事件は、その日一緒にいた、忍びでありのよき友人である鶴のひとことからはじまった。
「様って紅ひかないですよね。一度も見たことないです」
「え?紅?そうだっけ?」
そう言われてみればそうだ。
最近の記憶をたぐりよせてみても、紅を手に取った記憶がない。
高級品である紅なのだが、運良く恵まれた環境にいるための身近にある。
しかし、なぜか一度としてひいたことがなかった。
そのことに小さな理由さえもあるわけでもない。
ただ、なんとなく。
そんな習慣がなかっただけだ・・・・・・そう思うことにした。
つけてみようかと気が向いたは、紅探しに予想もしない苦労をすることとなった。
まず、お化粧箱がどこにあるかわからない。
きょろきょろとずいぶんの間部屋を見渡して、やがて部屋のかたすみに置いてあった箱がお化粧箱だと知り、初めて開けてみる。
これだろうかと少し逡巡しながら、何個か入っていた小さな同じ形の入れ物のひとつを手にとって、それをまじまじと見た。
これが、紅―――はごくりとのどを鳴らしてしまった。
そっとふたを開けてみると、目の覚めるような鮮やかな赤色の紅が入っている。
「これ、何指で塗るの?」
「大抵、薬指ですけど」
は、おそるおそる薬指で紅をひとすくいすると、慣れない手つきで唇にひいた。
そして、初めて紅をひいた鏡の中の自分と対面した。
「・・・・・・なんか、違うくない?」
「ええ・・・・・・・・なんか・・・・・・・・口さけ女みたいな・・・・・・?」
□ □ □
今日の雑賀は、朝から見事に晴れ。
秋特有の靄が、眼前に広がる山々にうっすらとかかり、その色彩を滲ませている。
その姿からは、冬の足音がそろそろと聞こえてきそうだった。
それもまたとても風情があって、は静かな気持ちで素直に見とれていた。
は、ここの屋敷から見える景色がとても好きだった。
春も、夏も、秋も、冬も。
移ろい行く季節でその姿を変える。
ずっと、ずっとここにいたい。
大好きな人達と一緒に。
ずっとずっといられたらいい。
は、少しセンチメンタルな気分で強く願った。
「様、様あーーーーーーっっ」
「・・・・・・・・・」
大きく呼ぶ声と共に、どたばた激しい足音が迫ってくる。
ああ・・・・・・いい雰囲気が、気分がぶち壊しだ。
は、やがて姿を現した人物に、あからさまなしかめっつらを向けた。
しかし、そんなの抗議の表情は完全に無視された。というか、視界にさえ入っていないような感もある。
「今、堺から商人が来てるんですよ。いーーーっぱいキレイなものがありますよ。行きましょう。さあっ!」
「えっ!?ちょっとーーーーーー!」
有無を言わさず強くぐいぐいと腕をひかれ、は半ば引きずられるように連行された。
連れて行かれた庭先では、もうすでに商人が商品を並べていた。
その周りを女性たちがぐるりと取り囲み、キャイキャイと浮かれた華やかな声が響いている。
その間を縫ってがひょいと覗いてみると、色とりどりの布地、帯、きらびやかな簪など身を飾るものがずらっと所狭しと広げられている。
別段珍しいものを使っているわけでもないのだが、どことなく洗練されている感じのものばかりで、こういう手のものに疎いでさえもうきうきした気分になる。
「わあ、かわいーーーーい」
そうが手にとったのは簪。
小さい蒼い玉と白い玉で花を模っている飾りがついている。
すると、そんなの様子を見て、商人はにこやかに応対した。
「普段使いにいいですね。きっとお似合いになりますよ。こちらの薄紅色の少し大きめの石のもおすすめですよ」
そう言って商人が選んでくれた簪も、可憐な感じがして可愛いと素直には思った。
「うらやましいことに、孫市様からは何でも好きなものを買っていいとお許しが出てます。好きなもの選んでください」
「・・・・・・は?」
「愛されてますねーーーーーヒューーー!」
