ストロベリーウイルス




どうしようか。





入ろうか。





入るまいか。







私は、扉の前で右往左往していた。



ここは、薄桜学園保健室前。

私は、ここに入れないでいた。

どうしても、入る勇気が出ない。

もじもじと考えすぎて。

自分の中に入り込みすぎて。

突然目の前の扉が開いた時、ひぃっと小さく悲鳴をもらしてしまったのは言うまでもない。


「おや、珍しいお客さんですね。 いらっしゃいませ、雪村さん」

「は、はい。 こんにちは」


中から現れたのは一部の女子から猛烈な人気を受けている保険医、山南敬助先生。
まるで仏のような穏やかな笑顔で、眼鏡・白衣萌えの女子を虜にしている。
背も高く、眼鏡の下はイケメン。
確かに人気があるのはわかるのだが。

私は、この先生が苦手だった。

「まあ、入ってください。 どうぞ」

「先生? どこか行かれるんじゃなかったんですか? 私、そんなに切羽詰ってないのでいいですから」

「ええ。 行くところだったんですが、患者さんが優先です。 まさか、こんな可憐な患者さん見捨ててヤボ用なんかに行けませんよ」

「ヤボ用?」

「ええ。 ヤボ用です。 あなたは何も心配しなくていいんですよ。 さあ、中に入ってください」

山南先生は、そうにっこり笑って、私を中に招き入れてくれた。

物腰も柔らかい。
言葉遣いも声音も、とても優しい。

なのに。

どうしてだろう。

私の中では、どこか、先生を警戒している。

「・・・・・・ヤボ用じゃないんじゃないですか!」

保険室には、部屋を空けた時いつ患者さんが来てもわかるように、先生の行き先がホワイトボードに書いてある。
そこには、大きく “職員室→校長室” と書いてあった。

「私、本当にたいしたことないんで、失礼します」

「待ちなさい。・・・逃がしません」

「え・・・・・・?」

ぞくり ――――――



こういうところだ。

私が、怖いと思うのは。

先生は普段はとても優しくて穏やかだけど、時々ちらりと冷たい色が垣間見える。
それは、隙間風程度ではなくて、冬のきんっと痛いくらいの冷たさ。

だから。

なんとなく、保健室には、来たくなかった。

私がいぶかしげに見ると、先生はいつもの穏やかな笑顔を向けてきた。

「いえ・・・・・・あなたがいてくれると助かるんです。 実は、校長室へはあの方の話を聞きに行かなきゃならないんですよ」

「ああ、近藤校長の話を聞きに」

「いつもいつも、あの熱弁を聞かされる私の身にもなってください。 たまにエスケープしたくなる日だってありますよ。 だから、あなたがここにいるととても助かります」

私を助けると思って、ここにいてくれませんか。

そう言われてしまうと、断りづらい。
私は、こくんとうなずいてしまった。


「よかった。 ありがとうございます。 で、どうしたんですか?」

「えっと、ちょっと頭が痛いんですけど・・・・・・・」

「そうですか。 では、ここに座ってください」

山南先生は、そういうと私の額にひんやりした大きい手を置いた。
ふと先生からほのかにいい香りが漂ってくる。
香水? すっきりとした奥に甘さも感じる香り。

その瞬間。

私は先生に “大人の男” を感じて、どきんとしてしまう。

「熱はないようですね」

そう近距離で囁くように言われると、落ち着かない気分にもなる。
そんな私の気持ちも、眼鏡の奥の先生の瞳は見透かしているようで、私は目をそらした。

「念のため、風邪のシロップを出しておきますね。 後から少しぼおっとしたり、眠気が起きるかも知れませんが、薬のせいなので心配しないでください」

出てきたのは、苺色のシロップ。
匂いをかいでみると、見た目どおりストロベリーらしい甘い香りがする。

「子供のおくすりみたい」

「女の子には特別製です。 男子には内緒ですよ」

私は、何の抵抗もなく出された薬を飲み干した。
口の中に、甘さが広がる。

「甘くて、おいしい」

「それはよかった。 では、口直しにお茶でも飲んで行って下さい。 今、淹れますね」

先生は手馴れた様子で紅茶を淹れてくれた。
その間に、私の頭は徐々にぼんやりとしてきていた。
なんだか、のども渇く。
さっき、先生も言ってたし、薬のせい、だよね?

