墨色の部屋の隅で姿無きものに怯えていたのは、いつのことだっただろう。
外は、降る粉雪がさらさらと戸を打ち、風がごおごおと恐ろしい音を轟かせる。
は毛布を頭からかぶり、部屋の隅で震えていた。
なぜだろうか。こんな時に限って、昼間した怪談を思い出してしまう。
「・・・・・・?」
突然ふすま越しにかけられた声に、はびくっと体を震わせ、ひゃあと甲高い声をあげた。
当然だろう。宵も更けた今、誰かが来るなどとは思いもしない。
ただただ怯えているばかりのの耳に、ふすまがすうっと開いた音がする。
誰?誰なの―――!?
がそう思った瞬間、誰かが毛布越しに抱きしめた。
「ぎゃーーーーーーーーーーーっ!」
気絶せんばかりの悲鳴をあげた。
「お、俺だって、俺だってば、」
焦ったようなその声は、の唯一の身内である兄、孫市だった。
その声を聞くと、は泣きじゃくりながら毛布から抜け出、一目散に孫市に飛びついた。
「孫兄いぃーーーーっっ!」
「大丈夫、大丈夫だから」
優しい、優しい、声。
暖かい、暖かい、腕。
孫市は、小さく笑いながら、優しく頭をいいこいいこ撫でた。
これで、の恐怖心は和らいでいく。
「馬鹿だな。だから怪談はやめようって言ったろ?」
今となってはいい笑い話だ。
□ □ □
季節が移ろいゆくのは速く、今は冬。
無音で降り積もるは、粉雪。
ゆっくりと、ゆっくりと、景色を白に染めてゆく。
は、見慣れた庭が知らないものに姿を変えてゆく様を、ぼおっと見ていた。
――――――こんなに、あっという間に変わるものなの?
は、単純にそう思った。
それは、ついさっきまで、よく見知っていた庭だった。
が手入れをまかされている椿の木も、秋には実をもいでみんなで食べた梨の木も、それはあたりまえのように、あたりまえの姿でそこにあった。
それが、さらさらと粉雪が降り始めた途端、瞬く間に姿を変え始め、あっと言う間にの知らない姿となった。
なんとあっけないことだろう。
ただ、雪が降り始めた。それだけで、簡単に身を翻すなんて。
ふと、は不安になった。
―――人もまた、こんなに早く変わるものだろうか?
さっきまでそこにいたと思ったらもういない、なんて。
それが、もし大切な人だったら?
万が一、孫兄、だったら?
は、ぞっとして身を震わせた。
「様、寒いですから中にお入りになってください」
「うん・・・・・・」
「風邪をお召しになります」
「うん・・・・・・」
は、返事もそぞろに頼りない気持ちで庭を見ていた。
孫兄に会いたい―――会って確かめたい。
孫市が、そこにいることを。
は、縁側にあった草履を履いて走り出した。
「ちょっと、孫兄のところに行ってきます」
「様!?」
呼び止められるのも構わず、は孫市の元へと走った。
孫市に会いたい。
会って、抱きしめてほしい。
安心させて欲しい。
そのぬくもりを感じたい。
ただ、孫市が欲しくて――――――
とんとん。
障子を叩く音がする。
「誰だ」
中から聞こえてきたのは、孫市の真剣な声。
その声を聞いて、仕事中だったろうかとは何も考えずに来たことを少し後悔した。
「・・・孫兄」
「か!?」
顔を見ず帰ろうと思っただったのだが、中からバタバタと大きな足音が聞こえ、目の前の障子が勢いよく開いた。
孫市は驚いた。
白い息を吐き、頬と鼻を真っ赤に染めながらも、防寒着など羽織らずただ着物一枚でつっ立っている。
「ごめんなさい。仕事の邪魔だったよね」
「こんな薄着で、この大バカ者!!阿呆!早く入れ」
「はい、すみません・・・・・・」
ぼろくそにけなされたものの、孫市の扱いは優しい。
急いでを部屋の中に導くと、火鉢の前に座らせた。
「馬鹿だな。こんな雪の日に来るなんて・・・・・・ホラ、こんな手も冷たくして」
孫市はの両手をとり、口を近づけてはあっと息をかける。
暖かい―――
火鉢よりも、孫市の手や息の方が暖かくて心地いい。
「ったく。風邪ひいちまったらどうするんだよ」
「・・・頭になかった」
何も考えてなかった。
風邪ひいたら、とか考えもしなかった。
ただ、そばにいたくて。
ただ、孫市のぬくもりがほしくて。
気づいたら、孫市のところに足をむけていた。
「・・・・・・孫兄に、会いたかったから」
「・・・熱でもあるか?」
「ないですっ!・・・孫兄に会いたかったから来たのに。帰るッ!」
「待て待て、待って、待ってください、ちゃん。帰るな、帰るなよ」
ぽふっと、孫市の腕に引き寄せられる。
ああ、この声だ。
この腕のぬくもりだ。
これだけは、ずっと変わらない。
いつだって、をずっと守ってきてくれたもの。
小さい時から、ずっと、ずっと、守り続けてきてくれたもの。
この声も、ぬくもりも、ずっと変わらない。
ただ、この景色も、新しい景色も、孫市と見たい。
「?お、おい、どうした」
は気づいてしまった。
「孫兄、私、思ってたより、孫兄のこと好きみたい」
「・・・」
孫市の熱を帯びた視線は、桜をからめとり、ますますの心はひとつの思い出がんじがらめになる。
そんな束縛もけっして嫌なものではなく、むしろ、心地よく孫市に傾いていくきっかけにすぎなかった。
「・・・かえさねぇぞ、今日は」
「うん」
瞼。
頬。
唇。
孫市に口付けられる。
「は、俺に惚れてるだけでいい」
そう囁かれたとき。
は。
すっ、と孫市に堕ちた―――
降り積もるのは、粉雪。
私の想いごと、閉じ込めて―――
2008.10.12