が孫市と公認の仲になってからというもの、何かといえばこんな調子で周りから冷やかされる。
はそれが嫌というわけではないのだが、どうにも照れくさいため、いつもついそっけない台詞を吐いてしまっていた。
その初々しくも可愛らしい素振りが、周りのひやかしたい気持ちをますます助長させていることをは知らない。
「孫兄も知ってるの?」
「知っているどころか、馴染みの商人さんだそうですよ。さあさあ、選んでください」
「“馴染み”?」
は、ぴくっと眉をしかめた。
馴染みと聞いてしまうと、女がらみではとついかんぐってしまう。
なんせ、孫市は自他共に認める無類の女好きだ。
その悪癖は、と正式に付き合うようになってぱたりとなりを潜めたため“だった”と過去形で言った方がいいだろうか。
と付き合う前までは、美女を両手二本の腕では足らないくらいはべらせ、往々に歩いていたものだ。
孫市もまた、器量がいい上に女性の扱いに長けているため、非常にモテた。
いや、現在進行形でモテる。がいようともかまわずモテる。
今はさらりと交わしまじめに相手にはしないのだが、好きな人の側に美女がすり寄っているのを見るのは、恋人であるにとっていい気分がするものではない。
全くモテない男よりもいいでしょう、と言われるが、モテすぎるのも考えものである。
そんな孫市の“馴染み”の小間物屋だなんて、女がからんでいないわけがない。
以前、他の女への贈り物を選ぶ時にでも知り合って馴染みになったのだろう。
は、少し無神経じゃないかと、孫市の軽率さを恨み、手に持っていた簪を置いた。
「あの、私ーーーこういうの疎いからーーー」
「そう言うと思いました。でも、今日はぜっっったいに選んでいただきます。じゃないと、私たちが孫市様にお叱りを受けるので」
「孫兄に叱られる?」
「はい、叱られてしまいます。暇をいただくことになるかもしれません。様がこういうものをお好きじゃないのは知っていますが、今日は縛り付けてでも選んでいただきますよ」
「暇?そこまで言うなんて何かおかしい・・・・・・もしかして、孫市命令?」
は、まさかとひやっとした。
“孫市命令”とは、雑賀の名を継ぐ事実上のトップである孫市が、名をかけて命令する絶対命令だ。
この命令には、絶対に何人たりとも逆らえないしくみになっている。
「はい、そうです。孫市命令が下ってます」
「孫市命令!?うわぁ!こんなのに孫市命令!?職権乱用!」
“孫市命令”は、重い命令ゆえめったに発令されないし、孫市も今まで一回もこれを発令したことはない。
政治的なことで使われはしても、こういう私的なことに使われたことなど前例でもないだろう。
こんなことに重要な“孫市命令”を下すなんて、とは最初は怒りを覚えたが、やがて呆れの気持ちが大きくなった。
「さすが、孫市の名を継いだ男。器が違う・・・・・・」
「文句は孫市様本人に直接言ってくださいませ。私達は孫市命令には逆らえませんので」
は、ぐっと詰まった。
たしかにそうだ。
をはじめ、孫市の下にいる者がこの命令に逆らえるはずがないのだ。
「・・・・・・はい、わかりました。選ばせていただきます」
“孫市命令”はここでは絶対だ。
は、並べられた商品の前にしゃがみこんで、しぶしぶながら再び商品に目を通し始めた。
しかしすぐに、しぶしぶでは目の前にいるせっかく来てくれた商人に悪いと思い直し、真剣に選ぶことにした。
ここにいる商人には、一切非はないのだから。
の真剣に選ぶその様子に商人は少し笑みをもらし、に話しかけた。
「もしかするとあなたがさんですか。孫市さんからお噂はかねがね聞いております」
「え?噂?兄は、あなたにも何か喋ってらっしゃるんですか」
「ええ。会う度あなたの自慢話ばかり延々と聞かされるんですよ。噂に違わず美しい方ですね」
―――う、美しい!?
