「安積高校」の歴史
明治17年9月11日 福島師範学校内に「福島県尋常中学校」として設立授業開始(1,884年)
明治19年の「尋常中学校令」で1県1校となり「若松中」「平中」(県立)「田村中」(郡立)は廃校。
明治6年に開始された「安積開拓」により、明治15年「安積疏水」完成。しかし「飲料水」の便は良くなかった。
明治20年「東北線」開通。
明治22年4月 安積郡桑野村(現郡山市桑野町)に移転。
(「県庁」は福島、「中学校」は郡山(桑野)に政治的決着)
福島からの荷物の「引越」は、汽車は使わず職員や生徒が紺がすりの着物に袴姿で、行李を背負い
10里以上の道のりを隊列を組んで行進したと記録に残っています。先頭の者が「ラッパ」を吹きならし
沿道の住民から「若い兵隊さんが通る」といって出迎えられ、村によっては飾り立てた山車を出して祝
ってくれたそうです。
明治31年 安積「第一尋常中」、磐城「第二」、福島「第三」、相馬「第四」の4校に「会津中」が加わり
5中学校体制がスタートしました。。
明治34年 「安積中学校」(修業年限5年)に改称。
昭和23年 「安積高等学校」に改称(学制改革)「質実剛健」「文武両道」「開拓者精神」が校訓。
〃 59年 創立百周年記念式典(卒業生は約2万5千人)。
平成13年 春の選抜高校野球大会に「21世紀枠」で出場 金沢高校(石川県)に1-5
この年から「男女共学化」(117期入学) 野球部の創部は明治23年
平成26年 創立130周年記念式典(卒業生 32、936名)。
旧校舎は白ペンキ塗り二階建て、明治初期の洋風建築で「バルコニー式玄関」が特色。
国の「重要文化財」に指定されています。(昭和48年までは教室として使われました)
主な卒業生
高山 樗牛 「滝口入道」(歴史小説).「わが袖の記」(随筆)。 「樗牛賞」は昭和15年から
朝河 貫一 天才的で「神童」と呼ばれた。「朝河桜」伝説。 「朝河賞」は昭和32年から
日米開戦を避けるための昭和天皇宛ての「ルーズベルト大統領親書」の草案を書いた。
新城 新蔵 京都大学総長。「新城松」伝説。 「新城賞」は昭和28年から
小西 重直 〃 。
西 儀一 陸軍大将。
横地 石太郎 夏目漱石「坊ちゃん」の赤シャツのモデル。第五代校長。(松山中学の教官となり夏目漱石と出会った)
久米 正雄 「流行火事」「牛乳屋の兄弟」「阿武隈心中」など。芥川龍之介、菊池寛、山本有三らと交流。俳号「三汀」。
学校の校長をしていた父は「天皇の写真」を焼いた責任を取り割腹自殺。
荻生 天泉 正統大和絵の大家。帝展無鑑査。橋本雅邦に師事。「天の岩戸」など。
太田 秋民 〃 。荒木寛畝に師事。「城ヶ島」「山村朝霧」など。
大原(阿部)八郎 医学者。「野兎病」研究。(大原総合病院長の養子となる)
中山 義秀 「厚物咲」で芥川賞受賞(第7回、1,938年)。)他には「碑(いしぶみ)」など。本名は「中山 議秀」。
東野辺 薫 「和紙」で芥川賞受賞(第18回、1,943年)本名は「野辺 慎一」(32期)。 (30期)
玄侑 宗久 「中陰の花」で芥川賞受賞。(第125回、2,001年)臨済宗妙心寺派「福聚寺」住職(三春町)(88期)。
佐藤 潤四郎 ガラス工芸
湯浅 譲二 作曲家
佐藤 六郎 漫画家
など多数。また数が多すぎて個別に取り上げませんでしたが、地域医療を支えている寿泉堂(湯浅恭一)、
郡山精神病院(金森健)、土屋病院(土屋繁一)、星総合病院(星一雄)、太田総合病院(太田辰雄)、
坪井病院(坪井栄孝)などにも卒業生が多数関わっております。
経済界・政界・教育界も、数が多すぎて今回は除きました。
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