ペトロ 晴佐久 昌英
「隠れた所におられる父」というキーワードが出てきました。 では、隠れた所ってどこですか? 目には見えない所ですね。 目には見えない、しかし、確かにおられる父、そういうことです。 そのような天の父の、愛のまなざしに目覚めることが、この四旬節の目的です。 いつも見えるものしか見ていない私たちですが、四旬節には、見えないけれど確かにおられる天の父が、私達をいつも見守ってくださっていることを信じます。 そう信じると、どんないいことがあると思いますか? もう、だれかに自分をよく見せる必要がなくなるってことですよ。 神様にちゃんと自分そのままを見ていただいてるんだから、無理して苦労して、他の誰かに自分をよく見せなくても、平気になる。 人から評価してもらう必要がなくなる。 私たち、いつも人から褒めてもらいたくて、受け入れてもらいたくて、認めてもらいたくて、頑張ってますけど、そんな無駄なことをしなくて済むようになる。 これ、楽でしょ? 人の目をまったく気にしない。 何を言われようと言われまいと。 ほめられようと責められようと。 そんな事に一切関係無く、すべてを見ておられる神さまの愛のまなざしだけを信じて生きる。 天の父は、この私を愛しているし、私の全てを、親の愛をもって見ていてくださる、そんなまなざしの中で、私たちは、自由になれます。 今日の午後、映画見てきました。 LA・LA・LANDです。 アカデミー賞の授賞式で、「作品賞は、LA・LA・LAND」って発表されて、関係者が喜んで出てきたら、なんと発表が間違いだったという事件もあって、かわいそうでした。 でも、今日見てきて思いましたけど、あれが作品賞だったら、ちょっと違和感があります。 もちろん、よくできたいい映画ではありましたけれども、なんだかな〜、っていう気になったと思う。 どうしてかっていうと、今、世界が大きく変わりつつある時に、ハリウッドのサクセスストーリーって、なんだかちょっとシラけちゃうってことなんですよ。 あ、まだそんなことやってんの?って。 やっぱり、この激動の現代社会を超えていく、新しい夢を、チラッと見せてくれないとね〜。 もちろん、映画自体は凄くよくできてますよ。 私、ミュージカル映画大好きですから、そこは、うれしかった。 ワクワクするし、しみじみするし、ぜひごらんになったらいいと思う。 もう、冒頭5分でね、打ちのめされますよ。 ホントにビックリした。感動しました。 思わず、涙しましたよ。 「これがミュージカルだ!」って。 よく、「ミュージカルが苦手だ」って言う人いるじゃないですか。 確かに、急に歌いだしますからねえ。 「いやいや、そこで踊らんだろ」ってツッコミ入れたくなったり。 だけどね、私に言わせれば、人は、ほんとは、いつでもどこでも、歌いだしたいんですよ。 自己表現したいんですよ。 今のつらい思い、沸き起こる嬉しい思い、それを思いっきり表現したいんです。 でも、そんな才能もないし、突然歌っても笑われるからやらないだけであって、ホントならね、みんな、今すぐにでも、歌いたいんです。 踊りたいんです。 実は、それは人間の本質です。 ミュージカルはね、そんなみんなの夢を実現してくれるんです。 私だって今、できるなら、説教するよりも、ここで歌って踊りたい。(笑) でも見たくないでしょ?そんなの。 「おい神父、どうした」って話になりますよ。 「やっぱりね。晴佐久神父、ついにあっちの世界に行っちゃったか」(笑)って。 まぁ、時々行っちゃいたくなりますけれども。 でも、それができないから、ああいう映画がそれをかなえてくれる。 かなえてくれるから、我々は感動する。 僕らは、結局、自信が無いんですね。 我々は、もっと自分を表現するべきだし、表現しなきゃならないのに、自分なんか表現しても・・・って。 でも、自分を表現することって、神から与えられた使命です。 