戦線復帰した赤騎士団長の覇気は凄まじかった。
誰よりも真っ先に倒れ、あまつさえ主君の義姉に邪魔扱い──多少の語弊はあるが──までされてしまっては、日頃沈着な彼にしても奮い立たずにはいられない。
蘇生魔法の余波は負傷にも浸透する。完治した訳ではないが、そこは気迫で補うカミューだ。彼は休んでいた時間を埋めて余りある奮迅のはたらきでネクロードを苦しめた。
さて、これまで一方的にやられるばかりだった魔物だが、まったく突然、己の本来の攻撃パターンを思い出した。
「もう怒りました。後悔させて差し上げますよ」
恨めしげにマントを揺らし、もったいぶった仕草で自身に巻き付ける。ビクトールが負けじとばかりに怒鳴り返した。
「おう、やってみやがれ! こっちはその倍も三倍も後悔させてやる!」
何しろ今日はツイている───再びナナミが放った「守りの霧」が仲間に浸透していくのを見守りながら、傭兵は確信に満ちていた。約一名、微妙に運気に不安が残る仲間もいるが、これだけ圧倒的な攻勢に出ている以上、ネクロードも長くは持たないだろうとの見通しがある。
カミューは言葉通り、たとえひとたび攻撃魔法を受けても精神力で持ち堪えるだろう。それが二度目になる前に敵を倒してしまえば良い。図らずも一同が同じ考えに達したとき。
ネクロードは、ふわりと宙に舞い上がって蝙蝠に変化した。初めて見る姿に戦士たちが息を飲む。これは吸血鬼の始祖シエラが示唆していた、女性を狙う攻撃形態ではないか。
「ナナミ、来るよ!」
義弟の声に、少女も叫ぶ。
「嫌ぁ、気持ち悪い、来ないでー!」
細い悲鳴はネクロードの満悦を誘った。
柔らかな肌に牙を立てて生き血を啜り取る。吸血鬼は斯くあるべし、といった行為。
個人攻撃は効率が悪いが、取り敢えず数を減らさぬことには袋叩き状態の打開も望めぬ、というのがネクロードの心情だったのである。
舌舐めずりをしながら──蝙蝠なので、傍目からは良く見えないが──力強く羽ばたいて、鋭く獲物へと急降下して。
なめらかな首筋に牙を突き立て、音を立てて温かな血潮を堪能する。獲物が味わっているであろう恐怖と苦痛を脳裏に描けば、震えが走るほどの悦楽を覚えるネクロードだったが───
「てっ、てめえ! 何を間違えてやがる!」
「そちらではないでしょう、普通!」
いつもとは幾分違った反応を、魔物は怪訝に思った。ふと気付けば、自らが牙を立てている喉首は、確かに白いが、小娘にしては妙に太い。舐め取った血は甘露だが、その味もこれまで啜ってきたものとは若干異なる気がする。
激烈なる非難の理由は、突き立てた牙を解いて再び空に舞い上がり、元の位置に戻ったときに露見した。血の滴る首筋を押さえて片膝を折っているのは、先程まで戦線離脱していた赤騎士団長だったのである。
「カミュー、大丈夫か、カミュー!」
絶叫したマイクロトフが傍らに屈んで様子を窺うが、カミューは失血によって更に青ざめた頬で俯くばかりだ。
「ナナミさんを庇った……のではありませんでしたね、今のは」
カーンが呆然と呟き、ウィンは即座に頷いた。
「一直線にカミューさん目掛けて飛んで行きましたね」
二人の遣り取りを聞き止めたビクトールが険しい顔で一歩踏み出す。
「やい、ネクロード! いつから宗旨変えしやがった! 男でも良かったのかよ、てめーは!!」
けれど、一同の中で最も困惑していたのはネクロード自身であった。まったくもって自失の面持ちで、状況も忘れて自問している。
「そ、そんな筈は……わたしは四百年以上も女性一筋、一度として男なんぞによろめいたことは……」
それから得たようにポンと手を打つ。
「そう、そちらのお嬢さんが男勝りでガサツなので、無意識に避けてしまったのです。これは失礼」
聞くなり少女は目を剥いた。
「ガサツとは何よ! だからって男の人を襲って良いの?」
女性だからという理由で攻撃されるのは嫌だが、女性らしくないという理由から攻撃を外されたところで、それもまた腹立たしい。
ナナミの心情は、まこと複雑であった。素早く床を蹴って、棍でネクロードの口許に一撃食らわせる。傷つけられた少女の自尊は、吸血鬼の命とも言える二本の鋭い牙の片方を圧し折った。
「あなた、何てことするんれすか!」
「煩いわね! カミューさんの仇、もう一本も折ってやる!」
語気も鼻息も荒く言い募る少女を、カーンが慌てて宥めに掛かった。
「いけません、気を鎮めて! 接近し過ぎてはなりません、今度こそ標的にされてしまいます!」
同時に、するりとマイクロトフがナナミとネクロードの間に割って入る。
