策士・前編

机の上に咲く一輪の花。
陸遜は、珍しくその花に目をとられた。
毎日、仕事で始まり、仕事で終わる。
そんな仕事漬けの毎日を送っている陸遜が気をとられた、仕事以外のただひとつのものだった。
その花は、晴れの日はもちろん雨の日も、生き生きとした姿を見せてくれた。
その花を見ると、少し仕事から離れられる。
ひとつ息がつける。
忙しい自分を、少し気遣ってやれる。
いつの間にか、その花は陸遜にとって、癒しにも戒めにも、とにかくなくてはならないものになっていた。







ある朝、珍しくその花が見当たらない。
陸遜は、女官長に声をかけた。

「すみません。いつも生けてある花は」

「申し訳ございません。枯れたためさげさせていただきました」

「・・・・・・いつも花を置いてくださる方は?」

は、先日から呂蒙様の元へ配置換えになりましたが」

「そうですか・・・わかりました」

―――陸遜は、この日初めて花を生けてくれていた人の名を知った。







次の日、異例の配置換えがあった。
先日、呂蒙付きに変わったばかりのが、陸遜の元にとんぼがえりしたのだった。




それは、陸遜のはじめてのわがままからだったのだが、それは誰も知らない。









□  □  □










ここは、天下の呉の国。
ここのところ大きな戦もなく、平穏な日々が続いている。
陸遜付きの女官、は、遠くに見える憧れの君の姿にうっとり見とれていた。

(ああ、周瑜様・・・今日も素敵・・・)

「はぁ・・・」

「おや、大きなため息ですね」

周りに誰もいないと思っていたは、飛び上がって驚いた。
勢いよく振り向くと、そこには陸遜が立っていた。

「り、陸遜様っっ!!」

は、慌てて、深々と礼をした。
陸遜は、今、が仕えている主だ。
陸遜といえば、容姿端麗、由緒ある家柄、性格も穏やかで、愛想もいい。
それに加え、有能で働き者と前途洋洋、誰が見ても文句のつけようがない。
そんな年若き陸家の当主は、呉にいる年頃の女官達の間では、目下人気ナンバー1の注目株なのだ。
その陸遜の元で働いているは、他の武将の下で働く仲の良い女官が言うには、とても運がいいことだという。
しかも、は、なぜかその主人に気に入られている。
陸遜付きの女官は数あれど、は直接仕事を申し付けられる率が異常に高い。
ゆえに、直接話ができる機会も圧倒的に多い。
しかし、は、もったいないことに、できればこの主人とはあまり関わり合いになりたくないと思っていた。
がただの女官という立場柄、そう思うのは間違っているだろう。
しかし、陸遜と関わるのは、とても危険なのだ。
いつも陸遜を取り囲んでいる、他の家柄の良い美女達が黙っていないからだ。
こういう女子達というのは、本当に目ざといし、うるさい。
こちらの気持ちなど、おかまいなし。
陸遜とちょっと話をしようものならば、足をひっかけられ、水をひっかけられ、散々な目に合うのだ。
そんな彼女達に怒り、反旗を翻したとしても、特別な後ろ盾があるわけじゃないは、働き口を失うのが関の山だ。
悔しいがは、彼女達に強くも言えず、そのままおとなしく働いていた。

「こんなところでぼんやりとして、どうしたのですか」

困るのだ。
気にかけてもらっても、非常に困る。
こんな風に気軽に声をかけられてるところを彼女達に見つかったら、また何をされるかわからない。
いつものこととはいえ、嫌がらせに慣れるわけがない。
も人間だ。
腹だって立つのだ。
は、早々に陸遜の前から立ち去ろうとした。

「いえ。陸遜様にお気にかけていただくほどのことではございませんので、失礼し・・・」

「周都督ですか」

「えっ!?ど、どうしてそれを!!」

は、突然つかれた図星に、真っ赤になって慌てふためいた。

(気に入りませんね)

