04

降りやまぬ雨。










二人を乗せた馬は、陸遜の別邸までひたすら走った。
すでに、濡れていることなど、関係なかった。










冷たい雨の中なのに、陸遜とふたりきり。










雨の中、体に感じるのは。











伝わるのは。











落ちてくる雨の刺激でも、なんでもなく。
















陸遜のぬくもりだけ――――――

































やがて、陸遜の馬はこじんまりとした感じの屋敷についた。

「疲れたときにはここに逃げて来るんです」

陸遜は、苦笑して言った。
ということは、ここは陸遜の特別の場所なのだろうか。
陸遜は馬からをおろし、厩に馬をつなぐと、まもなく数人の使用人が傘を持って出迎えにやってきた。

「いつもながら急で申し訳ないですね」

陸遜は、出てきた使用人に声をかけながら慣れた様子で屋敷の中に入ると、女官長らしき年配の女性があまり驚きもしない様子で出迎えてくれた。
びしょぬれのふたりの姿を見ても何も詮索もせず、笑顔ですいと毛巾を差し出した。
本当はこんなに丁寧に応対してもらう身分でもないとは気後れしたが、どう否定したらいいものか思い浮かばなかったので、ありがとうございますと深々とお礼をして毛巾を受け取った。
陸遜も毛巾を受け取ると、自分のことは構わずまっさきにの頭にふわりとかぶせた。

「大丈夫ですか? 寒かったでしょう?」

降ってくる優しい声に振り仰ぐと、そこには陸遜の心配そうな表情。

「もう少し我慢してください。今、湯の用意をしてもらっています」

「いえ、私は」

陸遜は、人差し指での唇を止めた。

「貴女は私が選んだ女性なんですよ。 ここにいる人は誰も貴女を否定なんかしない。 それに、このままだと貴女に風邪をひかせてしまいます。 だから、ここは素直に甘えてくださいませんか」

熱くて。
指が当てられた唇が熱くて。
はただ、こくんとうなずくことしかできなかった。

「いい子ですね」

「陸遜様、湯の用意ができました」

「ありがとうございます。 じゃあを先に。 大切な方ですから、お願いします。 では、。また後で」

「あ・・・・・・・・・」

は、陸遜の服をくいとひいた。
呼び止めてしまったのは、本能なのだろうか。


“そばにいて欲しい”と。


“離れないで欲しい”と。


今まで抑圧されてきた、自分の素直な気持ちからなのだろうか。


そんな自分の行動に戸惑いうつむいたを、陸遜は引き寄せた。
ほど近くから降り注いだ陸遜の眼差しは、すごく甘やかで。
落ち着かなくなりそうなくらい、甘すぎて。
切なさに息が詰まりそうになったは、ふと目を細めた。

「そんな表情されるとこらえきれなくなりますね。・・・・・・とても可愛いんですが」

「!」

「あはは。まあ、それは後で」

様はこちらへ」

陸遜の目配せを受けて、女官の一人はを誘導した。
生まれてこのかた“様”付けで呼ばれたことなどないは、またむずかゆくなってしまったが、冷えきった身体の震えが止まらなかったので好意に素直に甘えることにした。







まだ熱い――――――








陸遜が触れた自分の唇に触れる。








は、自分の気持ちをもてあましていた。



























やがて、湯から上がった後に案内された広い部屋には、陸遜はいなかった。
は、近くにあった長椅子に腰掛けると、ぐるりと部屋を見渡してひとつ深いため息をついた。
そこで、は、あ、と気づく。
香が焚き染められている。
すごく上品で、それでいてあまり主張しすぎない、穏やかな香りだった。

「あ・・・・・・これ、陸遜様の香り」

いつもほのかに香っていたのはこれだったのかと思う。
香りは、思い出を呼び起こすと聞いたことがあったが本当なのだと思い知る。
まるで、陸遜が側にいるような。
そんな錯覚まで覚えてしまう。





