「完璧」と「刎頸の友」

 中国の春秋戦国時代のこと。趙の国にあった「和氏の璧」と呼ばれた立派な宝玉を
秦の昭襄王が欲しくなって自領の15の城(町)と交換したいと申し出ました。
 趙の「藺相如(りんしょうじょ)」が使者として「璧」を持って秦に行きましたが、昭襄王
が口先だけで交換する意志がないと判断し、命がけで璧を取り返し、従者に渡し抜け道
を通って持ち帰らせました。
 怒髪天を衝くほどに怒った昭王でしたが「賢人」だとして許しました。宝玉を損ねること
なく持ち帰った「完璧而帰(璧をまっとうして帰る)」という故事が「完璧」の由来。
 藺相如はこの功績により上郷(大臣)に出世しました。しかし、それを快く思わなかった
のが歴戦の名将「廉頗(れんぱ)」で、口先だけの手柄だと不満を口にしました。その噂を
耳にした藺は病気を理由に家にこもりました。
 数日後、家臣に散歩をすすめられて家を出た藺は、運悪く廉頗の姿を見かけてしまい、
そそくさと道を変え引き返しました。それを見た家臣が「匹夫の振る舞い」だと辞職を申し
出ました。藺は「今、私が廉頗と争っていれば秦につけこまれるだけだ」と理由を説明しま
した。
 この話を人伝に聞いた廉頗は自らの不明を恥じ、藺の前で上半身裸になりいばらの鞭を
持って「気の済むまで叩いてください」と謝罪しました。藺は廉頗を許し服を着るよう促しまし
た。すると感動した廉頗が「あなたにならこの首刎ねられても悔いはありません」といったの
に対し藺も「私も将軍のためなら喜んでこの首(頸)を差し出します」と応えたことから「刎頸
の友」という言葉が生まれました。

※「和氏の璧」にまつわる話
  楚の国の卞和(べんか)という人が山中で玉石の原石を見つけ厲王に献じましたが何の
 価値もないとして右足の筋を切られる罰を受け、次代の武王に再び献じた所、今度は左足
 の筋を切られてしまいました。次に即位した文王は、卞和が3日3晩泣き続けているという
 話を聞いてその理由を尋ね、試しに原石を磨かせたところ「名玉」だと判明しました。
  文王は不明を詫びるとともに卞和をたたえ「和氏の璧」と名付けたといわれます。秦の昭
 襄王の話から「連城の璧」と呼ばれることもあるそうです。 


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