聞きなれない言葉を耳にして、は思わずぼっと赤面して絶句し、うつむいた。
「孫市さんから、今日はいいもの見立ててやってくれと耳にタコができるくらい言われてるんです。さんが選んでくれないと孫市さんに何されるかわかったもんじゃないんで選んでくれませんかねえ」
と言われても、実をいうとはこういうものを選ぶのが得意ではなかった。
も女性だから、興味がないわけではない。
見れば少なからず綺麗、と思うことは思うのだが、これで自分を着飾ってみたいとかそういう欲があまりなかった。
女はまず綺麗にしてなんぼとは知っているのだが、正直どれでも良い。
こんなことを言ったら、皆が口を揃えて非難ゴーゴーいいそうなのであえて言わないが。
「あの、ひとつだけ選ぼうと思ってます。こういう品を選ぶのは初めてなので、おすすめのものを何点か教えてください」
「ありがとうございます。お見立てならおまかせください。では、様が似合いそうなものを数点紹介させていただきますね」
そう言うと商人は、手早くの前へ商品を並べていく。
「琥珀色や薄紅色がお似合いだと思いますので、この着物とか、あと珍しいものではこの帯留め。この練り香なども孫市さんお好きだと思いますよ」
どうしよう―――
今、は迷いに迷っていた。
確かに商人が厳選してくれたものは、とても魅力的なものばかりである。
ここまで自信を持って出してくれたものだ。きっと、に似合うに違いない。
しかし、どれもこれも綺麗すぎる。
こっちを手に取れば、あっち。あっちを手に取れば、こっち。
自分はこんなに優柔不断だっただろうか。
よもや、このきらびやかさにあてられて、判断力がにぶってしまったのではあるまいか。
の気持ちが、どうしようという迷いから決められない焦りに変わって来たとき、どこからか聞きなれた声が聞こえてきた。
それは、の親友である氏朝と女忍の鶴だった。
「今日はなんだか賑やかだな。おっ、何、。おまえもようやっとこういうのに目覚めたか。遅咲きもいいとこだな」
「うるさいよ、氏朝くん」
「俺もね、そろそろもう少し女らしくなって欲しいと思ってたんだよ。紅さえもひかないんだから。皆さんお願いしますね。コイツを女にしてやってください」
「そこ!そこぉっっ!!ほんとうるさいから!ひやかしなら間に合ってます」
氏朝の相変わらずの毒舌ぶりに憤慨したものの、そのおかげではいつもの調子を取り戻すことができた。
「ああ、紅。紅でしたら可愛らしい細工のものがあるんですよ。ひいてみませんか?色も様にお似合いになると思います」
「紅・・・・・・」
は、紅にまつわる嫌な思い出をふと思い出した。
以前一度だけつけてみたことがあって、そのことを思い返したくもないが、それはそれはひどかった。
唇だけ浮いて、まるで恐ろしい妖怪のようだった。
なので、あれ以来、は紅はつけたことなどない。
たしかに、は普段から化粧などしないため、化粧っ気がないと言われても当然だ。
生来整った顔立ちに恵まれているおかげか、今まで紅をつけなくても何も言われなかったのだ。
しかし、氏朝に言われたからではないが、年頃の女性としてはさすがにまずいだろうと思い始めていたのも確かだ。
というのも、孫市と付き合い始めてわかったが、孫市の周りには紅も白粉もしていない女性はひとりとしていない。
唯一、だけと言ってもいいかもしれない。
面と向かって尋ねてみたことはないが、孫市はそういう女性が好きなのではないだろうか。
紅をひくと、あの色気がつくのではないか。
はそう思い、思い切って遠ざけてきた紅に再挑戦してみることにした。
こくんとうなづいたを確認した商人は、笑顔で袋から花の形をした小さい陶器を取り出した。
「かわいい細工でしょう?花の形になっているんです。この中に紅が入っているんですよ。紅には色んな色がありますが、様はまだお若いですし可愛らしい顔立ちですから、こういう少し桃色がかった赤などお似合いだと思います」
商人の助手の女性が、失礼しますと前置いてから、馴れた手つきですいとつけてくれたのは薄紅色の紅。
続いて目の前に差し出された鏡にうつったのは、いつもとどこか違う少し大人っぽい自分。
