03

椿は、いつものお気に入りの木の下にいた。
大木に背をあずけ、虚ろな目でさわさわと揺れる木々をただ見ていた。

護衛官失格だ―――

あの日から何日たっただろう。
あれからずっと何をしていても、椿の心はそれだけでいっぱいだった。
大好きな訓練でさえ、うわのそらなほどに。
椿は、あの日、陸遜を守るべき立場なのに、守るどころか足手まといになってしまった。
陸遜の機転に助けられ、あまつさえ甘えて陸遜の背にまでのってしまった。
なんてことをしてしまったんだろう―――椿は、しでかした失敗の大きさを思い返した。
そして、たまらずうつむくと、両手で顔を覆い深いため息をつきながら首を横に振る。
その時、がさっと草を踏む音がした。
はっと顔をあげると、紅い衣装を着た人物が目に入った。
それは、今思っていたばかりの人であった。

「―――陸遜様」

「ああ、椿ですか。また会ってしまいましたね。あなたとは本当に気が合うようですね。・・・気の合うよしみで、私がここにいることは内緒にしておいてくれませんか」

そういって口元に人差し指をあて、内緒にと微笑んだ。
内緒も何も、陸遜と会えるこの限られた場所を、他人に言うつもりなど最初から椿にはない。
椿は、こくんとうなづいた。

「・・・何か悩み事ですか?よかったら話してください。相談にのりますよ」

そう言うと、無防備に椿の横にすとんと座った。

「いえ、その。あの・・・・・・申し訳ありませんでした」

椿は、立ち上がって、深々と礼をし謝罪した。
そんな椿に、陸遜はぽんと軽く頭を撫でた。

「そんなの椿が気にやむことじゃありませんよ。調子の悪いあなたを連れて行った私のミスなんですから」

「私は、体調が悪いのを知りながら、無理やり護衛を希望しました。結果、足手まといになってしまい、陸遜様と隊のみんなには大変な迷惑をかけることとなってしまいました。どんな処罰だろうと覚悟しています」

「いいえ。最終的に決めたのは私です。責は私にあります。むしろ、危険な目に合わせた事を許してください」

「そんな・・・・・・」

「もしかして最近元気がなかったのはこのせいだったんですか?悩むようなことではありませんよ。椿は真面目ですね。次は体調万全にしてくださいね。椿の働き、期待してますよ」

やさしい、この上司はやさしすぎる―――
椿は、どんな罰も受ける覚悟だった。
しかし、逆に謝られてしまっては立つ瀬がない。
椿は、迷惑をかけた責任の重圧でいっぱいな心の一方で、不謹慎にも嬉しさもあった。
陸遜が、あの中でも椿の命を気にかけてくれたことが。
少しでも気にかけてくれたことが。
少なくとも陸遜に必要とされているのだろうかと嬉しくなった。
ちっぽけなことなのに、こんなに嬉しい。
陸遜の言葉に態度に一喜一憂して、もっともっと彼の役に立とうと思う。
こんなふうに、日に日に椿の思いは募ってきていた。
一方通行の思いで決してかなう事のない想いだ。
陸遜には、がいる。
あれから何度かふたりの姿を目にしたが、に対しては、わかりすぎるほどに陸遜の態度は違う。
彼の気持ちは、恋人のにだけに向いている。
だからこそ、守られれば守られるほど、苦しくなるのだ。
息が苦しくなるほどに。
余裕のある戦など、ない。
戦に参じる兵は、いつも命をかけて出てゆくのだ。
だから、未熟な足手まといである自分など捨て置いてもかまわないのに。
自分の命など、陸遜の命に比べるとちっぽけなものなのに。
いっそのこと、守らないで―――と椿は心で叫んでいた。

