フランシスコ・ザビエル 天本(あまもと) 昭(あき)好(よし) このたび、浅草教会・上野教会の主任司祭として派遣された天本昭好と申します。これからどうぞよろしくお願いいたします。2つの教会はどちらもパリ外国宣教会によってはじめられた教会です。浅草教会は明治の再宣教とともにはじまり、まもなく150年を迎えようとしています。上野教会は第2次世界大戦の敗戦後、上野駅周辺に溢れた戦災孤児の姿に心動かされたフロジャック神父様によってはじめられた診療所と保育園からはじまり、今年70年の節目を迎えています。それぞれが歴史をもっているということはそこには多くの人との出会いがあり、多くの人が集まりイエス・キリストを中心とした共同体を形づくってきた記憶が詰まっているといって良いでしょう。さらには上野教会にはイエズス会の中国センターがあり、浅草教会にはベトナムからの若者も多く集まってきています。都心にある教会のため、前任地の関口もそうでしたが、観光で来られた外国人の方たちも多くミサに参加されています。パウロが語るように、私たちキリスト者はユダヤ人もなくギリシャ人もないように、その社会の属性、民族や文化等によって分け隔てられたりはしません。それがこの社会に生きるキリスト者の信仰共同体であり、それを実感できる共同体が浅草教会であり上野教会であるといって良いのではないでしょうか。その共同体の輪にひとりの司祭として派遣されたことを素直に喜んでいます。人との出会いは人生を形づくっていくものです。私自身司祭としての人生を歩むなかで、人に教えるよりも教えられ、人を支えるよりも支えられてきたことをかえって誇りに思っています。 ただ、2020年からはじまった新型コロナ感染症のパンデミックは教会にとって思わぬ経験となってしまいました。重い持病を持っている方や高齢の方はコロナウィルスによって集まりたくても集まれない状況に陥ってしまいました。昨年の5月に感染症法の予防対策の位置づけが5類になり、社会全体の意識も大分薄らいだとはいえ、まだまだ慎重になる方もいらっしゃると思います。この3年間の時計の針を巻き戻したくても時間は戻りません。だからといって何かを諦めてしまって、これは仕方ないことだとは私は思っていません。それまでの教会のあり方や活動に固執していくことではなく、新しい何かを見出していくこともできるのが教会だと思っています。全世界の教会が今シノドスの歩みのなかにあり、ともに識別していくなかで、聖霊の導きに信頼していきたいものです。こう語っていくと、なにかたいそう大袈裟に聞こえてしまうかもしれませんが、あらためて繋がりを意識していくことが大切なのだと考えています。その繋がりとは特別なことではなく、日曜日にミサに来られれば、挨拶して一言二言雑談していた時と同じように、日常の何気ない実感としてのつながりを確かめていきたいものです。 かつて、東京教区で働かれていた大先輩のルイ神父様は信徒のお宅に何の連絡もせず突然訪問していたそうです。フランス人の宣教師魂を私も持てれば良いのでしょうが、残念ながら、図体と声の大きさは人一倍ですが、その分、心と気が小さいせいかルイ神父様と同じことはできません。できることは、みなさんが声を掛け合っていく中で、求めてくだされば喜んで伺うことです。場合によっては病者の塗油が必要な時もあるでしょうし、ご聖体をもって行って一緒にお祈りしていくなかで、ともにひとりの信仰をもつ者として語り合える時間をつくっていければと願っています。そのためには皆さんのご協力が必要となっていきます。教会の温かさは皆さんが互いに声をかけあうことからはじまっていきます。互いに相手を思いやり、労りの心があらわれていくなかで教会の温かさが共同体をより実感できるものとしていくのでしょう。 司祭はいつもミサの終わりに「行きましょう。主の平和のうちに」と唱えます。これはラテン語規範版ではIte,missa est.です。ミサの名称にもなったこのmissaという言葉の意味は、復活した主イエス・キリストから遣わされる者としてわたしがいるということを確かめていくものです。それは、単にミサが終わったから行きなさいなのではありません。このわたしが復活したイエス・キリストから遣わされた、いわば使命(mission)を持つものとしてこの社会に行きなさいと告げられていることを意識していきたいものです。その使命は大袈裟なことではなく、日常の身近なところから始まっているのではないでしょうか。ひとりひとりが身近な繋がりを意識していったとき、復活された主からの派遣命令は、信仰を生きる者の使命として自らを確かめていく術になっていくことでしょう。これから浅草教会・上野教会のみなさんとともにこの使命を味わっていければと願っています。 |