かたん





は飛び跳ねて音をした方を見ると、陸遜が濡れた髪を拭きながら部屋に入ってきたところだった。





どきん―――――






大きく心臓が跳ね、はたちまちさきほどまでとは違うひどく甘く落ち着かない気分になった。


それは、初めて内着一枚の気取らない姿を見たせいなのか。


それとも、陸遜の視線が、いつもより熱を帯びているせいなのか。


急に落ち着かなくなったの姿を見て、陸遜は「何もしませんから」と苦笑した。



「何もないでしょう? ここは私しか来ないので飾り付ける必要がないんです」

「いえ。私はこちらの方が好きです。落ち着きます」

ならば、そういうと思いました」

陸遜は、の隣に腰掛けると、まっすぐに見据える。

「改めて、今回のこと、謝らせてください。 貴女にこんな表情させてしまったことも。 不安にさせてしまったことも」

“今回のこと”と聞いて、の心はたちまち重くなる。
それは、いまだ自分の中で消化しきれていないせいなのだが、それを見抜いてか、陸遜の手はの頬にするりと滑る。

「ただ、に溺れていて、形だけとは言え婚約者だった陽姫のことなどすっかり頭になかった私の落ち度です」

陸遜には珍しく、強い口調で。
次には、年相応の戸惑った表情を見せる。

「毎日、すごく、怖かった。 貴女を ―――――― を失くしてしまうんじゃないかと」

「え? 怖い?」

「ええ。私は、貴女を失くしてしまうことが今一番怖いんですよ」

陸遜は、苦笑して言った。
陸遜でも“怖い”と思うことがあるのかとは驚いた。
しかも、それは自分のことで。
いつもはにこやかだけど表情が変わらず、思ってることがわかりづらい陸遜だったが、自分を想ってくれているのだとじんわり心が温かくなった。

「それから、私はもう貴女に悲しいことを聞かせたくない。 だから、これから先も一番近くでずっと一緒にいたい」

「はい」

それは、自分も同じ気持ちだと、はうなづいた。

「あなたに告げたいことがあります」

陸遜の今までにないくらい真剣な表情に、目の奥に揺れる緊張に、はなにごとだろうときゅっと唇を噛んだ。

「その表情。まだ私を信用していないのですね。 さっき、この先貴女の耳には悲しいことは入れないと言ったでしょう?」

「でも、なんか、顔が怖いから」

「・・・・・こんな時に貴女という人は」

陸遜は思わず苦笑して、真剣にもなりますよ、と前置くと、次の本題にの息は止まることになる。




















。 私と結婚してください」






















時間が。



止まったかと思った。



陸遜から発せられた言葉に驚いて、の目も口も、これ以上ないくらい開かれている。




「まだ私は若輩で、頼りないかもしれません。 貴女の気持ちもまだ見抜けないくらいです。 でも、もうが私のものだというゆるぎない証拠が欲しい」

「・・・・・・だ、駄目です」

「と言うと思いました。 でも、あなたがそう言っても、私はもう決めました。 貴女を花嫁にすると」

「そんな!嫌です」

六花は、すごい勢いで拒絶した。

「“嫌”って・・・・・・・傷つきますね」

「あ、そうじゃなく、嫌ってわけじゃなく・・・・・・・・そのぉ・・・・」

は、どう答えていいのかわからなくて、涙が出てきた。
嫌な訳じゃない。
本当は断ろうとなんかしていないし、思いたくない。
しかし、自分の“立場”がわからないほどは子供でもないのだ。

陸遜のことが、好き――――――

そう思えば思うほど。
幸せを願えば願うほど。
隣にいるのは、自分ではふさわしくない。
その気持ちは、ずっと消えなかった。
冷静になればなるほど、の心に影となって落ちて苦しんだ。