「陸遜様。僭越ながら、お願いがございます」

「はい。なんでしょう?」

「これから―――あのような場面に遭遇したら、迷わず私を斬ってください」

椿は、膝をついて懇願するかのように言った。

「“あのような”とは、あなたが敵に捕らわれたことでしょうか?」

「はい。私たちの役割は、陸遜様の盾であり、剣であることです。ひとつの役割さえも果たせない駒の命などとるに足らぬもの。どうかお捨て置きください」

陸遜は、一瞬間をおくと、ふうとため息をついた。
その表情は凍ったように少しも崩れもしなかったが、その一瞬の間に陸遜の迷いが出ているような感じがした。

「私たち軍師の中には、兵を“駒”と考えている方がいるのは確かです。しかし、僕はそうは思わないのですよ。誰であろうと死んでは何もならない。何かできるのは生きている間だけです」

「生きている間だけ―――」

「“偽善”だと問われれば、そうでしょう。私は自分が嫌だからそうしている。ただの意見の押し付けです。戦はいくら大義名分があるとはいえ、やっていることはただの命の獲りあいです。今、私が役を担う軍師というのは、非常にたくさんの兵の命をあずかります。それを“駒”と考えるか“命”と考えるかは人それぞれですが、私は想いがある以上、どうしても“駒”などとは思えないのですよ」

陸遜の声は、いつになく揺らいでいた。

「甘い、と言われてしまいそうですね。わかってもらいたいのは、いつだって私はあなた方を“駒”などと軽々しいものには思ってないということです。逆に、押しつぶされそうなほど重い。しかし私は、それを抱えて乗り越えて行かなければならない立場です。・・・だから、椿?私の近くにいるあなたの分だけでも軽くして欲しいんですよ。絶対に、どんなことがあっても生き残ると約束してください。あなたの能力ならできるでしょう」

椿は、いささか迷ったが、こくりとうなずいた。
陸遜に問われたことに約束できるかと問われれば、答えは否だ。
戦に安全の絶対などないのだから。
目の前にいるこの恐ろしく強い人であっても、戦に出たら死ぬかも知れない。
それは誰にもわからないし、そのことを陸遜だってわかっているはずだ。
ただ、椿は陸遜の要望にはなるべく応えようと強く思っていたためうなずいたのだ。
椿は、陸遜に向き直り、強い瞳で言った。

「ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか」

「ええ、どうぞ」

「陸遜様は、“死”とはどのようにお考えですか」

「“死”ですか。そうですね・・・・・・強いて言うならば『無』でしょうか。死は無。死して礎にとか、そういう考えにはどうしてもなれない。わかりました?私は、意外と命根性汚いんです。今、『無』は遠慮したいところです」

「・・・・・・彼女のために?」

「そうですね。そして、呉のために。・・・とかカッコイイこと言っときましょうか」

陸遜は、少し笑って言った。

「これは、ここだけの話にして忘れてください。将としてはふさわしくない言ですから」

この人は、どの顔が本当の顔なんだろう―――

戦に出てはとてつもなく冷徹な部分を見せたかと思えば、今のように人間らしい部分も垣間見せる。
ただ、簡単にわかることがある。
この人が将として背負ってるものは、とてつもなく大きくそして重い。
そうであれば、少しでも軽くしてあげたいと椿は思う。

ああ、好きだ、私は陸遜様が好きだ―――

そんな椿の想いは、今募りに募り、口をついてあふれだした。

「どうしたら・・・どうしたら貴方の心に入り込めますか?」

「椿?」

「好きです。私は、陸遜様のことが好きです」

陸遜は驚いた表情を一瞬見せたが、すぐに困惑したような表情に変わった。

「・・・申し訳ありませんが、椿の気持ちには応えられません」

わかっていた答えだ。
椿は、小さくうなづいて、気後れすることなく陸遜をまっすぐ見つめた。

「はい、わかっています。ただ、少し気持ちを聞かせて欲しいんです。あの人でなければ駄目な理由を」

「理由・・・という理由などないので答えようがないのですが・・・・・・。ただ、私の全てがに向いていることは確かです。他の誰も見えない。実はこんな想いは初めてなので、我ながらおかしな状態ではあるかもしれないですね」

