興味深い成り立ちの一端を見たような気がする。

 

 いにしえ、人々の霊性は今よりも格段に秀れており、自然との共生の中で、様々なものを感じ、見ることができたに相違ない。住んでいた土地への強い愛着がロマンを生み、時に美しき物語へと昇華したのであろう。世界のあらゆる情報が瞬時に飛び交う現代、かってのような懐かしくも美しき世界に、私達は遊ぶことができるであろうか。

 

今回も美味しい食事を頂き、初のコーヒータイムもあり、新たな話題も出て、もう少し時間がほしい・・・との思いだった。

厚木市は比較的早い時代から、交通の要衝であり、多くの人々が行き交った町である。市内のいろいろな場所に興味深い伝説が残っている。古墳時代の事、毛利氏の話、江戸時代の厚木等々、ぜひ、いつかまた“トークサロン”でと、思ったことであった。

                                          (S41教育 中川匡子)