03

朝から雨がしとしとと降っていた。
は、孫策の方の仕事もひと段落が着き、陸遜付きに今日から戻っていた。

が戻ってる?」

「はい。本日から戻ってらっしゃいます」

「そうですか・・・・・・」

陸遜は、大きくため息をついた。
つきたくもなるだろう。
あれから、まだ一度も話ができていないのだから。
の勤務の場所が後宮だったというのもあるし、陽姫がひと時も離れることなく側にいたので、話すタイミングを見失ってしまっていたというのもある。
しかし、誤解されたまま、今の今まできてしまったのは、陸遜にとって大きな誤算だった。
それは、が陸遜の側に戻る時には顔を見られるだろう、という甘く都合のいい目測も含まれる。
いつもなら、は陸遜付きのため一度は挨拶に顔を出すのが定例だが、陽姫との関係が誤解されたままな今、の気持ちを思うと当たり前だとも思う。

は、どこに?」

「庭で花を摘みに行くと言っていました」

「そうですか」

切なげなためいきをもらすと、陸遜は迷うことなく立ち上がった。

「陸遜様、あまりを泣かせないでください」

「―――少し、外に出てきます」

珍しく陽姫も陸遜のところに来ていない。
陸遜は、部屋を後にした。





 *    *    *





は、暗い表情で花を摘んでいた。
今日から陸遜付きの仕事に戻ったのに、挨拶にも行っていない。
それは不自然なことで、察しのいい陸遜ならば、の気持ちなど手に取るようだと思う。
それは知りつつも、なんとなく顔を合わす勇気が出ないまま、ここに来てしまっていた。

ふと、きい、と扉が開く音がしたので、の顔は自然とそちらに向いた。
こちらに向かって歩いてきたそこにいるだけで気品が漂う人に、の瞳は大きく見開かれた。

「少し、いいかしら?」

「は、はい」

そこにいたのは、艶やかな笑顔の陽姫だった。
陽姫は、かしこまって礼をするに、丁寧ではあるが冷ややかな声を浴びせた。

「実はね、陸遜様のお世話をやめていただきたいの。私がしますから」

「え・・・・・・あ、あの?」

「あなたは必要ないと言っているのです」

「失礼ですが、それは陸遜様の正式な辞令でしょうか?」

「どういうことです?」

「私は、陸遜様のお部屋付きの女官として正式な辞令が下りています。陽姫様からそう言われても受けることはできません」

「簡単なこと。あなたが辞めるとひとこと言えばいいことでしょう?」

体が震える。

「・・・・・・申し訳ありませんが、陽姫様のご要望には添えません」

「陸遜様の正式な婚約者である私が言っているのです!―――行きなさい!」

強く言われても、は下がれなかった。
陽姫とは、身分が違う。
本来ならば、言われた通り下がらなくてはならないのに。
でも、足は凍り付いてしまったかのように動かない。
ここで下がってしまったら、陸遜との今までのことがなくなってしまうかのようで。
の足は、迷いで震えていた。
陽姫は、大きなため息をつく。

「・・・あなたはご自分が陸家の名にふさわしい女性だとお思いですか?」

その問いに、は詰まった。
それは、今まで何度も何度も反復して考えていたこと。
その度に、答えは“いいえ”だったことだから。

目の前のこの人であれば、陸家に誰の目にもふさわしいだろう。
容姿も美しく、気品があり、気位も身分も高く、生粋のお嬢様だ。
陸遜の隣に立っても、とても自然に見える。
何も無いただの女官の自分には、ないものばかりだ。

“陸家”

陸遜は、その当主だ。

わかっている。わかっていたはずだ。

釣り合わない、と。

しかし、“はい”とすぐに言えないくらいに、陸遜のことを好きになりすぎていた。
“はい”と言えば、もう陸遜との繋がりが切れてしまう気がして声が出なかったのだ。
は、自分の身勝手さに嫌気がさし、涙があふれた。
陸遜の立場を考えれば、身を引くべきだ。
身を引くべきなのに、金縛りにあったかのように足はなかなか動かない。