自分の価値とか、生きるすばらしさとか、そう、何よりも、自分の夢を表現すること。 夢に向かう熱い思いを、歌って、踊って、表現すること。 それは人間だけに許されていることです。 あの冒頭5分、ぜひ見たらいい。いきなり歌いだしますよ。 その5分で、みんなノックアウトされますよ。 5分間、長回しなんですよ。 ワンカット。 舞台は、ロサンゼルスに向かうハイウェイなんですけど、大渋滞で、駐車場状態。 まさに、ロスという夢のシンボルになかなか到達できないっていう暗喩ですけど、そんな車の中で、一人の女性が歌いだす。 歌いながら車の外に出ると、他の車からも大勢出てきて、一斉に歌いだす、踊り出す…。 これがすごいんですよ。 カメラが縦横無尽に、あれ、どうやって撮るんだろう、カメラが360度にパンして、寄って、引いて、車の隙間を通り抜けて・・・。 あの5分間、まさに奇跡ですねぇ。 見事というか、興奮したというか、ワンカットっていうのはやっぱりかっこいいね。 あれだけの場面撮るのに、どれだけの人が準備して、協力したか。ああいうのを見ると、人間っておもしろいな〜っていうか、やっぱりすごい生き物だなって思う。 夢みることこそ、人間の本質です。 ただね、肝心なことは、じゃあ、僕等は何を夢見ているのかですよ。 究極的には、何らかの楽園なんでしょうけど、じゃあその楽園の究極の喜び、真の平和とは、どういう状態なのか。 それを本気で考えずに、目先の楽園だけ求めるなんて、あまりに幼稚でしょう。 でも、私たち、そんな安っぽい楽園を求めてるんじゃないですか。 それで幸せになれるって、思い込まされていませんか。 LA・LA・LANDは、ハリウッド女優にあこがれる主人公の、言うなればサクセスストーリーなんですけど、まぁいわゆるアメリカン・ドリームってやつですね。 がんばって情熱傾けて、オーディションに合格して、有名になるみたいな話。 だけど、そんなような話、今まで随分見てきましたよね。 もういいよって気がしませんか? そもそも、何でアメリカって、アメリカン・ドリームとか言い続けて、執拗に夢をかなえていく話を、賛美し続け、再生産し続けるのか。 それは、たぶん、本物の夢、本物の成功を、見出だしていないからです。 新天地を夢みてアメリカに渡ったけど、本当の楽園を、見つけていないからです。 でも、たとえ幻でも、何か目指す目的がないとみんなの心が一つにならなくて、国家が成立しないから、とりあえず、女優で成功とか、仕事で成功とか、そんな程度の事を最高の夢だと思い込みたいんです。 LA・LA・LANDとは、よく言ったもんですよね。L.A.ですからロスでしょう? あそこは、ほんの数百年前まで何にも無かった。 ネイティブアメリカンが幸せに暮らしていた土地。 そこに、自分達に都合のいい国を作ろうとしてやってきた人々が、先住民を追い出して、そこで開拓して生きていくのはいい事なんだ、がんばって努力して、成功していく事が、我々の使命なんだと思い込んだ。 そう思い込むためには、神話が必要です。それこそが、アメリカン・ドリームの本質です。 それは、人間の欲望を肯定する夢。その夢に、いつの間にか、全世界が洗脳されてしまいました。 しかし、そこには、神のまなざしが見当たらない。 人のまなざしばっかり。 人から認められる女優であるとか、高学歴で褒めそやされるとか、金持ちになって豪邸に住むとか、それを夢のゴールにして、自己正当化した。 実際には、ホンの一握りの人しかそうなれないのに、それを求めることがいい事なんだと、映画などの文化で、執拗に人々の心に植えつけた。 でも、もう、そういう時代は終わろうとしているんじゃないですか。 本物の夢、本物の成功、それは神様のまなざしの中にのみあります。 神が見ておられる、その神に見ていただくことで、私は私になれる。 