|  セバスチャン 西川 哲彌 
 キリスト教系の幼稚園や、保育園ではクリスマスを迎えるにあたって、聖劇が演じられているのではないでしょうか。
 身重のマリアをロバに乗せて、ヨセフが故郷であるベトレヘムに向かいます。
 少しでも休ませようと、ヨセフは宿を探します。
 しかし、どの旅館からも宿泊を断られます。
 仕方なく町はずれにある馬小屋に宿をとります。
 そこで、マリアはイエスを産むのです。
 そこへ羊飼い達がやってきて不思議な赤子を見に集まってきます。
 そして最後は三人の博士が星に導かれて馬小屋に辿り付き、飼葉桶に寝かされているイエスにひれ伏して拝み、持ってきた宝物を捧げるという展開です。
 一か月近く練習を重ねてきた演技を披露するのですから、なかなかのもので、つい涙が頬を伝うこともあります。
 救い主が町はずれの馬小屋で産声をあげるという、意外性と分かりやすさが、人の心をつかんで離しません。
 クリスマスの素晴らしさはそこにあります。
 それはただの分かりやすさや意外性ではありません。
 神様がなさった神様の心なのです。
 見捨てられたようなところこそ、神様が行かれるのです。
 そこがどんな所でどんな方々のいる場所かは、神様がよくよく御存じなのです。
 神様には見落としたり忘れたりされる事はありません。
 クリスマスはそれを証明しています。
 だからこそ、私達はクリスマスが嬉しいのです。
 そういう意味で、クリスマスは十二月二十五日に限られません。
 とりあえず、二五日ですが実際には365日毎日がクリスマスなのです。
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