でも。

もう。

「下がりなさい」

「・・・・・・はい。失礼します」

もう、何も言い返せない―――

は、顔をふせたまま、扉を開け渡り廊下に入った。
そこで、どん、と誰かにぶつかった。
驚いて顔をあげると、陸遜の姿。



「―――――― !?」



なぜ。
こんな広い城内で。

どうして。
こんな時にかぎって。

よりによって。
今、一番顔を見られたくない人と。

は、咄嗟に顔を伏せた。

「ぁ・・・・・・っ!・・・申し訳ございません、失礼します」

「ちょ、!?待ってくださいっ!」












「待ってくださいっ!」

そのまま反対側の中庭に飛び出したを、陸遜は追いかけてつかまえた。
いつのまにか降っていた雨が、ふたりの身体を濡らしてゆく。

「陸遜様、大切なお体を冷やします。どうか屋敷へお戻りください」

追ってきてくれて嬉しかったのに、口をついて出るのは反対の言葉。
こんな自分、嫌われたって当然だ。
今のには、自己嫌悪の気持ちしか沸いて出てこなかった。
そんなの気持ちを知ってか知らずか、陸遜はぐいっと半ば強引に身を寄せる。

「こんなあなたを放っておけるわけがないでしょう」

「放っておいてください。あちらの庭に陽姫様がいらっしゃるので一緒にいてください」

「陽姫があなたに何か言ったようですね。・・・・・・まぁ、だいたい想像はつきますけど」

どうして、この人は何にでも察しがいいのだろう。
隠しておきたいことも、つつぬけだ。

「私なら大丈夫です。ふたりの邪魔しませんから」

こんなことが言いたいんじゃない。
こんな自棄な言葉が言いたいんじゃない。

「今まで、陸遜様のおそばにいられて夢のようでした」

これじゃ、別れの言葉。
違う。
別れたくなんか、ない。
いくら心が反発しても、口をついて出るのは、思ってることと反対の言葉。

「すごく、お似合いです」

言うたびに、ちりっと痛みが走る。
ちょうどよかった。
雨が、涙を消してくれる。

、もう、黙って―――」

ぐいと引き寄せられると、口付けられた。
冷たい雨とは対照的に、熱い。
そして、の思いや何もかもを飲み込むかのように、深く、深く。

「り、く・・・・・・!」

「黙って。今、少しの間だけ頭をからっぽにして。・・・・・・私に、まかせて」

白く麻痺し始める脳裏に、陸遜の声だけがわんわんと響く。

「目を閉じて。・・・・・・そう。私だけ、感じていてください」

繰り返される口づけに、涙が溢れて止まらない。
止まらないかわりに、心に反した言葉は口をつぐんだ。
口付けから流れ込む陸遜のぬくもりに、心の奥に隠れていた素直な気持ちがじわじわとあふれ出す。

(好き。やっぱり、陸遜様のことが好き)

身体を引き寄せる陸遜の腕には、すでにそれほど力も込められていないのに逃げられないのは、そういうことなのだろう。
今、近くに居る陸遜から離れたくない。
そういうことなのだろう。

は、冷えきった手を、陸遜の背に回した。
それに答えるかのように、からむ陸遜の腕の力が強まった。

やがて、ゆっくりと唇を離すと陸遜は、悲しませてしまって申し訳ありません、との涙をぬぐった。

「あなたの気持ちはよくわかりました。。今、自分で、どんな表情してるかわからないでしょう?―――――― ここで、押し倒してしまいたいくらいですよ」

の顔に、さっと朱が差す。

「すみません。あなたに嫌な思いをさせて泣かせてしまった。後悔してもし足りない。自分のことを殴り倒したいくらいです」

「陸遜様」

「陽姫のことは誤解です。が思っているようなことは一切ありません。これを早くに伝えたかったのに伝えられなくて、不安にさせてしまったことは私の落ち度でした。許して、くれますか?」