陸遜は、そう小さく笑った。

「少しの隙間もありませんか」

「はい」

「絶対に?」

「はい」

陸遜の声音や口調は優しくとも、椿の問いに寸分もなく答える様は、厳しい。
椿は、息がつまった。
できなかった、というべきか。
陸遜には少しの迷いもない。
彼女をまっすぐに、ただまっすぐに想っている。
椿が陸遜を想っているように。
入り込む隙間などない―――
そう思い知った

「部下の立場から逸しました。―――失礼しました」

は、気のない礼を軽くした後、部屋から飛び出した。



椿は、自室に入るなり、扉を背にずるずると座り込んだ。
そして、大きく息を吸ったかと思うと、声を上げて泣いた。
天を向いて。
溢れる涙を両手で押さえ込むかのように。
しかし、どうしても涙は両手の隙間をすりぬけ流れ落ちてしまうのだが。
陸遜の想いは、椿の考えていた以上のものだった。
これが、憎しみというものだろうか。
なんとも言えぬ粘着質で攻撃的な気持ちが、未だ白くあろうとする自分との葛藤と共に椿を交互に悩ませた。
あれだけの想いを一身に浴びているをうらやましく、そして憎らしく思う。

「消せる思いだったらどんなに楽か―――」

消せるわけがない。
こんなに膨らんだ気持ちは、どこにも行きようがない。
ただ、膨らんで、膨らんで、大きく膨らんでいくだけ。
いっそのこと、しゃぼん玉のようにもろく弾けてしまえばいいのに。
そうしたら、どんなに楽かもしれないのに。
もう、この恋の花の根は根付いてしまって、抜こうとしても悲鳴をあげて抜くことなど出来ない。
消せない。
はじまったばかりで、なかったことになどできない。

「消せなくても・・・思ってていいですか?この心の火が消えるまで・・・・・・」

想い続けることは罪ではない。
しかし、想い続けることは、おそらく今椿が考えている以上に、辛く切ない道だ。
それでも、想いがまだ残っている以上、この道しかないのだ。
椿は、涙をふいた。
決めた以上、何も後悔しないよう。
心を隠し、護衛に徹していこう。
椿は、立ち上がり上を向いた。





その後、何事もなかったように、椿は陸遜の護衛に徹した。
陸遜もまた、何もなかったように椿に接した。
今の椿には、何の迷いもない。
ただ陸遜の力になろうと、力を奮っていた。



そんなある日、椿は戦に召喚された。
相手は大国、魏。
椿の身体は、否応なく震えた。



それは、今まで体験したことのないほどの苛烈な戦だった。
椿は、陸遜の側で、襲い来る露葉を振り払おうと必死だった。
さすがは天下の魏軍の兵だ。
今までの敵とは段違いに強い。
相手も必死。気をはりめぐらせていないと、いつ倒れてもおかしくないほどだ。

「勝利は目の前です!」

声を張り上げ激を飛ばしながら、舞うように剣を振るう陸遜は、恐ろしい勢いで敵を撃破していく。
魏軍の兵からは、恐ろしい鬼のように見えているに違いない。
椿は、そんな陸遜を、これ以上ないくらい頼もしく、誇らしく思った。
そんな椿の目に、陸遜に向かい弓を放とうとしている何人かの弓兵の姿が飛び込んだ。
陸遜を見ると、まだその存在に気づいていない。
椿の場所からは、倒そうにも遠すぎる。
椿は、危急の事態を知らせようと陸遜の方に向かって走り出した。

「陸遜様っ!弓兵!」

しかし、敵味方から発せられる声にかき消されてしまった。
まずい。このままでは、矢は陸遜に向かって放たれる。
そう思った瞬間、弓兵は次々と矢を放った。
椿は、うまく矢の軌道上に立ちふさがった。
飛んでくる矢の数は、数十本。
はらえるか―――いや全部ははらえない。

