安積高校と朝河貫一
福島県のちょうど真ん中辺りに「郡山市」があり、そこに福島県では最も古く明治17年に創立された
「県立安積(あさか)高等学校」があります。旧校舎は明治時代の洋館を思わせる建物で、国の重要
文化財に指定されています。(下の写真)
夏目漱石の「坊ちゃん」が新春ドラマスペシャルとして撮影された時にはロケに使われました。ちなみ
に「赤シャツのモデルは、明治26年に33歳という若さで安積高校の前身「福島尋常中学校」の校長に
なった「横地石太郎」だといわれています。(翌、明治27年愛媛県の「松山中学」の教官となり、そこで
英語教師をしていた「夏目漱石」と出会いました。)
私が高校生の頃はまだ3年生の一般教室として使われておりましたが、今は「安積歴史博物館」に
なっております。
卒業生は3万人を超えており、高山樗牛、中山義秀など有名人も多数輩出しておりますが「朝河桜」
「新城松」として伝説の様に語られているのは、「朝河 貫一」と「新城 新蔵」です。
「朝河桜」は校庭の一角に植えられております。貫一が千ページもの「コンサイス英和辞典」を2ページ
(1枚)ずつ覚えては食べを繰り返し、最後に残った羊皮の表紙をその根元に埋めたと伝えられています。
貫一は、明治25年「第4回卒業式」で卒業生を代表して答辞を述べましたが驚くべきことに全文が完璧
な英語でした。その英文の見事さから英語教師ハリファクスが「やがて世界はこの人を知るであろう」と
言ったと伝えられています。(このエピソードは昭和59年「答辞を英語で述べた明治の中学生」として『英語
教育』1月号で紹介されました。県が英語教育を重視し、ハリファックスが住む家を新築、校長の2倍という
破格の待遇(給与120円)で迎え入れましたが、県の財政難から3年で解雇にいたりました)
貫一は「旧制安積中学」を首席で卒業後、早稲田大学の前身「東京専門学校」をこれまた首席で卒業し、
大隈重信、勝海舟などの援助で渡米しダートマス大学、イェール大学の大学院卒業を経てイェール大学の
「歴史学の教授」になりました。(欧米と日本の中世期比較制度史研究の権威。『入来(いりき)文書』は不世
出の業績) ※「貫一」の名は「吾ガ道一ヲ以テ之ヲ貫ク」(論語)から
第二次世界大戦直前の昭和16年11月、日米開戦を避けるため、昭和天皇宛ての「ルーズベルト大統領
親書」草案を書いたことでも知られています。(昭和23年8月11日、ワーズボロで死去、74歳でした。)
「新城松」は、校門近くの松林の中に生えておりましたが、枯れてしまい今は残っていません。新蔵が勉強し
ていて眠気を催した時、太ももを突き眠気を覚ますのに使ったとされる錐(きり)が埋められていると言われて
おります。新蔵は、後に「京都大学総長」になりました。(次の総長「小西重直」も安積中学の卒業生です。)