■ 244号 平和旬間にあたって | 2024.8.21 |
フランシスコ・ザビエル 天本 昭好 日本のカトリック教会は毎年8月6日から15日までを平和旬間と定めて祈っています。 これは、教皇ヨハネ・パウロ2世が1981年に訪日したとき広島の平和公園でおこなった平和アピールを受けて翌年からはじまったものです。「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。」 教皇ヨハネ・パウロ2世は青春時代を第2次世界大戦のさなか過ごされていました。そこを踏まえれば、この言葉の重みを受け止めていくことができるでしょう。今を生きるわたしたちが平和について意識しているなかで、互いに語り合い祈りあう中で、新しい気づきに出会えるかもしれません。ただ、戦争体験をもつ世代がいなくなりつつあるなかで、わたしたちは観念的に捉えがちになっていくのも致し方ないのかもしれません。私自身は当然ながら戦争体験はありませんが、この時期に思い出す街の光景があります。 それはコソボ共和国にあるプリズレンという街です。セルビアにとっては鎌倉のような位置づけの街だそうです。コソボ共和国があるバルカン半島は地形的に盆地が多く、盆地ごとに様々な民族と文化が複雑に絡み合った地域といって良いでしょう。それゆえに昔からヨーロッパの火薬庫と呼ばれるぐらいです。第2次世界大戦後は強力なリーダーシップをもつチトー大統領のもとでユーゴスラビアという一つの国家のアイデンティティーのもとで、地域的な安定がもたらされていました。しかし、チトー大統領亡き後は、それぞれの民族アイデンティティーの強まりと民族間の対立が激しくなり、ユーゴスラビアは崩壊してしまいました。そのなかでセルビア共和国の自治州としてあったコソボでは自治政府側のセルビア系住民と大多数を占めるアルバニア系住民との対立が激しくなりコソボ紛争が勃発します。神学院入学の前年の1999年にはNATOが軍事介入をして紛争は鎮圧され、6月にはKFORと呼ばれた多国籍軍のもとで一定の秩序が回復していきました。私はちょうど、9月にカリタスジャパンの視察に同行させてもらえる機会があったので、はじめてコソボに足を踏み入れることができました。 オスマントルコの生活様式が当のトルコよりも残っているかのようなその街で見聞したことは、日本で生活している私にとって衝撃的でした。弾丸や爆発の傷跡が残る建物、街の幹線道路を自動車よりも早く走行する戦車の隊列、時たま聞こえてくる銃声など、数え上げたら切りがないほどです。一方で、繁華街と思える通りを歩いていくと、何軒かの商店の店頭にはアメリカ製のタバコや飲料水が山のように積まれていました。そんな通りの隅に商品をばら売りしているキヨスクのような店で店番をする幼い女の子の姿がありました。また、大きな通りの裏道には、1ドイツマルクの立て看板の店があったので覗いてみると、日本のメーカーのソニーのプレイステーションで遊んでいる男の子たちの姿が目に飛び込んできました。そこに暮らす人たちの日常のこれらの光景は今でも鮮明に記憶に残っています。 詩人の茨木のり子さんが残した詩にこんな詩があります。 「わたしが一番きれいだったとき まわりの人達が沢山死んだ 工場で海で名もない島で わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった わたしが一番きれいだったとき だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった 男たちは挙手の礼しか知らなくて きれいな眼差をだけを残し皆発っていった」 (『わたしが一番きれいだったとき』 一部分のみ引用) 今の物質的には豊かな時代に生きる私たちにとって、この詩が訴えかけている意味はなんでしょうか。不条理な現実を前に仕方がないで済ましてしまったとき、もしかすると再びこの詩と同じようなものを詠むときが訪れてくるかもしれません。 平和という言葉を観念の産物にするのではなく、また仕方のない現実として思考停止してしまうのではなく、この平和旬間が平和について学び考え祈るときとなっていきますように。戦争という暴力をもたらすのが人間なら、平和を実現するのも人間です。イエス・キリストも具体的な現実のなかで御言葉を語りました。「平和を実現する人々は幸い」という御言葉を噛みしめながら、平和旬間が平和を祈る歩みの時となりますように。 |