「しかし、払うしかない!」

椿は、飛んでくる矢に立ち向かい、弾こうと剣を振るった。

「椿!!!!!」

陸遜の声と共に、椿の身体に衝撃と共ににぶい音が数回した。
衝撃で倒れこみそうになりながらも、椿は体勢を立て直し、敵の弓者めがけ走り出した。
弓者は悲鳴を上げながら逃げ惑ったが、椿は全部薙ぎ斬った。
そして、倒れた弓者の他に敵がいないかどうか周りを見回したが、敵は足並み揃えて走って退却して行くのが見えた。
おそらく、退却の命令が出たのだろう。
もうここは安全だ、と思った瞬間、椿の視界は揺らぎその場に倒れ込んだ。

「椿!」

走ってきた陸遜が、椿の身体をぐっと抱き起こす。

「陸遜様、ご無事で何よりです」

「なぜかばったりしたのですか!」

「それが仕事ですから」

椿は、胸が熱いと感じふと見てみると、矢が容易に椿の胸を貫いているのが見えた。
そこから、紅くて熱いものが溢れ出している。
椿も、幾戦も生き抜いてきた猛者だ。
この血の抜け具合だと、もう助からないだろうとわかる。

「死ぬんです、ね。私」

「・・・・・・死ぬなと命じたはずです」

「申し訳ありません。それでも・・・・・・」

陸遜の命を守れたことに。
好きな人の命を守れたことに、椿は満ち足りていた。
陸遜の命に背くことになってしまったことは残念だが、それでも目の前で好きな人が死ぬのを見るよりはずっといいだろうと思う。
陸遜が抱きかかえる椿の身体から、すうっと力が抜けていくのがわかる。
陸遜は、それにあからさまに悲しそうな表情をした。

「ふふ、悲しんでくれるんですね」

「あたりまえです」

逝こうとしている人間を腕に抱えて、誰が無表情でいられようか。
それができるのが本当の軍師だと言うのならば、陸遜は軍師にはなりきれないと思った。

「好き、です」

「はい」

「まだ・・・・あなたの心に入り込めませんか」

「・・・・・・はい。私の心はのものです」

死に逝く者を目の前にした、この場においてもなお。
いや、この場だからか。
わかっていた。
私が好きになったのは、彼女のことが好きな彼だ。
この場においても、嘘など吐かない。
ひとつの想いにまっすぐな、ある意味不器用な彼なのだ。
そう、答えなど最初からわかっていたのだ。

「陸遜様・・・・・・」

椿は、最後の力で腕を伸ばし、陸遜を引き寄せ唇を奪った。
陸遜の口の端についた紅い雫。
それは、紛れもなく椿がつけた印。
陸遜が少し唇を開くと、たちまち口中に広がる血の香。

「どんな・・・味がしますか」

椿は、にこりと微笑った。
それは、この殺伐とした戦場で、今死に逝く者の表情だとは思えないほどおだやかで満ち足りた笑みだった。

「これで、少しでも・・・」

―――私は貴方の中に入り込めましたか―――

言葉は出なかったがかすかに動く唇。

そして、ことりと逝った。
静かに、静かに、逝った。

陸遜は、ひとつ優しく頬を撫でた。
そして、その場にそっと椿の亡骸を横たえた。

「・・・馬鹿な人ですね。言ったでしょう?死んではどうにもならないと。・・・・・・しかし、私の腕の中で死んでいった者をどうして忘れられましょうか」

その死に様は、刻み付けられた。

形は違えども、刻み付けられた。

「眠りなさい。しがらみも何もかも忘れて。 椿―――あなたのことは、私が生きている限り忘れません」

陸遜はすっと立ち上がり、後ろの兵に命令した。

「火を、つけなさい」

陸遜の声が、凛と響いた。

「ここの何もかもに火をつけなさい」

兵のひとりが放った火はやがて広がってゆき、何もかも元の形をなくしてゆく。
それは、勢いとは対照的にやさしい炎だった。
彼女の身も、心も、からめとるように。
罪も想いも、なにもかもをからめとり、なくしてゆく。

陸遜は、その火に背を向けた。
逃避するわけではない。
陸遜はこれを背負っていくのだ。
どんなに重くても。

「忘れませんから―――」

陸遜は、進み始めた。

振り向かず、進み始めた―――






その火は、一晩中燃え続け、さらに一昼夜くすぶって消えた。






2007.11.21