01

花は、散り際が美しい。
だからこそ、人の心に残るのだ。

一面に、見事に咲いた赤い花。
見渡す限り赤い花で、まるで戦場のようだと椿は思う。

「美しいが・・・・・・これだけあるとなんとなくそら恐ろしい感じがするな」

椿がそう呟くと、一陣の風が後ろからざっと音をたてて吹き抜けた。
その風に目を細めると、風の吹いた方向に立つひとりの人。
赤い帽子、赤い衣服、そして美玉のような顔立ち。
ぎくりとした。
いつからいたのだろう。
椿が反射的に身構えようとすると、その人は薄く笑った。
その瞬間、再び悪戯好きの風が、その人がかぶっていた帽子を舞い上げた。

赤い帽子―――

椿が、つられたようにそれを目で追い、再び視線を戻した時にはもうその人の姿はなかった。

消えた―――そんな錯覚を覚えたくらいにあっさりと。

ぱさり。
椿の足元に、帽子が落ちてきた。


―――夢か現か。

ほんの一瞬の出来事。


椿は、呆然とそれを手に取った。
帽子の感触は、現実だ。

椿は、まるで別の次元のものを垣間見たような、そんな不思議な気持ちでその場に立ち尽くしていた。








死  に  花








椿は、歩きながらいささか緊張していた。

まさか、自分がこんな要職に配属されるとは―――

椿は、志願して女性ながら呉に武官として仕官している。
今まで丁奉のもとで武力を上げるべく日々訓練に励んでいたのだが、このたび女性の武官が欲しいという江東の名族として名高い陸遜の希望から、護衛の任に就くことになった。
正直、非常に重い。
自分の能力では、この任は重いと自負している。
陸遜といえば、知らないものなどいない。
智謀に優れ、才気溢れた若手軍師で、武勇の方でも名高い。
しかも、呉郡陸家といえば一度落ちぶれたとはいえ江東の名族で、家柄も超一流。
その上、容姿端麗、育ちの良さがうかがえる洗練された雰囲気や言動などで、女性にとても人気がある人である。
その陸遜の護衛など、聞いただけで恐れ多い上、その重圧に負けそうだった。
いや、すでに最初から負けていた。
なので、この話を聞いた時、椿は自分にはふさわしくない話だと一度丁奉に断りの旨伝えたのだが、先方がもともと少ない女性の護衛官を希望していたため人材が足りず、もう一度椿に、今度は命令として話が降りてきたのだった。
命令となれば話は別だ。
断れようもない。
椿は、扉の前で歩みを止め、重いため息をひとつついた。

―――ああ、ここだ。ついてしまった。

椿は、ゆっくり、なるべくゆっくりと歩を進めてきた。
時間を先送りするだけの行為だが、現実逃避というか、できるならばこの場から逃げ出したいという思いがあるせいか、自然と歩みは遅くなっていた。
まさに、訓練をさぼる輩と同じ心境だ。
椿はいたって真面目な性格で、今まで訓練がなくて文句は言ったことはあるが訓練を休むなんてことは一度だってなかったため、その心境を理解できなかったが、今なら痛いほどよくわかる。
何もかもが、ずーーーーんと重い。
嫌で嫌で仕方がない。
しかし、こんなことをしていても埒が明かない。
椿は意を決し、下唇を噛み締め、襟元を正し、勇気をふりしぼって目の前の扉をこんこんと叩いた。

「椿と申します」

そう椿が名乗ると、部屋の中から凛と通る声が聞こえてきた。

「入りなさい」

これが有名な陸遜の声かと思うと、椿は恐れ多くて震えた。

「失礼します」

そう言った声は、かろうじて震えていなかった。
グッジョブ、椿!―――椿は自分で自分を励まし、緊張で震えた足を折り、陸遜に礼をとった。

「本日から陸遜様の護衛の任を仕りました、椿と申します。精一杯仕官させていただきます。どうぞよろしくお願いします」

「聞いています。無理を言って申し訳ありませんでしたね。そんなに畏まることなんてありませんよ。さあ、顔をあげてください」

椿は、陸遜の言葉に従い、礼をとき立ち上がった。
これが有名な陸遜の顔・・・・・・!?―――椿が初めて見た陸遜の顔は、意外にも驚いた表情だった。
陸遜に寸分たがわず、椿もまた驚いた。
場も立場も憚らず、目も口も大きく見開いてしまった。
一瞬、時が止まったかと思った。
なぜならば、彼は、あの日赤い花が咲き乱れた場所で会った人だったのだから。

