策士・後編

は、走っていた。
いつもは“急ぐときは足早”の女官の規則を遵守していただったが、今日は叱られてでも走らなければならないくらい忙しい。
それも、先日の陸遜の解雇事件で、女官の数が急に減ったせいだ。
そのため、はじめ陸遜付きの女官たちは、非常に忙しい思いをしていた。
嫌がらせを受けなくなったのは、正直嬉しい。
最高だ。
は、今回ばかりは、心底陸遜に大感謝していた。
近いうちに新しい女官を補充すると陸遜が言っていたので、この忙しいのもそれまでの辛抱だろう。
この忙しさも嫌がらせされるよりずっといい、とは忙しさを素直に受け入れ、いつもより意欲的に仕事に励んでいた。
そんな仕事に追われるの耳に、華やかで賑やかな声が飛び込んできた。
その声の方を誘われるように見ると、大勢の女子の輪の中心にいたのは、陸遜。
陸遜は、その輪の中でにこやかに話していた。
それを横目で見ながら、は、むっとした。

(“ムッ”?)

は、自分の気持ちに驚いた。
それもそのはず。
今、は、女子に囲まれている陸遜を見て、“おもしろくない”と思っているのだ。
楽しげに話している陸遜に?
それとも、陸遜に笑顔を向けられているあの女子達に?
それでは、まるで、やきもちをやいているようではないか。

「ま、まっさかぁ〜〜〜〜〜」

は、ふるふると頭を振って否定した。
それはあってはならないことなのだ。
陸遜は主で、はただの女官だ。
とてもじゃないが、身分が違いすぎる。
そもそも、好きとか嫌いとかそういう気持ちは持ってはいけないのだ。
は、陸遜に目を向けた。

「!」

目を向けた瞬間、陸遜と目が合った。
ドキン―――
胸がひとつ高く鳴り、は、反射的に目をそらした。
瞬間、しまった、気づくわけがない、とも思った。
は今、廊下から、中庭にいる陸遜を見ていたのだ。
ここまではかなりの距離がある。
まさか気づくわけがない、気のせいだろう、とは気を取り直して、もう一度陸遜の方を見た。

「あ・・・」

気のせいではなかった。
陸遜は、間違いなくまっすぐ射抜くような瞳でを見ていた。
思わず、は逃げるように目をそらして後悔した。
どうして、目をそらしてしまったんだろう。
目をそらす理由などまったくない。
きっと、陸遜に不自然だと思われたに違いない。
は、慌てて陸遜に視線を返した。

「――――っ」

は、後悔した。
陸遜を見たことを後悔した。
陸遜が、あまりにも切なそうな目で、を見ていたから。
目が離せない。
その瞳の色にの胸は、きゅっと締め付けられた。
どうして、そんな瞳で見るのだろう。

(お願い、そんな目で、見ないで―――)

は、逃げるようにぎゅっと目をつむった。
それでもなお、その貫くような視線を感じ、我慢ができなくなり、は駆け出した。
は、息苦しさに、ぐっと胸元の服を握った。

(もしかして、私、陸遜様のこと・・・?)

どうしよう。
気づいてしまった。
胸が苦しいのは、陸遜のことを好きだからだ。
ドキドキするのも、そう。
陸遜が女子に囲まれてた時不快な気持ちになったのも、嫉妬だ。
全て、気づいてしまった。

(私、陸遜様のことを、好きなんだ)

この気持ちは、想っても想っても叶うことがない。
いっそのこと、気づかなければ良かったのに。
は、走りながら、打ち消せない想いに苦しんでいた。








□  □  □








一方、陸遜は、走り去って行ったの背中を見て、ひとつため息をついた。

「逃げられましたか」

今日のこの場面も、いつもは囲まれる前にするりとかわしている陸遜が、少しに焦ってもらいたくて、故意的に作ったものである。
もっと劇的な効果を期待していたのだが、また逃げられてしまった。

「どうしたんですか?陸遜様」

「いえ・・・蝶がとらえきれなくて」

少しくらいは気づいてくれただろうか。
陸遜は、ひとり握る手に期待を込めた。







□  □  □







今日のの仕事は、山のような書簡を、指定の場所まで運ぶことであった。

「お、重い・・・」

その腕には、山のように竹簡が詰められた箱が抱えられている。
しかも、非常に重い。
日々、力仕事もそこそここなすでも、なかなかきついものがあるほどだ。
そのため、周りの様子を気遣う余裕がなかったは、廊下の角で出会い頭に人とぶつかってしまった。

「キャッ!」

は、その衝撃で、しりもちをついた。
もちろん、持っていた荷物もばら撒いてしまった。
マズイ。大失態だ。
は、慌てて謝った。

「申し訳ありません!」

「大丈夫か!?」

「い、いえ、こちらこそ、前方不注意で申し訳ございません」

そうぶつかった相手を見上げて、は目をみはった。

(・・・っキャーーーーーーーー周瑜様ーーーーーー!!)