彼の怒りは少女のそれを凌駕していた。どんなに呼び掛けてもカミューは目を開こうとはしなかった。一戦闘中に二度までも倒れられないといった騎士の矜持か、彼は膝を折った状態で意識不明に陥っていたのである。
「よくも……よくもその汚らわしい唇でカミューに触れたな、吸血鬼め」
仲間たちは、おお、と声を上げた。本日、二度目の怒り状態と化した青騎士団長である。この状態に陥った男の恐ろしさを知るネクロードとしては、後退りするしかない。
「ふ、触れたくて触れた訳じゃありませんよ」
「では、何だと言うのだ」
マイクロトフはなおも歩を進める。
「確かにカミューは男の目から見ても綺麗な男だ。貴様が心を揺らしたのも分からないではない」
「そ、そんなぁ……」
何故こんなふうに責め立てられるのか分からない。
更に分からないのは、どうして自身が少女を置いて赤騎士団長に引き寄せられてしまったか、である。迫り来る男やビクトールが言うように、何時の間にか男でもイケる体質になってしまったのだろうか。
おろおろと考えながら後退するうちに、全身に痺れるような衝撃が走った。バンパイア・ハンターが施した結界に触れてしまったのだ。これ以上は下がれない。ネクロードは絶体絶命の窮地に在る自身を悟った。
幸い、間近にいるのは青騎士団長一人だ。残りの敵はカミューを囲むようにして、元の立ち位置から微動だにしていない。ナナミもカーンに引き戻されるかたちで一同の輪に戻っていた。
ならば、とネクロードは腹を括った。
男の血を吸うのは本意ではない。さっきはどういう訳か、間違ってしまったが、あれは事故のようなものだ。襲った青年が美形なのは渋々ながら認めるが、吸血鬼が餌食にして絵になるのは異性、そう昔から相場は決まっている。
けれど、既に一度過ちを犯した身だ。この際、選り好みはしていられない。身の危険を感じたときには多少の妥協も必要だろう。目前の男を倒して形勢逆転を図るしかない。
ネクロードはひらりと変化した。黒い翼で空を掻き、目下の目標である──まったくもって好ましくない、頑強そうな太く逞しい──青騎士団長の首筋目掛けて、急降下を開始する。
だが。
ネクロードはまたしても抗い難い力に引き摺られ、目的を果たせなかった。マイクロトフの脇を擦り抜け、後方に固まる敵の一団に向かって羽ばたいてしまう。
「ナナミ、後ろへ!」
「う、うん!」
即座に彼らは少女を護り固めた。だが、そんな必要がないことを、誰よりもネクロードが悟っていた。自らが引かれているのは蹲ったままの赤騎士団長だ。いったいどうした訳か、体躯が思うに任せない。吸血鬼は狼狽え、蝙蝠の口のまま叫んでいた。
「何故───」
魔物の狙う先を悟ったビクトールが、すぐさまカミューの前に立つ。
「てめえ、そうはさせるかよ!」
追い迫るマイクロトフも大剣を振り上げた。
「背後からの攻撃は騎士の誇りに悖る……が、これ以上、カミューには触れさせないぞ、吸血鬼!」
前後から斬りつけられたネクロードは、そのままよたよたと飛行を続け、一同から離れたところで変化を解いた。気取った装束も、もはや原型を止めていない。苦しげに両手を天に掲げ、それからがっくりと膝をつく。
「お、おのれぇ……」
口惜しげに呻き、続けてどうにも自問せねばいられなかったのか、小声で付け加える。
「何故だ、わたしはその者に魅了されてしまったのか?」
男なのに、といった苦渋の滲んだ、悲痛な面持ち。
いずれにしても、この事態では落ち着いて悩むことも出来ない。先ずは逃げるが肝要とばかりに「現し身の秘法」で逃亡を試みたものの、それはカーンの結界に阻まれ、果たせなかった。
進退窮まった魔物は、のんびりと闘いを見物していた吸血鬼の始祖に懇願した。彼女から奪った「月の紋章」を返す代わりに救命を求めたのだ。しかし、そこは長老シエラが一枚も二枚も上手であった。何も確約せず、紋章を取り返した後、彼女は吸血鬼の処遇をビクトールに任せた。
無論、積年の恨みを抱く傭兵が怨敵を許そう筈もない。彼は打倒・吸血鬼の相棒、星辰剣を構え、見苦しい焦燥に駆られる敵を一閃した。
人間を侮蔑し、弱者と見做し続けたネクロードは、こうしてその人間の手によって葬られたのである。
───己に兆した疑問を、終に明らかに出来ぬまま。
吸血鬼を倒した今、もうこの街に用はない。
ビクトールはそう言ったが、生憎、直ちの帰還は叶わなかった。赤騎士団長カミューが昏倒から覚めなかったからである。