「だって、許婚だって」

「そういうことがあったのは事実です。しかし、私にはすでに過去のことで、彼女のことはなんとも思っていません」

「いいえ。そういうわけにはいきません。陸遜様は陸家の当主です。私など・・・・・・」

陸遜は、この先は言うなというように、の唇に指を押し当てた。

「そうです。私は陸家の当主です。誰がふさわしいかなど私が決めます。それは陽姫や他の誰でもない――――――、あなただ」

くっきりと。
心を、射抜かれた。

はっきりと。
心が、震えた。

それは、嘘のない言葉だったから。

、あなたは私がただひとり選んだ女性です。もっと自信を持ってください」

陸遜は、ひとつため息をつくと、そっとの肩に手を置いて顔をのぞきこんだ。

顔が、近い―――

は、落ち着かなくてなるべく離れようとするが、陸遜はそれを許さない。

「あなたはいつも自分の気持ちを隠します。―――言ってください、本心を」

「・・・・・・・言わなくても、陸遜様にはすでにつつぬけなのでは」

「まさか。わかったらあなたをこんなに不安にさせてなんかいません。聞かせてください。あなたの声で聞きたい。あなたは私の全てです。あなたのことは私が絶対に守ります」

「そ、そんな恥ずかしいことよくも・・・」

青かったの頬に、さっと朱がさした。
それにホッと陸遜は安心して、笑顔を向ける。

「やっとまっすぐ見てくれた」

まっすぐに。
射抜くようにまっすぐな視線で、を縛る陸遜。

「さぁ、言ってください。私のことが好きだと―――――― 私が欲しいと」

それは、一種の“命令”
ざあざあと降り注ぐ雨の中。
世界の何もかもが冷たく感じる中。
強く肩をつかむ陸遜の手から感じるぬくもりがひとつであり、全てだった。
この世で感じるただひとつのぬくもり。
わかっている。
感じずにはいられない。
自分にとっても、陸遜は“全て”なのだ。
押し寄せる人を恋うる気持ちに、誰が抗えようか。

「―――――― 好きです・・・・・・っ!好きです。陸遜様が、欲しい・・・っ」

「よく言えましたね」

降ってくる口付け。
濡れた体から蒸気を発しそうなくらい熱い、熱い口付け。
それは、不安で凍りついた心を溶かすのに十分なくらいの熱さを持っていた。

「絶対、守りますから。何も考えず、あなたは私の側にいてくれればいいんです。何も心配しないで」

「陸遜様」

「返事は“はい”しか聞きません」

ははにかんでうなずいた。

「―――――― はい」

陸遜は、優しく笑うと、の肩を引き寄せた。

「いい子ですね。さぁ、戻りましょうか」

陸遜は、雨からかばうかのようにに自分の上着をかけようとして気がついた。

「ああ、お互いすごくびしょぬれですね。このままじゃ、あなたに風邪をひかせてしまう。・・・・・・・そうだ、うちに来ませんか?こんな濡れた姿だと、行きかう人に変な目で見られてしまいますから」

「それは、そうですね。・・・・・・でも、陸遜様のお宅に?」

が、陽姫のことを思い浮かべたのか難色を示すと、陸遜はそれを払拭するように髪一束をすくって口付けた。

「別邸があります。もう誰にも邪魔されたくない。とふたりだけの時間を過ごしたい」

「私も。陸遜様と一緒に、いたい」

珍しく正直な気持ちを隠さず告げた恋人に、陸遜は嬉しく思いながらも苦笑した。

「そんな表情をされると、ちょっと困りますね。―――帰したくなくなる」

陸遜は、もう一度軽く口付けた。

「というか、もう帰しません。今夜はずっと私の側にいてください。あなたのいない時間など、もう過ごしたくない」

陸遜の意志のこもった言葉に。

視線に。

は、誘導されるかのようにうなずいた。


2009.5.26