その様子を見て、陸遜は表情には出さずもむっとした。
陸遜は、自分の我儘から初めて強権を発動して、の配置換えをしてからというもの、何かと好意をアピールしてきた。
最初は、さりげなくしていたのだが、が思いのほか鈍く、一向に気づいてくれない。
このままでは埒があかないので、陸遜の行動は最近ではかなり大胆になってきていた。
陸遜が強権を発動すれば、を手に入れることなどたやすい。
しかし、それではの心は手に入らない。
陸遜は、机に花を置いてくれた優しいの心が、そのまま欲しいのだ。
そのは、陸遜の気持ちに気づくどころか他の男を想い顔を紅く染めている。
彼女を想う陸遜が、気を悪くするのは当たり前だろう。

陸遜は、ぐいとの腕をひいた。
が不思議に思う間もなく、陸遜の端正な顔が唐突に目の前に寄った。

「――――っ!」

唇が、触れていた。
唇が触れたと思った瞬間には、すぐに離れていたけれど。

「目は閉じるものですよ」

「・・・!な・・・な・・・!」

言葉も出ず、これ以上ないというくらい顔を茹で上がらせ、口をぱくつかせているは、まさに金魚のようだった。

(あなたの顔を紅くするのは、私だけでいい)

願ったりのの様子に、陸遜は大満足だ。

「さぁ、戻りますよ」

「ちょ、ちょちょちょっ!りりり陸遜さまっっ!!!」

「何ですか」

「ど、どうしてこんなことをっ!」

陸遜は、おもしろくない。
そんなの決まりきってるではないか。
なぜ、この子はこんなに鈍いのか。
今、流れのまま、告白してしまうのはおもしろくない。

「さぁ・・・気まぐれ?」

は、憤怒した。このまま、憤死しかねない、とも思った。
気まぐれかよっ!このお坊ちゃんは!!!!!
は、殴ろうかと手を握り締めたが、ぐっと我慢した。
主だ、これは、主なのだ。
そう思っても、はこれが記念すべきはじめての口付けだ。
なかなか気持ちが落ち着くものではない。
たまらず、は深く頭を下げて、陸遜の前から下がろうとした。

「・・・失礼しますっっっ!!!!」

「ちょっと待ってください」

陸遜は、すでに背を向けていたの後ろ手をひいた。

「キャッ・・・・・・」

バランスを崩したは、あっと言う間に陸遜の腕の中へと倒れこんだ。
思わず見上げると、そこには今にも息がかかりそうなほど近くに陸遜の顔。

「――――っ」

「あなたの仕事場は、こっちです」

(えええーーーーーーーっ!そんなぁーーーー!!!)

は、心を落ち着ける暇もなく、混乱したまま陸遜に引きずられていく。
そんな陸遜の表情が、いつになく嬉しそうだったのは、後ろを歩くには見えなかった。






□  □  □





やはり、見られていた。
陸遜に手を引かれて歩いているところをばっちりと。
執務室から離れたところに連れて行かれたので大丈夫と思っていたのだが、甘かった。
は、あの後からしっかりと嫌がらせを受けていた。
今日のは、彼女達の仕事まで回されていて、超絶忙しい。
両手に洗濯物を抱えて、ぱたぱたと早足で歩いていた。

「あーーーー忙しい忙しいっっ!」

そんなの目に入ったのは、木陰で眠りこける陸遜。
昨日のこともあり、の胸は素直だ。
不本意にも、とくん、と鳴ってしまった。
陸遜が、たまにこうして中庭で本を読むのが数少ない息抜きだと言うことを、は知っている。
も何度も見かけたことがあるし、以前陸遜がそう言っていたのを聞いたことがある。
から見ても、陸遜は心配になるくらい働いている。
この主人に限っては、夜遅くまで働くことなどざらだ。
いくら若いからといって、もう少し自分を大切にしてもらいたいものだ。
主の働きすぎを、は女官のひとりとして、とても心配していた。
朝からいい陽気だった天気は、昼下がりから日は陰り、風も冷たくなってきた。
は、風邪をひかれては・・・と心配し、洗濯物の中から一枚、陸遜の肩にかけた。

