■ 246号 長寿の祝いの時 | 2024.11.1 |
フランシスコ・ザビエル 天本 昭好 9月は敬老の日があり、私たちカトリック教会も長寿を迎えた方たちの祝福を行うのが慣例となっています。教会によって、祝う年齢はまちまちです、浅草教会の場合は喜寿の77歳を迎えた方と80歳以上の方が対象だと聞いています。上野教会はいかがでしょうか。(上野教会は77歳を迎えた方から対象です)この原稿は浅草教会の教会報9月号とほぼ同じ内容です。この祝福の節目を考える時、いつも私は歌人の岡井隆の歌を引き合いに出しています。 彼は次のような歌を詠んでいます。 歳月(さいげつ)はさぶしき乳(ちち)を頒(わか)てども 復(また)春(はる)は来(き)ぬ花をかかげて この歌はことばの調べがとても素敵であり、わたしたちの人生において養われていく感覚を呼び覚ます歌のように聞こえてきます。一口に養われていく感覚といっても、それは甘いものばかりではありません。さぶしき乳と歌われているような、もしかすると思わぬ苦労や悲しみを伴う哀愁を味わうかもしれません。そんなわたしであったとしても、春が花をかかげてやってくると詠んでいきます。ここには歳月が単に時の経過というよりは人生の重みを悟らせてくれるものとしてあるようです。その人生の重みをしっかりと受けとめていく時が長寿を祝う時なのだろうと考えるとよいのでしょう。歌人の岡井隆はもともと前衛的な歌風で知られ、また一人のキリスト者でもあり、晩年には皇居の歌会始めの選者も務めていた人です。彼の歌からいのちを生きるひとりひとりの在り方をみつめていくことができるようで、私自身好きな歌人でもあります。 この歌ともうひとつ今年は紹介したい歌があります。それは4月の朝日新聞の歌壇に一般の方が投稿されて選ばれた歌です。 抱いている親のどこかをつかんでいる 赤ん坊の手の力強さよ (2024年4月21日朝日新聞 朝日歌壇 馬場あき子選) やさしい眼差しで孫を眺めている姿が想像できると同時に、赤ん坊のしぐさから命の尊さに気づかされていく歌のように受け止めました。とても良い歌だと思います。とかく少子高齢化社会のなかで、過去の自分と比較してしまえば、肉体の衰えを感じる老いを意識せざるをえないでしょう。だけれども、肉体的な衰えよりも、いのちを見つめていく中で、若いころは気づかなかったであろうところに、目を向けることができるようになるのも、年を重ねていくことの良い一面ではないでしょうか。当たり前のことですが、いのちは最初からひとりでに成長するようなものではありません。生まれ出た赤ん坊が、どこかを必死でつかむのは、抱いている親であり、そこに自分のすべてをゆだねていると考えると、今を生きるわたしたちも何かをつかんで生きているといって良いのではないでしょうか。何も信頼できるものがなければ、何もつかむこともなく無為に時を過ごすことになるかもしれません。しかし、年を重ねていっても、つかむことができるわたしがいることを知らしめるのが、信仰なのだと私は理解しています。信仰というと、とかく綺麗事を並べた表現をしがちになりますが、目には見えないものをつかむことができる行為そのものが信仰という言葉の枠組みなのだと思います。わたしたちはイエス・キリストを通して、目には見えず、決して朽ち果てることのない方、神と呼んでいく方を信頼していきます。復活されたイエス・キリストと共に歩みながら、わたしたちひとりひとりが自分らしく最後まで歩めますように。 最後になりましたが長寿の祝いの時を迎えた皆さんの上に神様からの祝福が豊かにありますように。そして、この時を迎えた皆さんが、これからの上野教会共同体のために祈ってくださることを心から願っております。そして、もし教会に来ることが困難な方で聖体を希望される方がいらしたら、お仲間の信徒の方を通して、あるいは直接に主任司祭へ連絡をとっていただければお伺いいたしますので、その時を楽しみにしております。 |