ペトロ 晴佐久 昌英
「アヴェ、マリア!」 コロナ自粛中の今年5月、聖母月ということもあり、浅草教会の庭の聖母像の前にユリの花を飾って、毎朝アヴェ・マリアの祈りを捧げました。 どうせならと、道行く人にも聞こえるように、「アヴェ、マリア!」と大きな声で唱えたものです。 もしかすると、それが教会に関心を持つきっかけになるかもしれませんから。 聖母像の前には立派な池があり、これまた立派な金魚がたくさん泳いでいます。 赤、白、金色と、三十匹はいるでしょうか。 それまでは気にも留めていなかったのですが、毎朝眺めていると情もわき、お祈りの後で餌をあげることにしました。 せっかくなのでと、ちょっと高級な餌(モロヘイヤ入り!)を買ってきてパラパラと撒き始めたのですが、数日たったころのことです。 いつものように池のほとりで「アヴェ、マリア!」と祈り始めた途端、金魚たちがバシャバシャと集まってきて、口をパクパクするではありませんか。浅草教会の金魚たちにとっては、「アヴェ、マリア」の意味は「ごはんですよー」になってしまいました。 「アヴェ、マリア!」。声に出すだけでも美しい響きです。 その意味はいうまでもなく「おめでとう、マリア様」であり、祝福の言葉です。 その胎に人類の救い主を宿したお方を、まごころこめて祝福することくらい幸いなことはありませんから、これはもう、単なる祈りを超えた聖なる言葉だと言っていいでしょう。 ひとこと「アヴェ、マリア!」と唱えるだけでも心に安らぎが生まれ、魂に喜びが溢れます。 苦しいとき、不安なとき、災害の地で、病の床で、どれほど多くの人が唱えてきたことでしょう。 もはや人間の力ではどうすることもできないような困難の中で、天の父の慈しみによりすがるしかないときに、「アヴぇ、マリア!」と、ただひたすらに。 それは、どんなに理解しがたい現実であっても、神のみ心であると信じて引き受けた聖母にあやかって、試練の日々を生き抜くための祈りなのです。 季節は巡り、はや10月になりました。 ロザリオの月ということで、いつにもまして熱心に「アヴェ、マリア!」と祈ります。 ロザリオの祈りは、「アヴェ・マリアの祈り」を一環で50回繰り返す祈りですが、繰り返すうちにいつしか無心になり、神の御手にすべてをゆだねる境地に至れるのがその特徴です。 その意味でも、実はロザリオの祈りの最大の特徴は、あのロザリオそのものにあるのではないかと思っています。 時に人生には、本当に苦しいとき、もはや「アヴェ、マリア!」とつぶやくこともできないほどにつらい瞬間があります。 そんなときこそが、直接手で触れることのできる祈りであるロザリオが、人知れず輝きを放つ瞬間なのではないでしょうか。 ある信者さんのご主人が重い病気になり、自宅で闘病生活をしていたことがありました。 ご主人は信仰を持たず、日頃から教会に興味も示していなかったのですが、ある夜、あまりにも苦しそうだったので、奥様が枕もとでロザリオの祈りを唱え、そのロザリオをそっと置いておいたそうです。 翌朝、ご主人の手にはしっかりとロザリオが握りしめられていました。彼はこう言ったそうです。 「昨夜は本当に苦しくて、思わずロザリオを握りしめていた。握ったとたんに不思議と心が安らぎ、痛みが遠ざかって行った。今、自分に必要なのは信仰なんだと、やっと気づいた」 その後ご主人は洗礼を受けましたが、それは決してご利益の信仰ではなく、苦難の中で素直に単純に神の愛を握りしめる、純粋な信仰だったのではないでしょうか。 「アヴェ・マリア」の祈りの最後は「今も死を迎える時もお祈りください」です。 つまり、「お祈りください」、「お祈りください」と繰り返す祈りなのです。 それこそ、祈る言葉も見つからないような孤独な夜に、ただただ、「お祈りください」と繰り返す祈りです。 素直に、無心に、それこそ口をパクパクする金魚のように、純粋に神の愛を信じて。 |