ペトロ 晴佐久 昌英
カリタス学園の事件に心を痛めている方も多いと思います。 凄惨な事件に「言葉を失う」という声も多く聞かれました。 中でも、実際に被害にあった人やその家族、同校生たちにとっては、このような不条理な出来事を前にして「語るべき言葉がない」というのは、ある意味当然の反応だろうと思います。 さらには、同校の生徒がこの事件を受けて、「私はもう神を信じない。神なんかいない」と言ったとも聞きました。 こんな時に、「神のみ言葉」そのものであるキリスト教は、「にもかかわらず、語る」という使命を持っています。 イエス・キリストこそは「神のみ言葉」であり、キリスト者は「み言葉に奉仕するもの」だからです。 もちろん、言葉は相手あってのことですから、信頼関係を作った上で、適切な時期に適切な表現で語らなければなりませんが、それでも今、「にもかかわらず、神はおられる」と宣言する必要を感じています。 この世の「悪」に人々が恐れと虚無感を抱いている今こそ、キリスト者は、悪に打ち勝つ希望について口を開くように召されているからです。 では、悪の問題と、いわゆる「神の沈黙」について、何をどのように語るのか。 それについては多くの視点がありえますが、ここでは一つだけ、「人の成長」について触れておきたいと思います。 「神は、人間の幸福を願う以上に、成長を願っている」という信仰です。 神はまことの親であり、人類は皆神の子です。 神はわが子の幸せを願って産みますし、「神にお出来にならないことは何一つない」のですから、必ず真の幸いを与えることができます。 しかし、時間内の存在である以上、真の幸いへは突然到達するものではなく、「成長」という過程が必要です。 幼児はまだ真の幸いを知りませんから、食べたいものが食べられなかったり、転んで痛い思いをしたりすると泣きわめきます。 しかし、親は、わが子にとっての真の幸いが何であるかを知っていますから、食べたいものを我慢させたり、転んでも自分で起き上がるのを待ったりします。 それによってわが子が、目先の幸せを超えた真の幸いへと目覚めていくことを知っているからです。 確かに、悲惨な事件や甚大な災害を目の当たりにすると、「神よ何故」と言いたくもなりますが、よく考えてみると、事件も災害も、神が起こしたものではありません。 人を刺したのは人ですし、津波が来るところに家を建てたのも人です。 どんなにテクノロジーを発達させても、人類はまだまだ幼子同然で、未成熟であるということです。 しかし、そのような事件や人災を防ぎながら、少しつではあれ進歩して、真に幸いな世界を作り出す「愛と、知恵と、助け合う力」と、それを行使する「自由意思」を、神はちゃんと人類に与えています。 様々な失敗を重ねながらでも、人類全体が成長していくその道こそは、まさに神がお望みになっている神の国の完成へと向かう「聖なる道」なのです。 もしも親が、子供が望むものを無制限に与えたり、転びそうになるたびに手を出して支えたりしては、人類の成長を妨げることになり、その自由意思を否定することになります。 神は、人間が勝手に作り勝手に落とした原子爆弾を、天から手を伸ばしてつかまえて被害を防ぐことがお出来になるにもかかわらず、決してそうなさいません。 それは、「人間が自らなすべきこと」だからであり、神はひたすらにわが子がそうしてくれると信じて、忍耐強く見守っておられるのです。 そのような「神の沈黙」は、近視眼的かつ非常に個人主義的な現代人の幸福観からすると理解しがたいことではあっても、神にとってはそれほどまでに、人類の「成長」が尊いことなのだということだけは理解すべきですし、むしろそのような大失敗をしてしまったときにこそ、神の子たちは「手を出さない」神の親心への、全面的な信頼を養わなければなりません。 さらには、神は、どれほどの悲惨な出来事であっても、それをよいものに変えることがお出来になります。 すべての犠牲者を、天のみ国に誕生させて、そこでまことの命をお始めになっておられます。 彼らのその「人生の本番」での働きによって、神の国はダイナミックに実現していくのであり、そのような希望に支えられて初めて、人類は悲嘆と虚無感から救われるのではないでしょうか。 子供はもとより不完全な存在ですし、過ちを繰り返しながら成長していくものです。 始めから完全に作ればよさそうなものですし、さっさと天国を実現させてもよさそうなものですが、神は尽きせぬ愛情をこめて、「成長のプロセス」と言う神秘を、わが子たちに与えました。 そのような不完全の中で「完全へのはるかな旅」を歩む歴史が、人類の歴史だということもできます。 と同時に、ここがキリスト教の本質になるわけですが、神は、ただ黙って見守っているだけではありません。 あまりにも失敗ばかりの人類に対して、ご自分が本当に親であり、本当にわが子を愛していて、最終的には本当にわが子を救うのだということを、この世界に手を伸ばして触れ、はっきりとお示しになりました。 それが、イエス・キリストという救い主です。 少しずつ成長してきたとはいえ、まだまだその不完全さゆえに苦しんでいる人類を、あるとき、「時は満ちた」と判断して、決定的に成長させる新しいステージへと導き入れてくださったのです。 神の親心に目覚め、神の子同士が愛し合うことで、完全なものに近づいていく道です。 イエスは、神の子たちのために十字架上で自らの命を捨てるほどの愛をもって、神の親心を証しし、神の子たちが愛し合う模範を示しました。 そして神は、そのイエスを復活させることで、この道が本物であることをはっきりとお示しになりました。 その愛の道を知ること、歩むことこそは、永遠なる神の国を目指す、人間の存在理由です。 今回の事件は、神が起こしたものではありません。 あくまでも不完全な人が起こしたものです。 それも、容疑者個人と言うよりは、幼少期から今に至るまで、彼をそこまで追い込んで来た、社会全体の不寛容にこそ真の原因が潜んでいることを直視すべきです。 反省すべきは神ではなく、常に人間の側です。 その反省として、現代社会の在り方を見直すことこそが、今、求められているのではないでしょうか。 その見直しとは、人類が本来、神から与えられていた、豊かな共同体性を、キリストと共に再構築することにほかなりません。 私はそれを「福音家族」というキーワードで提唱し、実践しています。 だれもが、無期限、無償、無条件で共に生きていける、血縁を超えた家族づくりです。 それこそ事件の前日に、それこそカリタスの先生も含めて、実現に向けて話し合っていた「こども家族」も、その一つです。 家庭に居場所がないとか、学校に行きづらいとか、社会で働くことが困難だとか、人間関係を作るのがとても苦手だとか、コントロールしづらい性格を抱えていて生きづらいとか、そのような問題を抱えている小、中、高、大学生が対象です。 その人そのままで、安心していられる場を工夫して、助け合える仲間や寄り添ってくれるスタッフと、家族同然に一緒にご飯を食べる「家」に、今なお、孤立している子どもたちを、無償で招待したいと願っています。 わたしは、今回の事件を起こした加害者が、青少年時代にそのような場に出会えていれば、事件を防ぐことができたと信じています。 そして、どんなにささやかでも、そのような場づくりにチャレンジしていくことこそが、今回の事件で被害者が背負った十字架を、復活の栄光に変える道であると、信じています。 |