上野教会 教会報 「うぐいす」 より
■ 249号 聖霊来てください(Veni Sancte Spiritus)2025.6.21

主任司祭 フランシスコ・ザビエル 天本昭好

教会は聖霊降臨の出来事のうちに教会の誕生を重ね合わせていきます。
弟子たちがこの聖霊降臨の出来事のなかで、言葉の違うさまざまな地域からエルサレムにやってきた群衆を前にして、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出したことを使徒言行録は報告していきます。
そこにはかつて復活物語のなかで語られていく周囲への恐れと不安のなかで打ちのめされていた弟子たちの姿はありません。
弟子たちが聖霊に満たされた時、それは単に精神的な内面の強さが与えられたこと以上に、私たちの目の前に社会がもたらしていくあらゆる障壁や分断があろうとも、それを乗り越えていくことができることを物語っていきます。
わたしたち教会は年に一度この聖霊降臨の主日に、聖霊の続唱を歌い上げていきます。
これは聖霊への祈りでもあります。もともとのラテン語の原題はヴェニ・サンクテ・スピリトゥス(Veni Sancte Spiritus)といいます。日本語に素直に訳せば「聖霊来てください」と歌っていくものです。この歌の歌詞の一つ一つを噛みしめながら祈るとき、わたしたちは聖霊という御父からイエスの名によって遣わされた方によって教会共同体をしっかりと造り上げていくことができるのでしょう。

 残念ながら聖霊という日本語の語感は、霊という漢字に引きずられてしまって、死後の世界の存在、あるいは神秘的な存在といったイメージが先行してしまい、日常からかけ離れた存在であるかのような印象さえ生まれてしまいます。そのためか、あまりピンとこない人もいるかもしれません。しかし聖書が語る聖霊はそのような方ではありません。ルカ福音書においては聖霊に満たされた時、そこには喜びにあふれていく人の姿が語られていきます。ヨハネ福音書においては聖霊をギリシャ語の「パラクレートス」という言葉で表現し、聖霊がどのような方なのかを表現していきます。日本語では「弁護者」とも訳されていきますが、もとのギリシャ語を字義通りに考えるならば「傍に呼ぶ者」という意味になります。この名詞を動詞に戻してみれば、「傍に呼ぶ」という意味から派生して「励ます」「支える」という意味に広がっていきます。教会の教理史のなかで霊性神学の非常に重要なテクニカルタームとなっていきます。

 わたしたちが「聖霊来てください」と聖霊の続唱で歌う時、この「来てください」と呼びかけていく意味はどういったことでしょうか。
それは今年の復活節の第2朗読でヨハネ黙示録が読まれ続けましたが、ここから考えると良いでしょう。「“霊”と花嫁とが言う。『来てください。』これを聞く者も言うがよい、『来てください』と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」(ヨハネの黙示録22:17)と黙示録が最後の章で書き記す通りです。この呼びかけに応えてくださる方が渇きを潤し、命の水を与える者としてわたしたちを招いてくださっていることを忘れないようにしたいものです。

 わたしたちと霊とのこうした呼応関係が、命の息吹によって生きる者となったわたしたちの祈りの言葉としての「来てください」という言葉の意味になっていくのでしょう。
教会共同体は聖霊によって絶えず造り続けられるものです。そのことを念頭に考えたとき、これからの上野教会の共同体としてのあり方も少しづつ見えてくるのではないでしょうか。

 今年の復活祭には「建設営繕積立献金のお願いと今後の展望」と題したメッセージを配布させていただきました。最後になりましたが、再度、このうぐいすにこれを掲載してもらい、わたしたちの教会のこれからを聖霊の導きのうちにしっかりと識別しながら歩みたいと願うばかりです。


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