ペトロ 晴佐久 昌英
明かりをつけた途端、目にもまばゆい聖堂が現れて、おもわず「おおーと声が出てしまいました。 上野教会の聖堂の改修工事が終わったというので、いち早く見学した時のことです。 以前は薄暗く感じていましたが、天上を張り直して照明をLEDに取り替えるとこんなにも明るい印象に変わるんだと、驚かされました。 さらには、中国センターからのお申し出で、せっかく足場を組んだのだから壁もきれいにしましょうと、聖堂内部の壁面と窓枠を塗り直していただいたおかげで、まるで新築のような輝きを取り戻しました。 のみならず、これを機会にベンチもリフォームしましょうと、あの重くて大量のベンチを一つひとつ解体し、グラインダーで板を磨いてダークブラウンに塗り直し、再び組み立ててくれたおかげで、以前よりもさらに格調高い、祈りの場にふさわしいベンチになりました。 いったいどれだけの時間と労力がかかったことでしょうか。 休日返上で奉仕してくださった中国センターのみなさんに、心からの感謝を申し上げます。 というわけで、入れ物はとっても素敵になったわけですから、後は中身です。 どんなに立派な聖堂を用意しても、孤立して救いを求めている大勢の人たちをそこに招き入れなければ、それはただの美しい箱にすぎません。 聖堂とは、様々な思いで生きている多様な人々を暖かく迎え入れる、幸いな神の子たちの集いのシンボルなのですから。 最近読んだ記事で、さもありなんと思ったのですが、国連の「世界幸福度ランキング」で日本は54位、先進諸国の中では最低だというのです。 他国に比べて経済面や健康面では恵まれていますし、安全度や社会的支援などもむしろ優れているにもかかわらず、なぜ日本人は幸福を感じられないでいるのでしょうか。 記事ではその原因として、「他者への寛容度の低さ」を指摘していました。 日本人は、異なった立場や、意見の違いに理解を示す「寛容度」の数値が、際立って低いのだそうです。 思い当たることはたくさんあります。 表面的には穏やかに接していても、心の中では恐れと不満を抱えていて、自分と異なる他者を敬遠したり責めてばかりというのでは、到底幸福とは言えないでしょう。 その記事ではハーバード大学の研究成果も報告されていましたが、それによれば、「幸福とはつまるところ、富でも名声でも仕事でもなく、よい人間関係につきる」とのこと。 なんでも75年にわたる追跡研究における結論だそうで、何をいまさらという気がしないでもありませんが、当然の結論でしょう。 「信頼できる寛容なひとたちと共にいる安心と喜び」、それ以上の幸福があるとは思えません。 イエスが生み出したそのような集いをこそ「教会」と呼ぶのであり、その集いを入れる美しい箱を、聖堂と呼びます。 それまでは他者に受容された経験に乏しかった人が、違いを抱えたままでも一緒にいられる寛容な集いに出会い、まことの幸福を知るのであれば、そこは間違いなくキリストの教会です。 幸いな仲間たちが共に祈るとき、われらが聖堂は一層その輝きを増すことでしょう。 |