上野教会 教会報 「うぐいす」 より
■ 248号 未来をつくりだす2025.3.22

フランシスコ・ザビエル 天本昭好

今年も灰の水曜日に灰を受け、わたしたち教会は復活祭に向けた準備を整えていきます。
灰の式の中で、灰を頭にかけるか額に灰のしるしをうけます。
その時、司祭は次のように唱えます。
「回心して福音を信じなさい」あるいは「あなたは塵であり、塵に帰っていくのです」
この二通りの言葉のどちらを選ぶかはその時の司式者によって変わりますが、どちらにせよ、この言葉と灰のしるしによって、わたしたちは具体的な典礼と時のながれのなかで主の受難と死そして復活へとわたしたちの心を向けさせていきます。
 自らを塵芥にすぎないと告げていくアブラハム(創世記17:27)がそうであるように、私たち自身も神と向き合うなかで自らの罪の自覚を呼び起こす行為が灰を受ける行為となっていきます。
それはたとえ、今、罪のうちに生きていたとしても、そこで終わるわたしではなくイエス・キリストともにそこから立ち上がっていくわたしへと導かれていくことを確かめるためにとても大切なしるしが、この灰の水曜日の灰の式なのでしょう。

 わたしたち上野教会にとっては昨年70周年を迎え未来を見据えた節目を迎えました。
信者総会でも話をしましたが、具体的には目に見える建物としての教会をどうするのが最善なのかを模索していきましょう。そのための手掛かりとして、1月末に耐震診断を実施しました。まだ診断の報告が提出されていませんが、客観的な判断材料を揃えていく必要があります。上野教会単独で判断するのではなく、教区本部と連携し、同じ上野教会として中国センターの仲間とともに、さまざまな可能性を視野に入れて検討を重ねていこうと考えています。時間をかけていきながら、共同体としての共通理解を促していく必要があるでしょう。時として行き違いや誤解からくるいざこざも体験するかもしれません。このプロセスはわたしたち上野教会にとって試練と言ってよいでしょう。しかし、それはわたしたちの共同体を成長させていく試練と確信しています。目の前に高い山があったとしたら、それを登る前から怖気づいてしまう人は何の行動もしないでしょう。登ろうとするならば、その前にさまざまなことを用意周到に準備していくことでしょう。そして準備が整えば最初の一歩を踏み出すことに躊躇はしないものです。
上野教会が共同体として何に向き合い、どう歩もうとしていくのか、ひとりひとりが自覚していくなかで、灰のしるしを受けていくことの意味を考えていくとよいのではないでしょうか。 灰にすぎないはずのわたしたちひとりひとりにみ言葉をかけてくださる方がいることを想い起していきましょう。同時に、創世記において土の塵から人を形づくられた方(創世記2:7)は命の息を吹き入れられ、生きる者としてこの世界にわたしたちがいることを告げていきます。生きる者、それは魂のあるものとして、この世界にその魂を見せることができる存在として神が創造されたことを意味しているのでしょう。この復活祭に向けた歩みが上野教会の未来をつくりだす歩みとなりますように。


CGI-design