紅にいい印象を持っていなかったは驚いて、少し顔の角度を変えて何度も何度も見てみた。
艶めいた丸い唇が際立って、のもともと整った顔立ちをますます強調しているかのようで、一気に大人びた印象に変わった。
「!」
「素材がいいので映えますね」
「うん。とっても似合います。以前つけた紅は口から血を吐いたみたいなお色でしたっけね」
鶴は、ぶふふっと吹き出して、肩を震わせて笑っている。
「・・・あの、鶴さん。鶴様。どうかその話はもう封印してください。商人さん、これください」
「はい、ありがとうございましたあ!」
商品を受け取ったは、着物の袂にそれを大事にしまい込んだ。
「これで皆も叱られないでしょ。一件落着!はぁーーーー肩の荷が下りたぁ!」
「とってもお似合いです、様!本当に一気に大人っぽくなられて見違えました」
「そぉ? 氏朝、どう?」
「にあ・・・いや、俺なんかより、早く孫市様に見せてこいよ」
氏朝は、思わず“似合う”と言いそうになり、慌てて取り繕った。
まずいことに、ここにいるのは見事に女性ばかりだ。
女の話というのは、大抵尾ひれがついて大きくなるものだと氏朝は知っていた。
ここで氏朝が似合うと言ってしまったら、明日の朝には『氏朝は様のことが好きだ』なんて話にふくらんでいそうである。
いくら現在氏朝に意中の人がいようとも全く関係なく、恐ろしいことに噂は一人歩きする。
そうして、最終的に孫市の耳に入ることになって、根のない話で睨まれるなんてことになったら大変だ。
以前のように、殺気だけで殺されそうな事態になったら非常に困る。
無邪気に喜んでいるには悪いが、孫市とつきあっている自覚を持って欲しいと氏朝は思った。
「いつもみたいにじゃじゃ馬ぶり発揮するなよ」
「じゃじゃ馬・・・!?失礼な、氏朝くん。私のどこがじゃじゃ馬だとぅぉ?」
そう言って、氏朝の首を絞める。
「こういうところ・・・うっ、苦しいからやめて。マジやめて」
「・・・・・・まあ、孫兄にはあとでちゃんと見せるよ。ちょっと照れくさいけどね」
氏朝は、そういうところは可愛いんだけどな、という言葉を飲み込んだ。
「ああ、そうだ。孫市様、今日は夕方には仕事終わると思うぜ。頑張れよ」
「うん。ありがと。じゃあ、私、先に部屋に戻るから」
「おう」
「お気をつけて」
そうにこやかに手を振ってを見送っていた氏朝と鶴は、の姿が見えなくなったかと思うと示し合わせたかのように顔を見合わせ、声を揃えて言った。
「世話がやけますねーーーーーーーーー」
は、部屋の中でこれでもかというくらいドキドキして待っていた。
氏朝の話では、夕方には孫市の仕事が終わるらしい。
日は落ち、辺りは薄闇に包まれ、残光がうっすらと近くの山の輪郭を描き出していた。
もうそろそろだろうか―――は、もう一度鏡を見た。
鏡の中には、ちゃんと紅をひいたいつもと違う自分がいる。
なんとなく気恥ずかしいが、これを見て孫市はなんと言ってくれるだろう、という期待の方が大きい。
気づいてくれるだろうか。
いや、孫市のことだから、間違いなく気づいてくれるだろう。
でも、その時、どういう態度をとったらいいのだろう。
は、期待半分不安半分で待っていた。
その時、勢いよくどどどどっと走る音が近づいてきたかと思ったら、ふすまがぱしーーーーんと音をたてて開いた。
「ちゅわあぁぁん!!!!久しぶりぃ!」
「ま、孫兄」
念願の孫市との対面だったはずなのだが、は開いたふすまの音にその場で飛び跳ねるくらい驚いたためいいリアクションができず、ただ孫市の名前を呼んだ。
孫市は、あれ?と首をかしげ、不満をぽつりともらす。
「久々会えたのに、なんだかつれないねえ」
「いや、これ孫兄のせいだから。びっくりしてるの!」
「まあ怒るなって。会いたかったぜ、」
そう言って、孫市は満面の笑顔で、をきゅうっと抱きしめた。
ぬくもりが伝わってきた頃孫市は、の丸い後ろ頭を包み込むように優しくゆっくりと撫でる。
そして、さらさらと長い髪をすくように感触を楽しんだ。
「はぁ・・・久しぶりのの感触・・・・・・どんなに触れたかったか・・・」