「あなたは、沖田くんや藤堂くんと仲がいいみたいですが」

「はい。 平助くんとは幼馴染なんです。 沖田先輩は、近所のお兄さん的存在で」

「あなたは、どちらが好きなんですか?」

「え? 好き?」

「異性として特別に、という意味で、です」

「好き? え、す、好きって、その・・・・・・・・・」

「・・・・・・本当にあなたは鈍いですね」

眼鏡の奥の瞳が、冷たい色に変わった気がした。

「ひとつ問います。 あなたは、人を想う気持ちがキレイなものばかりだと思っていますか?」

山南先生は、ずいっと顔を近づけた。

ぞくり。

私は、背筋が凍った。

なんだか、怖い。
表情は穏やかでにこやかで何も変わりがないけれど。
言葉に棘があると思うのは、気のせいだろうか。

「人の物だとわかったら、ますます欲しいと思ったことがありますか? 奪いたいと思ったことは」

私は、ふるふると横に首を振る。

「まだまだ子供だ」

どうして、こういうことを訊くんだろう。
そして、どうして私はこの場を動けないでいるんだろう。

「だから、平気で人を傷つける」

どうして、こういうことを言われても、動けないんだろう?

「幼馴染の藤堂くんが君に優しいのはどうしてだと思いますか」

「え? 平助くんは幼馴染だから」

「本当に? あなたは本当にそれだけだと思いますか? 藤堂くんの瞳は、あなたをそうは見ていないと思いますがね」

「どういうことですか?」

「ふふ。 あなたは本当に罪だ。 藤堂くんは君のことを好きなようですよ。 女性として。 本人が気づいているかはわからないですが」

「嘘・・・・・・平助くんが!?」

「こんなことで嘘なんて言いませんよ」

「知らなかった」

「わからなかったら罪ではないのかな? 何もかも知らなかった、と言えば、あなたは逃げられると?」

もう、聞いていられない ――――――

「・・・・・・・・・っ!!! もう、戻りま・・・・・・あ、」

私は、椅子から立ち上がろうとしたが、かくんと膝が折れた。
どうして? どうしてだろう、足に力が入らない。
私は、椅子にしがみついて、先生を見た。

先生は、見たこともないくらい怜悧に微笑んでいた。
でも、すごく美しくて。
魅力的で。
目が離せなかった。

さん。 あなたのようにまっすぐで素直な人は珍しいんですよ。 私にとってはね。 私にはないものですから」

“人の物だとわかったら、ますます欲しいと思ったことがあるかい? 奪いたいと思ったことは”

私の耳に、さっき山南先生が言ったことがリフレインする。

「だから ――― 惹かれる」

山南先生の指が、すいっと頬を滑った。

「・・・・・っ はっ・・・・!」

そこから、びりびりとした体験したことのない感覚が足先まで流れた。
腰が抜けたように、崩れ落ちる。
何、この感覚・・・・・・?

「さっきの苺色のシロップ・・・・・・?」

「おいしかったでしょう? 苺味の媚薬です」

「媚薬!? ・・・・・・・・っ!」

「ええ。 本能に正直に、五感が研ぎ澄まされてゆく。 そんな媚薬です」

先生の指は、するすると服越しに肩先から背筋を滑ってゆく。

「あ・・・・はぁっ!! やぁ・・・・何、これ・・・・・・っ」

「ほら、たまらないでしょう? ただ触れているだけなのに、ふふ」

「う・・・んっ」

私は、たまらず先生の胸にしがみついた。
耳元で、先生の声が愛撫しているかのように響く。

「どうなるんでしょうね? 何も知らない真っ白なあなたが、どんな色になってゆくのか。 すごく興味をそそります」

「あ、やあっ」

「それに、沖田くんと藤堂くん。 彼らとの関係がどう崩れていくか、見ものでもありますね」

「いやあ、そんなの、嫌ぁ・・・・・っ」

きんっと頭の奥では、警告音が鳴る。

でも ――― 身体が、熱くて。

どうにもならなくて。

「センセ・・・・・・・・・」

知らないうちに、私の腕は山南先生の首に巻きついていた。

「いい瞳だ。 やっぱり、あなたはいけない人ですね」

満足げに先生は微笑む。
私は、その手に狂わされてゆく。

「共に、堕ちましょう」

そんな先生の言葉も、耳に入らない。


熱くて。


疼く身体を、どうにかして欲しくて。








冷たいシーツを直に背中に感じた瞬間。








私は。








完全に先生の手に落ちた。


2010.1.20