は、心の中で絶叫した。
むしろ、声にならなかったのを褒めて欲しい。
目の前で手を差し伸べていたのは、ずっと憧れていた君だったのだから。
最高の至近距離で手を差し伸べる周瑜は、きらきらと眩く輝き、の想像を遥かに上回っていた。
その麗しさに、はうっとりと見つめている。

(ああ、近くで見ても美しいです、周瑜様ぁーーー!)

夢のような事態に、は舞い上がった。
舞い上がらない方がおかしいだろう。
相手は、この呉では“美周郎”で通る美青年だ。
うかれる気持ちを抑えながら、は差し伸べられている周瑜の手を掴もうとした。

「―――痛っ」

「すまなかった。足を痛めたか!・・・・失礼」

周瑜は、足を痛めたを、横抱きに軽く抱き上げた。

(キャーーーキャーーーーーーッ!!私、周瑜様に抱かれてるーーーッ!)

は、興奮のあまり気を失いそうだった。

(神様、もう死んでも構いませーーーんっっっ!)

「医務室まではこぼう」

「そんな!周瑜様にこんなことをさせては、後でお叱りを受けてしまいます」

「怪我をさせてしまったのはこちらだ。おまえの主にはのちほど言っておこう」

「それには及びません」

ふたりの間に水をさすように、不機嫌そうな第三者の声が挟んだ。
は、その声の主を良く知っていた。
今、話をしていた、の“主”だ。

「陸遜様」

明らかに不機嫌そうな表情の陸遜に、は一瞬たじろいだ。
今、は大失態をしでかしたばかりだ。
この主は、怒らせると怖い。
それを知っているは、憧れの人に抱き上げられている喜びもどこへやら、嫌な汗がぶわっと噴き出した。

「その女性は、私の女官です」

陸遜からギンギンと感じる殺気に、周瑜もまたたじろいだ。
なぜ味方である陸遜に、これほどまでの殺気を受けなければならないのか。
陸遜は、口調が静かな分、何をするかわからない怖さがある。

「あ、ああ、そうか・・・す、すまなかったな」

「返していただけますね」

陸遜は、周瑜から有無を言わさずを素早く奪い取ると、軽々とその腕に横抱きに抱えなおした。

「私の女官が大変な失礼をしでかし、申し訳ありませんでした。失礼します」

儀礼的な挨拶を早々に済ませると、陸遜は早々にそこから立ち去った。
周瑜は、しばらく呆然とそこに立ち尽くしていた。













一方、陸遜に抱かれ、の胸は先ほどよりずっと高鳴っていた。
陸遜に聞こえるのではないかと心配になるくらいだ。
は、恥ずかしさで麻痺しそうになっている頭をどうにか振り起こして言った。

「あの・・・り、陸遜様、おろしてください」

「うるさいです」

の願いは、一も二もなく一蹴された。
そんな陸遜は、どこか怒っているようだった。

「重いですから」

「うるさいと言っているんです。少し静かにしてください」

やはり、怒っているような陸遜に、は萎縮した。
いつもの穏やかな陸遜の雰囲気は、そこにはなかった。
さっきの失態を怒っているのだろうか。
それとも、が気づいていない他のことだろうか。
そう心配になりながらも、は不謹慎にも陸遜の腕の中で苦しいくらいどきどきしていた。
怒られているのに、嬉しいだなんて、どうかしている。
しかし、こうして陸遜のそばにいられることが、さっきの出来事以上にには嬉しい出来事だった。

(・・・やっぱり、好きなんだ)

早まる鼓動に。
嬉しいと思う気持ちに。
は、自分の気持ちを再認識した。








やがて、を抱えて、陸遜が訪れたのは、医務室。
中に入る否や、をおろし、椅子に座らせると、陸遜は手際よく手当てしだした。

「痛めたのはどっち?」

「り、陸遜様にそんなことさせるわけには参りません。自分でできます」

「こっちですね」

陸遜の“これ以上言うな”と言わんばかりの目で一喝され、は萎縮して引き下がった。
陸遜が、自分の足に触れている―――それだけで、の胸は張り裂けそうだった。
手当てをする手を休めず、陸遜は訊いた。

「まだ周都督を好きなのですか」

「え?」

「抱き上げられて、喜んでいたでしょう」

「それは・・・・・・」

は、否定できるはずもない。
周瑜には、ずっと憧れ続けてきたのだ。
確かに、抱き上げられて嬉しかったし、相当舞い上がった。
しかし、陸遜に抱き上げられた時の方が嬉しかったのだ。
それを伝えようにも、はこういうことは初めてで恥ずかしいし、どう伝えて良いのかもわからない。
まだ、自分の気持ちさえも上手に整理できていないのだ。

「好きなのですか?」

「いや、あの・・・」

「好きなのでしょう?」

「す、好きですけどっ!ただ、憧れてるだけで・・・」

陸遜は、今回はあからさまにむっとした。
周瑜に対しての嫉妬がひとつ。
それと、気づいていないとはいえ、陸遜の気持ちを無視した発言をしたことがひとつ。

(私以外を“好き”と言わないで欲しいですね)