は、いきなりの抱擁にあたふたしていた。
その上、耳元での艶っぽい囁き。
身体がぞくぞくと震え、心が熱くなっていく。
知らない。
こんな私、知らない―――
は、勝手に動く自分の体と心に戸惑いを隠せなかった。
今まで恋人のいなかったに、いきなりこの行為はあまりにも刺激が強い。
一旦、孫市が腕を解いた時には、の頭はすでにのぼせあがってくらくらしていた。
「・・・ま、孫兄。仕事は終わったの?」
「まあな。孫六の奴のせいでちょっと来るの遅れたけど、ちゃんと終わらせてきたぜ。これで明日まで邪魔されずずっとお前といられる」
孫市は、の肩を抱いたまま、顔をかたむけて覗き込んだ。
そして、おっと何かに気づき声を上げる。
「紅」
孫市はにっと笑うと、の唇にちょんとひとさし指をあてた。
「いい色だ。うん、似合う、可愛い」
孫市にそう言われ、はとても嬉しくなった。
気づいてくれると確信していたのにもかかわらず。
は、素直にお礼を返す。
「今日はありがとう、孫兄」
「ああ、すっげえ似合うぜ。まるでここだけ春みたいだ」
孫市は手を伸ばし、の唇の輪郭を親指でつっとなぞる。
「でも悔しいな。まさか、お前が紅を選ぶなんてな。紅を選ぶんなら俺が選んでやりたかった」
「孫兄が?」
「ああ、なんていうか―――俺色に染めたい」
こういうことに免疫のないにはてき面。
は、目を丸くして、みるみる顔色を赤に染めた。
いつもそうだ。
この人は、いつも臆面なくこういう恥ずかしいことを言ってのける。
は、居心地悪そうにふいと横を向いた。
すると、孫市はそれを優しく制すかのように、の頬に手を触れた。
そして、の顔を自分の方を向くように導き、ついっと顔を寄せる。
「なあ、それ、うつして?」
「・・・あーーー・・・孫兄にそんな趣味あったなんてね・・・・・・。じゃあ、ほんの少し唇あけて?」
と紅を取り出して、孫市につけようとする。
わかってはいたが鈍いにもほどがあるんじゃないか、と孫市は開いた口がふさがらなくなりそうだった。
「いや、俺、そんな趣味ないから。何、その目。ホントないから。・・・そうでなくて、こう・・・・・・」
近かった顔がさらに近い。
そう思った時には、もう遅い。
ちゅっと軽く唇に感触。
触れた―――
は驚き、触れた箇所を両手でおさえ、ばっと飛びのいた。
「え、え・・・っ。う、うつしてって・・・・・・」
「うつったろ?」
触れたのは唇。
もしかしてと大きく見開いたの目にうつったのは、唇をほんのり桃色に染めた孫市。
それは、と同じ色。
の唇からうつった紅。
どうしよう―――眩暈がする。
あまりの艶っぽい出来事に、は思わず孫市から目をそらしてしまった。
すると、孫市はすかさずを腕をひいた。
は、再び孫市の腕に捕らえられる。
「だぁめ。、こっち見て」
即、無理、と思い、ぐいと孫市の身体を押したが、孫市の力は緩まない。
「逃がさねえ」
孫市は、頬から首筋に向かってつっと指を軽く走らせた。
ぞくぞくと背筋に甘い感覚が走る。
触れる指が優しい。
呼ぶ声が優しい。
勝てるわけがない。
こんな魅力的な誘惑に勝てるわけがない。
は、潤んだ瞳でゆっくりと孫市を見上げた。
「・・・・・・久しぶりに会ったのに、そんな表情されるとたまんねえよ」
「あ・・・・・・んっ」
孫市は、の腰をぐいとひくと、唇を合わせた。
“そんな表情”って、いったい、自分はどんな表情をしていたんだろう。
はふとそう思ったが、あとからあとから波のように押し寄せる孫市の口付けにやがて何も考えられなくなった。
孫市は、軽くついばむように優しく、何度も何度も音をたてて口付ける。
かと思えば、唇を開くように舌を割り込ませる。
「悪りぃ、手加減できそうにない・・・。なあ・・・口開けて?」
そういうと、今度は深く唇を合わせる。
咬むように深く、そして強く。
息がうまくできないくらいに。
は、さきほどまでの口付けなど、花びらがひらひらと舞うようなはかないものに感じた。
「は・・あっ」
は、角度を変えて重なる時に、思い切り息を継ぐ。
待望の空気であったが、それを吸い上げられるかのように孫市に深く口内を探られる。