それはもう誰のまなざしでもない。 神のまなざしの中でのみ、私は成功するんです。 神が見ておられるから私は安心し、神のまなざしの中でのみ、私は本物の夢を見られるんです。 そんな神のまなざしを知ってる者だけが、だれの目も気にせずに真の自由を生きられます。 私は、そういう自由に憧れます。 誰から褒められようと、けなされようと、もはやどうでもよくなる。 そんな事の為に、この短い人生を捧げる訳にはいかないのです。 隠れた事を見ておられる天の父は、私の弱さを、汚さを、全部知っておられます。 知った上で、「そんなお前を好きだよ、愛しているよ」と言ってくださる。 「そんなお前を使って、この世界に小さな幸せをもたらそう」と願っておられる。 そんな神様のまなざしの中で、私は神の国をこそ夢みて、そこに自分のすべてをゆだねたい。 神を知らないこの世界は、必死に人の賞賛や、拍手や、報酬を求めているけれど、そんなもの、風に吹き飛ばされて跡形もなくなるようなものです。 そんなものを得たとしても、それは本当の幸せではありません。 イエス様の言い方だと、「彼らはすでに報いを受けている」ってことになる。 つまり、この世のものを求めて、この世の人たちに見てもらって、この世で報いを受けちゃって、そんな報いでいいの?って、イエス様はそう言ってるわけですよ。 「まあ、なんてすばらしい神父様かしら」、なんて褒められたら、それは、もう報いを受けちゃったってことになり、天の報いがなくなっちゃう。 ・・・あぁ怖ろしい怖ろしい、そんな称賛いらないから、天の報いをくれ、と私は言いたい。 第1朗読、(ヨエル2・12―18)ご覧下さい。 13節です。 「主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられる」そういう方なんです、主とは。これこそ、隠れた所におられる天の父ですね。 恵みに満ちて、憐み深く、忍耐強く、慈しみに富んでいる。 目には見えないけれど、そういう方に、我々は立ち帰るべきなんです。 この世の目に見える恵み、そんなものいらない。そんなものは、吹けば飛ぶようなものです。 神の恵み、神の憐れみ、神の慈しみ、それが欲しいね。 っていうか、それがもう与えられている事、そこに私たちは立ち帰る。 これが四旬節。 喜びの時ですね、その意味では。誰から嘲られようとも、主イエスのように天の父にのみ祈って、希望を置いて、神の国に向かって生きる、それが、最高の夢です。 その意味では、「アメリカン・ドリーム」なんて言ったって、まあ、ケチな夢ですよね。 華やかな表彰式でトロフィー手にするのも悪かないけど、しょせん砂上の楼閣ですから。 ロサンゼルスって、私も何度も行った事あるけれど、砂漠の端っこでね、まさに砂上の楼閣。 この世につかの間の夢を作って、それが素敵だと思い込んで、気が付いたら、もっとも目指すべき夢を見失っている・・・。 第2朗読(2コリント5・20―6・2)を見てください。 パウロの真骨頂ですね、「神と和解しろ」っていう。 「今がその恵みの時だ、今がその救いの日だ」と。 今、それに気付かなかったら、いつ気付くのか。 四旬節の間、恵みの日を生きていきましょう。 今が救いの日だと信じてやっていきましょう。 世界は大きく変わりつつあります。 今までの常識は通用しない。 これからは、神の国の常識こそが、ホントに必要とされる時代が来ています。 キリストの教会にこうして集まって、今日から四旬節を始める私たちは、神に選ばれたものです。 アメリカン・ドリームならぬ、神の国ドリームを夢見ましょう。 LA・LA・LANDならぬ、イエス・ランド、キリストの王国、天の父の御国をこそ、我々は歌って踊って表現しましょう。 そのように人は創られているんだし、そのように召されております。 隠れた所におられる父の、暖かいまなざし、感じますか?) |