でも。







どうしたんだろう。









今は、嬉しい気持ちの方が。








好きだという気持ちの方が。








ふくらんで、ふくらんで。








もう、自分の気持ちをごまかすことができない。








「陸遜様」

「はい」

「私、我儘です。 陸遜様のことを思えば、離れたほうがいいに決まってるのに。 ・・・・決まってるのに」

だから、一度は離れようと思った。
いや、一度だけではない。
何度も、何度も、心の中で葛藤した。

「なのに、自分の気持ちばかり大きくなって、もう抑えきれない」

唇がつむぐのは、の悲鳴のような心の内。
今まで言いたくても言えずにいた本心。

「もう、陸遜様のことしか考えられない。 陸遜様とずっと一緒にいたい・・・・・・っ!」

紛れもない正直な気持ちを吐露した次の瞬間。
は、陸遜に抱きしめられていた。

強く、強く。

「一緒に、いても、いいですか・・・・・・・?」

「だから、私は最初から以外考えられないと言っているでしょう?」

「でも、私と一緒にいると、絶対に陸遜様は言われます」

「身分のことですか? そんなのどうにでもなると言ったでしょう? 私は“”が欲しいんです。 貴女を手に入れるためならどんな手だって使います」

は、目を見開いた。

そして、呆れた。

そうだった。

この人は、こういう人だった。

我儘で。

強引で。

傲慢で。

それから、二重人格で。

でも、頼りになる、大好きな人 ――――――

は、可笑しくて笑った。

「ようやく笑った」

次に降ってきたのは、唇。

包み込むような。

の不安も、どんな思いも。

何もかも、包み込むような。

そんな、優しい、優しい口付けだった。





「好きですか? 私のことが」



「好きです」



「愛してますか?」



「愛してます」



「貴女の口から聞けるなんて、夢のようです」



陸遜のその笑顔を見ると、六花もまた嬉しくなった。
素直になってもよかったのだと。
何にも憚られず素直な気持ちを告げて良かったのだと。

そんなを見て、陸遜は満足げに微笑んだ。
そして、今度は前置きもなくひょいと事も無げにを抱き上げた。
そのまま、すたすたと寝台の方に近づいて行くのは気のせいだろうか。
いや、気のせいではない。

「え・・・・・・陸遜様? ちょ・・・・・・ま、待って」

「貴女の“待って”は聞き飽きましたし、待ってもいいことがないので却下です。 このまま、黙って私に抱かれてください」

「へ? 抱かれ・・・・・・? って、そんな」

素っ頓狂な声を上げたの抵抗もむなしく、寝台にそっと寝かせられてしまった。
二人分の重みに、ぎっ、と寝台が切なげに鳴く。
その音がこれから起こることを連想させて、妙に気恥ずかしくなり、頬がたちまち熱くなる。
そんな六花の頬の熱を冷ますかのように、陸遜の手が包むように触れた。

「どれだけ私が貴女を愛しているか、身体で感じて」

「身体でって・・・・・・?」

「愛してます、

陸遜は熱っぽい瞳で微笑むと、に口付けを落とした。
深く。
これ以上ないくらい、深く。

「ンむ・・・・っ」

は、咄嗟に耳をふさぎたくなった。
口付けの隙間から時折漏れる自分の声が、聞いたことのないくらい甘かったから。

陸遜の唇は、息を継ぐのも惜しそうに、の唇を後から後から追い求める。
さきほどのを気遣うような口付けとは違う。
まるで、心の中にある気持ちを全部注ぎ込むような口付け。




「・・・・・・・っはァ・・・・ッ」



理性が、霞む。



羞恥も、白む。



陸遜の口付けに、酔わされていく。





唇が離れた時には、すでにはくたんと力が抜け落ちていた。




、可愛い」




陸遜は、次々に軽く口付けを落とす。




頬に。



首筋に。



鎖骨に。



陸遜の唇から、熱が染み込んでくる。







「伝わりますか?」






この熱が愛だというならば。




愛とは、なんて熱いんだろう。




そこからじわりと染み込んで、心さえも溶かしていく。









「とろけ、そう」









熱に浮かされたように。



唇が勝手に動く。



それは、多分正直なの気持ち。









 ―――――― 愛してる」







唇を合わせ。




重なり合って。




混ざり合って。




何度も、誓った。
















もう、二度と離れたりしない、と ――――――


2009.9.9