絡み合う舌と舌が濡れた音を響かせると、の羞恥心をあおり翻弄した。
とうとうの膝が音をあげて折れ、それをなんなく孫市が支える。
「お・・・っと」
「孫・・・兄ぃ・・・・・・」
息苦しかったのだろうか、うっすらと潤んだ瞳で絶え絶えに孫市の名を呼ぶ。
その表情は、頬も薔薇色に染まり、恍惚ともいえる表情だ。
反則だ―――孫市は、背中からふい撃ちをくらったように感じた。
まるで、誘っているような表情。
それも好きな女のこんな表情を見て、男として黙っていられるわけがない。
「・・・・・・いいのか? その表情。食っちまうぜ」
が無意識だということはわかっている。
自分がどんな表情をしているかわかってなどいまい。
そして、そういう表情をすることが、男をどんなに煽ることかわかってなどいまい。
少しずつ進んで行こうと構えていた孫市だったが、制止をかけても完全にはし切れない状態だ。
の白い首筋に吸い込まれるように、孫市は唇を寄せた。
「あ」
熱い感触とちりという痛みを感じて、は身体を震わす。
の首筋には、孫市がつけた紅い花が咲いた。
「俺のものの証」
「え?」
「わかんなくていいよ」
そう孫市は満足げに笑って、の頬にひとつ口付けを落として、きゅっといとおしげに抱きしめる。
甘く、甘く。
の心に、孫市への恋うる想いが広がっていく。
「孫兄、大好き」
「ああ、俺も好きだぜ」
「今日・・・・・・抱っこして寝てくれる?」
「おまえ、鬼だな。・・・・・・まぁ、いいか。久々一緒に寝ようぜ」
正直何もせずに一夜過ごすのはキツイだろう。
しかし、こうなることは想定内だったし、覚悟していたことだ。
孫市は、今夜だけはを自分の腕に抱きしめて眠れるだけ満足だと思うことにした。
「おいで」
と孫市は、先に布団の中に入り、手をのばした。
もこの中においでと誘っているのだ。
は、孫市に導かれ、布団と孫市の腕の中にすっぽりとおさまった。
こうやって一緒に布団に入るのは何年ぶりだろう。
子供の頃はよく一緒に寝たものだが、年頃を迎えていつしか一緒に眠らなくなった。
しかし―――落ち着かない。
当たり前だ。
子供の時とは、想いの在り方が違う。
お互いの立場は『恋人』だ。
孫市は手の中の性の欲求と戦っていたし、はドキドキして、とうとう朝方まで眠れなかった。
が目を覚ました時には、日はすでに高かった。
いけないと思い飛び起きると、すでに孫市は隣にいなかった。
仕事に行ったのだろうか。
は、急いで身支度を済ませ、孫市を探しに部屋を飛び出した。
廊下を歩いているは、いきなり戸惑っていた。
なんだかみんなの様子がおかしい―――
は、怪訝そうな表情を隠せずにいた。
会う人、会う人に、なぜか笑顔で祝福の声をかけられる。
「様、おめでとうございます」
「おめでとうございます」
「・・・・・・ありがとうございます」
とりあえず、お礼はするものの、今日は何かめでたい日だったろうか?
は首をかしげた。
「様、おめでとうございます」
「・・・キャーーー、見た?あの首筋の印・・・・・・」
首?―――
一体、なんなのだろう。
すれ違う人が例外なく振り返る。
人によっては、今のようにこそこそと噂話をしていく。
は首をひねるが、いくら考えてもわからなかった。
が考えを巡らせながら歩いていくと、やがて庭先に人だかりが見えた。
その中心は、どうやら孫市らしい。
は、何か不穏なことがあったのだろうかと一瞬不安に思ったが、にこにこと機嫌よく笑っている孫市とその周りを取り囲む人達の表情を見ると違うとわかり安心した。
そこにさらに近づいていくと、とんでもない会話がの耳に飛び込んできた。
「おめでとうございます」
「孫市様、昨夜の様との同衾おめでとうございます」
「いやあ、ありがとう。皆、ありがとう」
「ち、ちが・・・・・・・!!」
何? 何、みんな、その態度。
言いふらしてるの?もしかして。コイツは!!!
「――――――っ!!!孫兄のバカアァーーーーーーーーーーーーーーァ!!!!!」
の怒声が、雑賀に響いた。
今日も、雑賀は平和である。
2007.11.24