ペトロ 岩橋 淳一
相変わらず家畜小屋も聖家族(幼子イエスとご両親)も、羊飼いや羊たちも不在のディスプレイには、日本人の宗教色ぬきの知恵と工夫を観る。 周辺にはツリー、ローソク、サンタクロース、となかいの橇(そり)、リボンのかかったギフト、夜空の星たち、幼い天使たち…を配置して店内に巧みに誘導する。 賑わう街路や店舗には宝石をちらしたようなイルミネーション、また自宅家屋を電飾の基地にする市民…。 人々はまるで夏の虫のように光を目指して走り飛ぶ。 ロマンチックなレストラン、ホテルには家族の他、若い男女、OL達が押しかけ、つかの間とはいえ、お互いの愛と一致を笑顔で確認し合う。 子どもたちは、サンタクロースからのプレゼントを信じて待っている。 親たちはこどもを裏切れず出費を工面する。 TVからはひょっとしてキリスト信者以上に、はつらつと明るく「メリー・クリスマス!」とタレントさんがコマーシャル。 学校の冬休み、年末年始休暇、控えているお正月など、日本全体がうかれやすい時期である。
教会の景色
いわばクリスマスの本家である教会…。 ミサにおいていつもイエス・キリストをお迎えし、その福音と恵みに浴し、愛と一致と平和を確認する場である。 この内的霊的な喜びを自分自身の中に納めきれず、外に向かう。 そのために何か形で表わし、多くの人々に分かち合いたい…こんな気持ちを形象化した中のひとつが聖像として現れる。 クリスマスについて言えば…家畜小屋、幼きイエス、聖マリア、聖ヨセフという定番のディスプレイはアシジの聖フランシスコ(1182‐1226)が最初に作ったと言われている。 現在でもその心を受けてアシジでは、そのセットのコンクールが街中で催されている。 あくまでも幼子イエスがクリスマスの中心であるため、聖堂内に置かれている幼子に信徒たちの視線は集まる。 そのため外側や道沿いには余り力を注がないままが常態であった。 信徒たちにとってはご降誕の夜半ミサの中で喜びを発散させることこそ「メリー・クリスマス!」なのである。 とは言え、「おい、教会でもクリスマス、やってるヨ」なんて思う人々もいるこの日本…クリスマスなのに一際(ひときわ)暗闇に消えている教会はいかにもさびしい…こんな訳で僅かではあってもイルミネーションなどでその存在を主張し始めている。 本年は教皇ベネディクト十六世は特にキリストの降臨を待つ待降節の始まりに当たり、出生前後の胎児、嬰児に焦点を絞り特別な祈りを全世界の教会に呼びかけられた。 キリストのご誕生に私たち人類に恵まれる新しい生命を合わせ、私たちの責任と心遣いを促すものであった。 また、ひいては教会という母の胎から新しく誕生する神の子たちを取り巻く諸配慮についても気遣うことを示されたのである。
典礼の景色
夜・ローソク・讃美歌(聖歌)・飾り……とくればノンクリスチャンでも多少ロマンチックなイメージを抱く。 特に若者たちがコップローソクを手に静まりかえった聖堂の中で祈る風景をよく見たものである。 上野教会では、この日の夜半ミサは中国人と日本人による合同ミサが捧げられる。 同じ信仰と喜びに結ばれ祈りも聖歌も一つになる。 現在の中国における宗教環境は必ずしも良好と言えない中で、日本で生きる中国人信徒は実に元気はつらつで全身で神を賛美している姿は頼もしい。 日本にも切支丹迫害があった。 当時の信徒たちはどんなにか思い切り主を賛美し礼拝したかったことか…。 そんな思いを胸に今の幸せを実感する。 祭壇前に置かれた聖なる幼な子を中心に皆、心を一つにしてこの世にもたらされる福音を聞き、天使たち、聖なるご両親、羊飼い、家畜、植物などの賛美と感謝と礼拝に合わせ、祭壇を囲む私たちも天的な喜びに満たされる。 参列者たちは頬を紅潮させ、心が満たされ、新しく訪れる年に焦点を合わせ家路に着く。 いつも参加しているミサと同じミサであっても、幼な子の背景に十字架が見え隠れし、人間社会の中に巧みにひそむ罪性とキリストの聖性の斗いを予見する私たちではある。
参列者の景色
今日のあなたです!
分け歩く 巷(ちまた)の路(みち)は数(かず)あれど 同じ心で 拝(おが)む御子(みこ)かな。 不尽 (カトリック上野教会主任司祭) |