|  セバスチャン 西川 哲彌 
 四旬節は、イエス様の荒野での試練を追体験しようという典礼です。
 イエス様は公生活に入られる前に四十日四十夜何もない砂漠のような荒地で修業されました。
 それは生命の限界に挑戦するような生活でした。
 3年間の公生活はこの四十日の裏付けがあったからこそ、あれだけの中味の濃い日々を送る事が出来たのです。
 つまり父なる神様の御旨を生き伝えることに専念する日々だったのです。
 当然、意識の底には死がいつも存在しています。
 人が生きることは生かされているということ、人が死ぬということは無くなることではなく父のみもとに帰ること、この二つが短い3年間の根底に流れています。
 死は生命の否定です。
 しかし、死は復活という恵みによって永遠の生命につなげられます。
 つまり復活は死の否定なのです。
 父なる神のみ旨は1人の人も残さず終わりの日に復活させることだとおっしゃっています。
 私達はある面でいつも死にさらされています。
 いつその日を迎えるかわからない存在です。
 順序があるようでありません。
 死と隣り合わせが私達の生活です。
 いつもはそのことを忘れています。
 しかし何かの機会にいつか自分もと考えさせられるのです。
 全てを無くしてしまう死。
 その死が私達復活を信じる者にとって新しい生命への出発点なのです。
 ですから、私達にとって生きていることは死に向かって新しい生命の準備をしている時であり、いつかその日が来るまで準備をしてゆきます。
 私達にとって死は通過地点であり決して無くなる時ではありません。
 この地上の死から新しい生命へ移ってゆく大切な時、それが復活の時です。
 復活祭は永遠の生命を伝えて下さったキリストであるイエス様を讃える日であり私達の永遠の生命を喜ぶ日です。
 その日を心から喜ぶことができるよう、この四十日を心をこめ苦しみを味わいながら過ごしましょう。
 |