しゃぼん 前編

がお風呂から出ると、斎藤は壁にもたれかかるように待っていた。

「すみません。お待たせしました」

気づいたように、の方に近づいてくる。
待っていてくれた―――は素直に嬉しかった。
任務なのだから当たり前のことなのだが、斎藤が自分のために待っていてくれるということが夢のようだった。
まるで銭湯帰りの待ち合わせみたい―――
は、なんだかこのやりとりはくすぐったくてドキドキした。
女の子としては、ちょっと憧れてた光景だったからだ。
銭湯の帰り、よく外で夫婦や恋人同士がお互いの相手を待っているのを見かけて、それを見て、いいなぁ、と羨ましく見ていた。
今この場面はそれに似ているような気がして、ひそかに胸が高鳴った。

「ああ、構わない。・・・・・・おまえはお風呂でもひとりごとを言うんだな」

「き、聞こえてましたか!?」

「ああ。耳をすませてるわけではないから何をしゃべっているかまではわからなかったがな」

「そうですか・・・・・・」

恥ずかしいひとりごとじゃなくてよかったと、は、内心脱力した。
行くぞとひとこと言って歩き出した斎藤の後ろを、は素直にちょこちょこついていく。

「・・・・・髪から雫が落ちている。きっちり拭け。風邪をひくぞ」

「はい」

「慌てなくてもちゃんと見張っている。次からはゆっくり入るといい」

「いえ、そうじゃなくて、あの、その・・・・・斎藤さんが待ってると思ったら、ドキドキしてしまいまして・・・・」

「待たれていると落ち着かない気持ちになるのはわかるが、俺に気を使う必要などない。こういう仕事は慣れている」

「そうですよね・・・・・」

これも斎藤に下された任務のひとつだ。
それは最初からわかっていたはずなのに、いつの間にか斎藤と一緒で嬉しい気持ちの方が大きくなりすぎていたのだろう。
自分だけ妙に浮かれていたのが恥ずかしくなって、は落ち込んだ気持ちを誤魔化すように濡れた髪をごしごしと拭いた。
すると、の前を歩いていた斎藤がふと足を止め、振り返った。

「なにか、つけているのか?香りが・・・」

「香り?ああ、もしかすると、今日近藤さんにいただいた“しゃぼん”の香りでしょうか。体を洗うのに使ってみたんです」

そんなに強い香りではないはずなのに、と、は驚いた。

「そうか・・・・・・いい香りだ。おまえによく似合う」

青い瞳が、揺れた。
そう思ったら、斎藤の手がするりと伸びてきて、触れるか触れないかの距離で頬を滑る。
ゆっくりと、ゆっくりと。
何かをたしかめるかのように。

「――――っ」

は、苦しくて目をぎゅっと閉じた。
斎藤に触れられているところの感覚が針のようで、わずかに触れるたび愛しさに肌があわ立つ。
どうしたらいいか思いあぐねたは、斎藤に目で訴えかけたが、それでも、斎藤の指はの頬から離れる気配はない。
それどころか、さっきよりも近くなっているような気がする。
は、斎藤を振り仰いだ。
すると、今まで見たこともないくらい近くに斎藤の顔。
青い瞳に、囚われそうなくらい―――
たまらず、は声を上げた。
なんとか出た声は、何故かかすれていた。

「・・・・斎藤さん?」

「あ、ああ・・・!」

の声で我に返ったかのように、斎藤にしては珍しく慌てたように身体を離した。

「・・・・・悪かった」

「い、いえ」

びっくりした、びっくりした―――

は、ただ混乱していた。
あっと言う間に斎藤の顔が近くにあって。
吐息も感じるくらいに近く。
体温さえも感じそうなくらいに近く。
こんなに斎藤を近くに感じたのははじめてだった。
あまりにも驚いて、頭が真っ白になり、はいつのまにか自分の部屋の前に着いたのさえわからないほどで、前を歩いていた斎藤の背中にどすんとぶつかってしまった。

「悪い。大丈夫か」

「ふぁ、い。・・・・・・今日は、ありがとうございました」

鼻をぶつけ痛みで少し落ち着きを取り戻したは、斎藤に頭を下げた。
すると、上から斎藤のいつもの落ち着いた低い声が降ってくる。

「―――、お前は何か悩んでいるようだが、それは杞憂だ。すでに皆、おまえの笑顔に癒されている。・・・・・俺も含めてな。おまえはただ笑っていればいい」

え―――っ!? 
は、ばねのように斎藤を振り仰いだ。

「えっ!?も、もしかしてお風呂の聞こえて・・・・?」

「あれだけ大きなひとりごと、めったに聞けるものではないな」

斎藤の口元がふと緩む。
の顔は恥ずかしさでみるみる赤くなる。

「あの、私、皆さんの・・・・・・斎藤さんの役に立てるように頑張りますから」

「頑張ることはない。そのままでいればいい」

それだけで十分だ、と言うと、を部屋に押し込んだ。
振り向くと、月明かりを背負って、斎藤は淡く微笑んでいる。
その微笑みは、周囲の夜気にふと溶け込むかのように繊細で。
どこか、切なげにも。
そしてどこか、寂しげにも見えて。
の胸は、きゅっとしめつけられた。

「では、湯冷めしないようすぐふとんに入れ。ゆっくり休むといい」

「はい。斎藤さん、おやすみなさい」

何度、この人の言葉に救われただろう。
何度、この人の優しさに救われただろう。

そして、今日もまた、救われた。

この傾いていく気持ちは、どうやって止めたらいいのだろう―――

部屋にひとり残されたは、行き場のない思いに苦しくなり、ぽすんと枕に顔をうずめた。







□  □  □








「何をしてるんだ、俺は・・・・・・」

何をしようとしたんだ。


斎藤は、さきほどのことを思い出して、はあと深いためいきをついた。

漂う甘い香りに手をのばし、吸い寄せられるように唇を寄せた。
その行動は、香りで心の縛が解かれたかのようだった。
ほんのり上気した頬、白いうなじ。
じかにその感触を味わいたくて。
まるで果物を食べるかのようにた易く。
そして、香りに誘われるかのように頬に唇を寄せる。
それは、無意識のことだった。
あそこでが声をかけてくれなければ、おそらく・・・・・。

この気持ちが何かなんて、子供ではないからわかっている。


だが、一生言うつもりなんてない。


この手は。


血に染まっているのだから。





「・・・・・・・白いものをわざわざ赤く染める必要はない」





斎藤は、空の冷たく青白い月を見つめる。






ひとつの願いをこめて。






静めてくれ―――奥にくすぶっている火を。


2008.10.25