「あなたが?・・・・・・ああ、あの場所の花の精は君でしたか。意外でしたね。武に長けているようには見えなかった」

「陸遜様とは知らずとんだご無礼を致しましたっ!」

あの日から1週間ほどたっているだろうか。
本人の知らぬ間に、陸遜(とは知らなかったが)は椿の頭の中で“王子様化”されていた。
夜寝付く時には、必ずあの場所で出会った彼のことを思い出し、幸せな気分で眠りに入った。
椿も武に傾倒してはいるが、中身はれっきとした女だ。
珍しく赤い花が似合うほど秀麗な男性に出会って、それも手品のような印象的な消え方をされてしまえば、心だって動くというもの。
初恋ともいえるかもしれない。
そんな椿の心を奪った彼が、今、目の前にいる。
それが、名を知らぬものはいないほどの敏腕軍師である陸遜だったとは。

「そう硬くならずともいいですよ。美人には弱いんです」

憧れの人にそう言われ、舞い上がらないわけがない。
椿の頬が、色よく染まった。

「では、私の護衛の任、しっかりとよろしくおねがいします」

「命にかえましても」

椿は冷静なフリをしながら、再び礼をとる。
すると、思い出したかのように、陸遜は付け加えた。

「あ、言い忘れていましたが―――死んではいけませんよ?無理だと思ったら、敵前逃亡も許します。必ず戻ってきてください」

「は?」

「死んではならない、と言ったんです。これは命令です」

何を言い出すのだろう、この人は―――
椿は、陸遜の真意が伝わらず、眉をひそめた。
護衛など、この国の重要な将を守るための盾にすぎない。
壊れたら、また次が補充される。
ただの使い捨ての駒だ。
自分の命は仕える将のものだと教えられてきたし、自分でもそうだと思っていた。
命を捧げる覚悟はできている。
それが、戦って行く上での誇りでもあるのだから、突然変えることはできない。

「頼みましたよ」

「―――はい」

いくら命令でもこれだけはのめない、と椿は思ったが、上官の命令だと言われれば是と答えるしかない。
心では否を唱えながら、椿は了承と答えると、うやうやしく頭をたれた。







椿は、訓練の合間に、お気に入りの場所で木にもたれかかり休んでいた。
ここは、城の中でもはずれた場所にある、木が密に並んだ場所だ。
薄暗い場所でたいていの人は避けて通りとても静かなため、昼寝する時や考え事をする時などにはもってこいなのである。
今、椿は静かな気持ちで目をつぶっている。
今日は天気が良いため、ちらちら木漏れ日が差し込んできて気持ちいい。
椿のまぶたにも、日が落ちて明るく見えていたのだが突然影が差し、日が翳ったのかと思い椿はうっすらと目を開けてみた。
椿は、ぎょっとした。
そこには、笑顔で椿の顔を覗き込む陸遜の顔があったからだ。

「よく会いますね」

「り、陸遜様!!!!!」

いつもながら、陸遜の気配に気づかなかった。
彼が一流の武将の証だろうが、心臓に悪い。
慌てて礼をしようと立ち上がろうとした椿を陸遜は制した。

「ああ、礼をとるのはやめてください。礼を重んじるのは、人目がある時だけにしてくれれば結構ですから。私も若輩なので。こんなプライベートな場までは持ち込まなくていいです」

そういうと、無防備にも椿の横にごろんと横になった。

「私も、普段はこんななんですよね。呆れてしまうでしょう?」

椿は、それを呆気に取られて見ていた。

前にも思ったが、この陸遜という将は、圧倒的な知や武を持っていながら他の偉い武将がたいてい持っている威圧的な態度や凝り固まっている知識や思想などが微塵も感じられないのだ。
もしかしたらあるかもしれないが、椿には全くと言っていいほど感じられない。
陸遜ほどの大人物だと、もっと威張ってもいいのではないかと椿は思う。
それどころか、自分を“若輩”と言いおとしめてしまう。
軍師という人間と初めて知り合ったが、他の軍師も陸遜のようにどこか飄々としたところがあるものなのだろうか?
椿の頭に次々と、陸遜に関する疑問が浮かび上がってきた。

