ペトロ 晴佐久 昌英
11月になると、「もうすぐ年末だな」とか、「だんだん終わっていく」みたいな気分になりますし、年齢を考えてもあとどれくらいだろうとか思いがちですけど、キリスト教の基本は、『まだ始まったばかり』、ここにあります。 イエス・キリストがお始めになった「救いのみ業」は、その業を受け継ぐわたしたちが一緒に働くことによって完成に近づくんですけど、まだ始まったばかりです。 「2000年経ちました」っていうけれど、まだ、たった2000年なんですよ。 ある意味まだちゃんと始まってもいない程度の時に、「だんだん終わっていく」とか、「もうここまでじゃないか」とか、それこそ「人類は終わっちゃうんじゃないかとか、そんな『恐れ』を抱く必要は、全くない。 むしろ、わたしたちが救いの業に参加した時に、わたしたちの「生きている意味」がわかる、そんな希望を新たにします。 今日死者の日に、全天の死者たちのことを思いますけども、それは、「もう終わって死んでいった人たち」じゃない。 今まさに「この世の準備期間を終えて、神のクリエイト、創造の業の本番に参加して働いている人たち」です。 ですから、今日は、単に亡くなった昔の人たちを思い出す日じゃなくて、これから神の国を一緒に作っていく仲間たちと一致する日なんです。 わたしたち人類の未来のために、この死者の日がある。 すでに天で働いている仲間たちに支えられ、導かれ、励まされて共に働くために。 単に皆さんのご家族、ご親族だけの話じゃないですよ。 大勢の先人達が築きあげてきたもの、忍耐したこと、わたしたちに残してくれた宝物を大切にしながら「ともに神の国に向かって、出発いたしましょう!」という日です。 昨日面白い映画を見ました。「ザ・クリエイター」っていう、日本語だと『創造者』ですね。 僕はSF大好きなんで、評判もいいし、楽しみに見に行ってきました。 50年後の世界の話ですけど、AIがすごく進化していて、AI搭載の人型ロボットが、世界中にたくさん存在しているんですね。 AIって言っても、感情もあるし、人間らしい特徴もあって、「ただの機械」じゃなくってある意味「友達」、どころか「家族」みたいな感覚になってる。 例えば、よその国から来た難民だとか、あるいは街中に座っているホームレスとか、普通にはあまり関わりがない人間でも、出会って、関わりをもって、感情や気持ちが通い合うと、そこに「愛」が生まれますよね。 たとえAIであれ、そこに「愛」が生まれるのは当然だし、そこはすごく大切なポイントです。 映画では、AIのミスでロサンゼルスに核爆弾が落ちて、何百万人という人が死にましたという前提で物語が進むんですけど、「やっぱりAIはまずい、人類を滅ぼしかねない、AIロボットなんてすべて廃棄しましょう」ってことで、西側諸国はAIを否定します。 けれどもアジアでは、AIと一緒に生きるって選択をして、人間とAIが仲良く暮らしてるってことで、世界が二分化してるんです。 そんな中アメリカは、アジアに潜んでいるAIを滅ぼそうとして、戦争を仕掛けて攻めてくるわけです。 なんかね、イスラエルとガザの話とか、思い浮かべちゃうじゃないですか。 力ある傲慢な者が、理解しがたいよその民族を抑圧して、排除しようとする。 そんな中、アジアでは進化して成長していくニューAIが生まれます。 そうなるともはや「人間」ですよね。 そしてそのニューAIは、自分を創造した人類を、ある意味「神」のように思っている。 なんか、見ていてすごく宗教的なものも感じました。 考えてみれば、AIにとって、人間は創造主なんですよ。 でもそれで言うなら、僕ら人間も、創造主、神から造られた。 神はなんで造ったのか。 もちろん「愛するため」だし、「互いに愛し合わせるため」。 ってことは、人間も、AIを「愛するため」、そして、みんなの幸せのため、みんなが真の自由に解放されるため、みんなともに生きていくために造ったわけでしょう。 AIに感情が生まれようが、時に失敗しようが、それはもう愛し合うしかないんです。 偉大なる創造主が人間を産み、人間がAIを産んだんだから。 今日の聖書を読むと、「わたしをお遣わしになった方のみ心とはなにか。」と人間代表でイエスが言ってます。 それは、「わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させること」だと。 神が、すべての神の子をなぜ産むかというと、愛するためであり、幸せを味わわせるため。 であれば、映画の中でアメリカが「AIをもういらない」っていうのは、親が気に入らない子は捨てる、そういうことになる。 それに対して、自分で産んだものを、愛さないわけにはいかないっていう心が人間の中にはあって、たとえどんな子であっても、「わたしが生んだんだから、わたしは愛する」し、それどころか、「産んだあなたのためなら死んでもかまいません」っていう思いこそが本物であり、それって天の父の愛、イエス・キリストの犠牲じゃないですか。 われわれは簡単に十字架とか復活とか言いますけど、あれは、「神はこんなわたしを、ご自身よりも大事にしている」って意味ですから、すごいことなんですよ。 神は自分よりも、自分が生み出したわが子のほうを優先する、愛する、絶対見捨てない、わが子のためなら十字架上で釘に打たれても構いません、と。 ちょうど先週は美術展とか見て回りましたけど、国立新美術館のイヴサンローラン展、上野の森美術館でモネ展、西洋美術館では、キュビズム展などなど見て回ったわけですけれども、みんなある意味創造者なんですよ。 だから美術館に作品が並べられる。人とおんなじもの造ったって並べてもらえない。 なぜなら真似だから。 創造、クリエイトってすごいことなんです。 この人がいなかったら、この作品はないんだなと思うと、イヴサンローランも、モネも、ピカソもすごいなって思いますけど、それでいうなら本当に神はすごい。 神が造らなければこのわたしもいないんだから。 「あなたは、この世にあなただけ」と、神はそういう特別な思いで、全く一点物の神の子一人一人を産む。 それは何のためかって言うと、愛するため、そして愛し合わせるため、さらには本当に美しいもの、人を喜ばせるもの、みんなを仲良くさせるもの、神の国のためになるものをクリエイトさせるため。 今日の第一朗読。 「どんなものも、神からわたしたちを引き離せない。」「死も、命も、天使も、現在、未来、力あるものも、高いもの、低いもの、どんな被造物も、キリスト・イエスによって示された神の愛からわたしたちを引き離すことはできない」。 できるわけがない。 創造主がわたしたちを、本当に存在してほしいと望んで産み、愛して育て、ご自分のクリエイトにあずからせているんだから、その愛から、僕らを引き離すことなんか、できるはずがない。それを信じた時にわたしたちのうちに沸き起こってくる勇気、そして、新しいものにチャレンジしていくという人間性、さらにはそれがみんなを幸せにするんだという確信、それこそは、まさにキリスト者の本質であります。 モネの睡蓮の絵は、本当に美しい。うっとりして、見て回りましたけど、ああこの人、まさに人間なんだなと思いました。 創造の業に参与したんだから。 だれから何言われようとも、チャレンジした。 考えてみたら、そもそも睡蓮を創造したのは神なんであって、その創造のみ業に参与するチャレンジに、ぼくらは招かれている。 モネのクリエイトにぼくたちが参与するとき、モネは今も生きていて、クリエイトし続けています。 モネがジベルニーの庭に池を作って睡蓮植え始めたのは、60歳だって。 あーら、びっくり、還暦過ぎですよ。 そして、池のほとりで睡蓮の連作を書き始めたのが66歳だって、それ今の私の歳じゃないですか。 なるほど、準備は終わった、ここから始めるってことね。 |