短歌で「知識」を伝えるのはタブーか?
次の文章は、2019年、の「NHK短歌」2月号の松村由利子先生への
質問として投書し、8月号で取り上げてもらったものです。
たとえば、今月号の「痛」というテーマの時に「科学的知識」を伝えようとするのは
短歌では、あり得ないことなのでしょうか。それは科学書が扱うことで文学の役割では
ないのでしょうか。
元生物学の教員であった私の場合「痛」で教えることは,先ず「何のために痛覚がある
のか」「痛覚で特筆すべきことは何か」ということ。「無痛症」という生まれつき痛覚が発達
しない人がいます。その場合、身体のどこかに異常があっても知ることができないため
短命となるケースがほとんどです。また、光・音・熱などの刺激を受容する感覚器では、
いずれの場合も刺激の強さがある限度を超えると「痛み」として感じられます。これらの
事実は知っている人も多いとは思いますが3割を越えるのか。越えない場合、伝えること
に意味はないのか。
「痛覚は身を守るもの極まれば五感は全て痛みとなるらし」は短歌とは言えないのか。
たとえば通行人に「ぽぽぽぽぽぽ窓枠に来る雫たち おはよう今日は頭痛がひどい」
(入選一席;林 美里作)と二つ並べて1週間後に聞き取りを行ったらどちらを覚えているで
しょうか。
短歌を語る場合「喜怒哀楽への共感、奥行き、広がり、多義性、韻律、鮮やかな比喩、
リアリティ、取り合わせなどなど・・・・」が重要であることを知らないわけではありません。
文学的感動を勿論否定はしません。短歌を詠む(読む)意味がなくなります。しかし、痛覚
について知ることは一生の財産となり、折に触れて思い出すかもしれないと思うのです。
別の手段で伝えればいいと言われると思います。それが短歌ではいけないのでしょうか。
松村 由利子先生や林 美里さんを個人的に批判しているわけではありません。
「短歌とは何か」「何のために短歌を詠むのか」という自問に近いものです。
読んで下さった方に感謝します。