「疲れてるんですね・・・」

はしゃがみ込み、じっと陸遜の顔を覗き込んだ。
見れば見るほど、非のうちどころのない端正な顔。
こうしてじっくり見ると、人気がある理由がわかる。
お肌も一級品の絹のようで、まつげも長くて、お人形さんみたいだと、は思った。
まじまじと観察するかのように見ていたは、突然ぐいと肩を引き寄せられ、陸遜の方に倒れこんだ。

「そんなに見られると穴があいてしまいます」

「――――お、起きて・・・っ!」

起きていたのかと、は焦る。
今、は、陸遜の上に乗っかっているような体制だ。

「あ、申し訳ございませんっ!ご、ご無礼を・・・・・・」

は陸遜から離れようと試みるが、陸遜の抱き寄せる腕の力は固くびくともしない。
ただ、は陸遜の上で、もぞもぞと身じろぐくらいしかできなかった。
みじろげばみじろぐほど陸遜の体に密着し、ありえない体勢になって行く。
がたいのいい武将達の中でひとり華奢なイメージがある陸遜の意外なほどの強い力に、は戸惑った。
こう見えても陸遜は男なのだ、と意識したら、ますます顔は熱くなった。

「からかわないでください!」

「からかってませんよ」

「――――!」

そう、ひどくまじめな顔で、唇を重ねてきた陸遜。
は、そのまっすぐな瞳の色に、なぜか抵抗できなかった。
どうしたのだろう。
その雰囲気にのまれたのだろうか。
の身体は、動かなかった。
何度も、何度も重ねてくる唇を、は目を閉じ、甘んじて受けるだけだった。

「ぅん・・・」

(おかしくなりそう・・・)

の身体から一気に力が抜け、くたんと陸遜にもたれかかる。
は、ついに陸遜に身をまかせ、陸遜は待ってましたと言わんばかりに難なくの身体を支えた。
は、回された陸遜のその力強い腕にますます男を感じ、痛いくらい心臓は高鳴る。
そんなに、陸遜は探るように唇を重ねた。
ときに浅く、ときに深く。
わざとちゅっと軽く音を響かせたかと思うと、唇を舌で舐めてみたり。
舌を割り込ませ、奥で縮こまっている舌を吸って引き寄せ、痛いほど乱暴に絡めたり。
初心者への配慮といったものを微塵も感じさせないような変幻自在な口付けを、想いのままにほどこした。
そういった様子でしばらく陸遜は、の唇をとことん味わうと、満足したのか唇を離した。
陸遜の口付けを受けたの頬は紅潮し、瞳は潤み、その表情は“まだ足りない”と言うかのようだ。
そのの様子を見て、陸遜は満足げに微笑んだ。

「可愛いですね、は」

陸遜は、その言葉にさらに頬を紅潮させた腕の中のの瞼に、ひとつ軽く唇を落とす。
そっとから離れると、陸遜は体の埃をはたき落としながら立ち上がった。

「また見られたら困りますね。彼女達にはそれとなく注意しておきますから」

「え?」

「仕事を押し付けられているのでしょう?」

「あ、あああーーーー!そうだった!!!」

今の今まで、見事に頭からすっぽり抜けていた。
は、今、仕事中だったのだ。
超絶忙しい身の上なのだ。

「陸遜様、失礼しますっ」

は、雑念を振り払うかのように素早く立ち上がり、陸遜に一礼して、仕事に戻っていった。
の姿が見えなくなると、陸遜は、瞳に冷たい色を浮かべ、ぼそっと呟いた。

「さて、と。彼女達の処遇はどうしましょうかね・・・」








□  □  □








次の日、陸遜付きの女官達は青冷め、震え上がった。
に嫌がらせをしていた主な女官達が、急に家に帰されていたのだ。
陸遜が昨日言っていた“それとなく注意”どころではない厳しい処遇だった。
陸遜曰く、“してはならないことをしたので”ということだった。
“してはならないこと”というのは、への嫌がらせのことだろう。
陸遜にとって、はそれほどまでに“特別”なのか。
普段は温厚で通る陸遜が下した今回の処遇は、はしゃいでいた女官達を黙らせた。






以降、への嫌がらせがぴたりと止まったのは、言うまでもない。


2006.9.2