「あの、ひとつ質問があるんですがよろしいでしょうか」

真剣な椿の雰囲気を感じ取ってか、陸遜は身体を起こした。

「なんでしょう?」

「なぜ、このたび私を護衛武将に選んでくださったのでしょうか?知っての通り、私はまだ未熟者です。陸遜様を守れるだけの実力はありません。強い方は他にたくさんいるのに、なぜあえて私をお選びになったのか答えをいただきたいのです」

ずっと疑問に思っていたことを、椿は問うた。

「私には、陸遜様を守れる資格がないと思います」

「弓の名手であるあなたが、なぜ自分を過小評価してそう思うのです?」

陸遜は真剣な面持ちでそう問うと、正直に話しますよ、と前置きを入れて話し出した。

「そうですね。あなたを選んだ理由として、ひとつは女性だったから。ひとつはあなたのその率直かつ実直な性格を気に入ったからです。あなたが知っての通り、ここには女性で戦場に出るほどの武と勇気を持った方は少ない。逆に私があなたに問いましょう。なぜ女性の身で戦場に出たいと希望したのですか?恐ろしくはなかったのですか?」

陸遜に問われ、椿は考えるようにうつむいた。
まさか、この場で自分の戦に対する意を述べることになろうとは思わなかった。
やがて、椿は、ぽつりぽつりと話し出した。

「私は幼い頃からおてんばで、兄たちよりも弓が得意でした。そのせいか母に“女として不出来”と疎まれて育ってきました。母としては花嫁修業のつもりで私をこの城に仕官させたつもりだったのでしょうが、私は今望んでこうしています。私が誇れるものは弓だけなのです。これで大切な人を守れるならば、という気持ちで訓練に励んできました。・・・ただ、何度出ても、戦場は怖いです」

陸遜は薄く笑い、椿を見つめなおした。

「私も怖いですよ」

「えっ、陸遜様もですか?」

「ええ。戦に出るたびにそう思います。逆に怖さを知らない者など、ただの無鉄砲の阿呆ですよ。あなたは私を阿呆だと思っていたんですか?」

いえ、そういうわけでは―――と口ごもる椿。
ただ、こんなに恐ろしく強い人が、怖いと言うと思わなかったのだ。

「恐怖を乗り越えてこそ、真の勇を手に入れられると私は思っています。だから、椿。あなたは少し自信を持ってください。あなたは、すでに誰にも負けない誇りと真の勇を持っています。そういう人にこそ、自分の命を預けられるというものです」

「陸遜様の命を?」

「そうです。確かに預けましたよ」

「はいっ!おまかせください!」

椿は、意気込んで了解した。
命を賭して―――と付け加えたかったが、咎められそうなのでやめておいた。
そして、こんな素晴らしい上官に巡りあえたことに感謝した。

「さてと、時間です。私はまた激務に戻ります。あなたも訓練がはじまる頃ですね。真面目なあなたのことですからサボりはしないと思いますけど、しっかりと訓練に励んでください」

はい、と答えて、椿は、もしかすると、せっかくの休憩時間を邪魔してしまっただろうかと思い、申し訳なく思う。
執務室まで行くのだろう、椿の前を歩いていく陸遜が、思い出したように振り返った。

「あなたを選んだ理由、まだひとつありました。あなたが美人だったことです。私も男ですからね。―――あ、には内緒ですよ。怒られてしまいますから」

口元に人差し指を置いて陸遜はそう言った。
椿は、照れくさくて赤面すると同時に、陸遜の口から出た“”という名に、つきんと痛みを感じた。
とは、陸遜が大切にしている恋人の名である。
椿は、彼女の名を聞いたことがある程度で姿は見たことがなかったが、それはそれは周りが照れくさくなるくらいの溺愛ぶりらしい。

どんな人なんだろう。
こんな強くて立派な人に愛される女性というのは。

―――つきん・・・・っ。

再び、胸が痛む。
今まで感じたことのない種類の心の痛みに、椿は戸惑った。

なぜだろう。
こんなに胸が痛むのは。

椿は、前を歩く陸遜の背を見ながら、なぜか泣きそうな気分になっていた。


2007.9.16