「え!?り、陸遜様っっ?」

陸遜は、上目遣いでを見ると、脚の甲にキスした。
そして、視線を合わせながら、膝のあたりまでゆっくりと舐め上げる。
の反応を楽しんでいるかのように。

「―――っっ!」

その得も知れぬ感触に、の身体はびくんと跳ねた。

「・・・もう待てません」

「え・・キャ」

陸遜は、手当ても途中に、を抱き上げた。
そして、そのまま寝台の方へ運び、少し乱暴に仰向けに下ろすと、そのままに覆いかぶさった。
陸遜の腕に挟まれるような形で、の顔。
目の前には、陸遜の綺麗な顔。
寝台に押し倒されているような形だと理解し、はうろたえた。
ぎっ、と寝台が軋む。
陸遜の怖いくらいに真剣な顔がどんどん近くなり、息が頬に触れたかと思うと、唇が触れた。

「ん・・・ゃぅん」

は、凍りついたかのように、陸遜の口付けを受けた。
触れた瞬間から、これを待っていたかのように、の心は恋しさで満たされていく。
深い深い口付け。
先ほどの足を舐めた陸遜の舌の感触を、今は自分の舌で味わっていた。
時には、重なる角度を変え、時には、強さを変える。
そんな奔放な陸遜の口付けに、慣れていないはただされるがまま。
こうやって、触れられるのも。
こんな瞳で見つめられるのも。
口付けさえも。
全部、全部、陸遜が初めてなのだ。
自分の気持ちをどう返していいかさえわからない。
は、ただおろおろとしているだけだった。
そんな初々しいから、陸遜は愛しげに一旦唇を離した。

・・・私は、貴女が好きです」

「え・・?」

は、その言葉に驚いて大きく目を見開いた。

(陸遜様が、私を―――?)

深く考える間もなく、陸遜はまたに深く口付けた。

「・・ン・・」

陸遜が唇に触れるたび、の気持ちは、杯に酒が注がれるように一杯になっていく。
なみなみと、そしてそれはゆうに溢れ出してゆく。
止めようがない。
も、陸遜のことを好きなのだから。
は、そのキスに答えるかのように、震えながら陸遜の背に手を回した。
それが、の精一杯だった。
陸遜は、返ってくるの反応に、の想いを悟った。
ついに、は、陥落した。

「好きです、

そう言って頬に口付けた陸遜の胸を、は少し押しのけるような仕草をした。
陸遜の口付けですでに骨抜きにされたに、抵抗らしい抵抗ができる力は残っていなかったのだが。

「だ、駄目です、これ以上・・・」

駄目と言うのとは裏腹に、の表情はもうこれ以上ないくらい溶け切っていて説得力がなかった。
ここまで来て陸遜を拒むとは往生際が悪い。
陸遜が優しく何故と問うと、はうつむいて小さな声で言った。

「これ以上されると、陸遜様のこと諦めきれなくなってしまいます」

「諦める?大切なのはの気持ちです。の正直な気持ちを聞かせてくれませんか」

穏やかな陸遜の声音に、の瞳は潤む。

「・・・・・・陸遜様は陸家のご当主。大事な御身です。私とでは身分が違いすぎます」

そういう理由ですか。
陸遜は、ふぅ、と呆れ半分安堵半分のため息をついた。

「馬鹿ですね、貴女は」

陸遜は、柔らかいの頬にそっと触れ、優しく微笑んだ。

「身分などいくらでも捏造できるのですよ。貴女を守るためならば、孫権様の縁者にでも仕立て上げて見せますよ」

ね、捏造!?
そういうことを悪びれず微笑みを浮かべながら言う陸遜に、は一歩引いてしまった。
黒い。この男は黒すぎる。危険だ。
しかし、止まらない。止められない。
は、すでに陸遜に傾いてしまっている。
恋には、そういう引力が働いていて、一度傾くと、雪崩のように流れていくだけだ。

「私は、貴女がこの手に入るなら、どんな努力も惜しみません。どんなことだってします。絶対に貴女を傷つけさせません。守って見せます。だから、聞かせていただけませんか?、貴女の気持ちを」

好きな人にここまで言われて、拒める女なんているものか。
は、涙でくしゃっと顔を崩しながら言った。

「好きです・・・私、陸遜様のこと、好きです」

「やっと言ってくれましたね」

陸遜は、ぽろぽろと流れるの涙を、指先ですくいあげると、ぎゅっと抱きしめた。
陸遜は嬉しさから、腕の中にいる華奢なを、抱きしめて壊してしまいそうだ、と思った。

「ずっと私だけのものでいてください」

「はい」

もう、絶対に離さない。
壊さないように、壊さないように、大事にしよう。
陸遜は、そっと心に誓った。




「じゃ続きしましょうか」

そうにこやかに、の首筋に口づける陸遜。
いくら初心なでも、陸遜の言わんとすることがわかる。

「え?え?ダメですーーーーーー!!!」

(やっぱりこいつは黒だぁーーーーーー!!!)

の声にならない声が、城中に響き渡った。





2006.9.2