あれからすぐに「優しさのしずく」で回復を図ったのだが、度重なる不運、そしてとどめの失血が相当響いたようで、狂ったように揺さぶる青騎士団長の懇願にも、瞼はぴくりともしなかった。
ネクロードの消滅と共に魔力の効果が切れたのか、街からゾンビは消え失せていた。戻ってきた住人、中でも市長グスタフはたいそう喜んで、快く彼らに休息の部屋を与えることを申し出た。
その一室にて眠るカミュー、甲斐甲斐しく付き添うマイクロトフを残して、仲間たちは客間で茶を楽しんでいた。
「……ま、どうやらこれでティントの協力は取り付けられそうだ。ネクロードの野郎も斃したし、万々歳だな」
ビクトールが明るく言う。
宿敵を討ち果たしたというのに、カーンもシエラも去ろうとする素振りを見せない。共闘した仲間が寝込んでいるのも一因だろうが、そのままウィンに同行して、今後も同盟軍に協力する心積もりらしかった。
そんな中、ふとウィンが顔を曇らせる。
「万々歳だけど、本当にカミューさんは不運でしたよね」
「鍛えてるからな、そのうち目も覚めるだろうぜ」
年若くても一軍のリーダーと称される少年だ。味方の負傷に自責を負っているのだろうと、ビクトールは努めて朗らかに言い切った。しかし、ウィンはいっそう潜めた声で続ける。
「色々言っちゃったからなあ……根に持たれていないといいけど」
特に少年と多くを遣り取りしていたバンパイア・ハンターが知らず頷きそうになって、慌てて首を振った。
「そんなことはないでしょう。多くを知っている訳ではありませんが、カミューさんは礼節に厚い、素晴らしい方だと思いますよ」
「そうですよね」
ほう、と嘆息してからウィンは苦笑した。
「何しろ、あのネクロードまで惑わせちゃうんだもんなあ。ナナミ、後でカミューさんに良く御礼を言っておきなよ」
「…………うん」
未だ釈然としない面持ちで小さく返し、ナナミはシエラを盗み見る。視線に気付き、彼女は微かに目を細めた。
「何じゃ?」
「ううん、何でもないの。ただ……」
やや躊躇し、それから思い切ったように言う。
「やっぱり、わたしが女の子っぽくなかったからなのかなあ、って……」
するとシエラはくすくすと笑い出した。
「おんし、気にしていたのか? 餌食にされず、幸いだったろう」
「それはそうなんだけど……」
嗜好を曲げさせるほど破格のガサツ者なのだろうか。少女のそんな葛藤を悟ったのか、一同は息をついた。
「まあ……、確かにふざけた話だよな」
「まったく、ナナミさんへの侮辱もいいところです」
「何で急に趣味を変えたのかなあ」
男たちの憤慨を面白そうに眺めていたシエラが、柔らかく割り込んだ。
「変えた、……という訳でもなかろう」
「え?」
一気に集まる目を順に見返していきながら、彼女はしどけなく息を吐く。
「あやつの女好きは、陽が逆から昇っても変わるものではないからのう」
そこでビクトールが乗り出す。
「じゃ、何でカミューを? あの野郎、てめえでも不思議がっていたみたいだが……」
意味有りげな含み笑いが応じた。
「匂い、じゃな」
「匂い?」
カミューの奴、香水でもつけていやがったのか───そう続く筈だった傭兵の言葉は、次の瞬間、喉を逆流していった。
「だから……「女としての匂い」、じゃ。相手は差し詰め、青い方の騎士といったところかのう」
ひんやりとした沈黙が落ちる。シエラは構わず続けた。
「蝙蝠に変化しているときには視覚が巧く働かないのじゃ。だから、気配を頼りにするしかない」
「…………」
「ネクロードは無類の猟色家ゆえに、常におなごの気配へと突き進む。あの赤い騎士は、房事にて担う役割を気配として滲ませておったのじゃな。不運よのう」
飄々と語る吸血鬼の始祖。同類の言なれば信頼も置けるというものだ。が、謎が解けたのは良いが、聞かない方が良かったような気もする仲間たちであった。
「……と、とにかく! カミューは運が悪かったよな」
「そ、そうですね、早く良くなってくださるよう祈りましょう」
「ナナミ、やっぱり御礼はやめておこう。きっとカミューさん、言われても嬉しくないよ」
「………………うん」
吸血鬼の脅威は去った。
ティントは解放され、同盟軍参加も近いだろう。
万事良い方向に進んでいるのだから、一つくらい沈黙を守るのも仲間のつとめというものだ。
図らずも同じ胸中に達した一同は、引き攣り気味の笑みを交わして、卓上の茶に手を伸ばすのだった。
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