魂の伴侶
崩れた城にはかつての権勢の影はなく、物悲しい静けさが漂っていた。
強大な軍事国家ハイランド、その力と支配の中枢であったルルノイエが陥落し、長いデュナン統一戦争は終わりを告げた。周囲に張られた陣幕の中、同盟軍は歓喜と興奮に沸き返り、盛大な祝賀会が執り行われている。
その喧騒を避けるようにして、一人の青年が城の跡地に立っていた。月明りに浮かぶほの自い面、ほっそりとした肢体。肩に掛かった真紅のマントが夜風にひっそり揺れている。
「カミュー」
不意に背後から掛かった声に、彼は静かに振り返る。その目が男を認めた刹那、柔らかく細められた。
「マイクロトフ……」
マイクロトフは瓦解した城の残骸を踏まぬように、ゆっくりと彼に近づいた。やや訝しげな表情で、立ち尽くすカミューの横に並ぶ。
「何をしている? 探したぞ」
賑やかな酒宴の席にカミューがいないことはすぐに気づいた。陣幕のあちこちを探し回りながら、次第に大きくなる焦燥と戦った。探索の足を伸ばしてここまで来て、見慣れたシルエットを見つけたときには安堵の溜め息が洩れそうだった。
「まだ王国の残兵がいるかもしれないというのに……、一人で来るなど無謀だぞ」
責める口調で云った男に、カミューは困ったように眉を寄せた。口元に浮かんだ僅かな笑みは、マイクロトフにだけ見せる暖かな苦笑だ。
「あまり見くびってくれるな。残兵ごときに倒される剣士だと思われるのは心外だよ、マイクロトフ」
「それはそうだが……」
わかっているが、案じることをやめられない。これはもう、性分のようなものだ。大切な魂の片割れを、万が一にも傷つけたくない。剣と誇りにかけた誓いなのだ。
ふとカミューは目を逸らし、崩れかかった王宮を見上げた。その唇が小さく呟く。
「……儚いものだな……」
「え?」
その声はあまりに掠れて弱かった。思わず聞き返したマイクロトフだったが、カミューはしばらく答えなかった。月光に照らされる青白い横顔、緩やかな風になびく髪。そのすべてが抱き締めたいほど美しく、だが触れることを許さない気高さに満ちていた。
「カミュー……?」
「……王都ルルノイエ。この地が失われる日が来ようとは、ハイランドの誰もが想像したこともなかっただろう。揺るぎない、確かなものだと信じていたはずだ。だが、どうだ? ブライト王家はすでになく、デュナンから一つの国が消え去った。それでも変わらず夜は来て、そしてまた朝陽が昇る。人の営みとは、なんと脆く儚いものだろう……」
カミューは爪先で欠け落ちた城壁を突いた。崩れて脆くなっていた石片は、彼の足元で細かく砕けた。
「ロックアックスにいた頃は……、騎士団が失われることなど考えもしなかった。あの日々が永遠に続くと信じていた。だが……人の命など一瞬の幻に過ぎないのかもしれない。時は流れ、歴史は止まることなく動き続け……そんな中で、我らの生に何の意味があるのだろう?」
「カミュー……どうしたんだ、いったい……」
マイクロトフは眉をひそめて白い横顔を見つめる。カミューがこんなにも儚げに見えたことはない。捕まえていなければ、やがて消えてしまいそうだ。思わず伸ばしかけた手は、カミューの言葉によって止まった。
「人の想いも……同じなのだろうか」
俯いた彼は、どこか苦しげに拳を握る。
「運命の中で、あの方がジョウイ殿を見失ったように……いつか、わたしも……」
マイクロトフを失う日が来るのだろうか。永遠と信じていたものが次々に砕け散るのを否応なく見せつけられた戦いに、カミューは一人怯えていた。
人の力がどれほどのものだろう。例えば明日、二人が離れ離れにならないと誰が言い切れるだろう。勝利に酔う仲間たちの喜びの表情を眺めながら、いつしか暗い思案に引き込まれ、カミューは一人王宮を目指していた。『ジョウイを探す』、そう云った少年を無理やり連れ出したのは自分である。このようなところで死なせてはならない、彼は新しい国に必要な人間だと思ったからだ。だが、心のどこかでカミューは少年の気持ちが痛いほど理解できた。魂を分けた相手を取り戻す、その一念で戦ってきた少年。
逃れられない運命の輪の中で、友を失い、義姉を失い、それでも重い重責を果たした少年の、小さな望みさえ踏み潰した自分を嫌悪する。
もし、自分だったなら?
崩れる城の下敷きになろうとも、魂の半身を探し続けただろう。命の終わる最後の一瞬まで、マイクロトフを求めつづけたに違いない。それに気づいたとき、カミューは自分を許すことができなかった。いつか少年の痛みを自身で知る日が来るような、そんな恐怖さえ覚えたのだ。
痛みを抱えながら、少年は指導者として同盟軍の喜びの中心にいなければならなかった。ならば代わりに、せめて彼の友の痕跡を見つけられないだろうか、そう考えたのだ。
だが、獣の紋章が呼び寄せたモンスターとの壮絶な戦いの名残で、城はとても入れるような状況になかった。ブライト王家とハイランド王国の亡骸を前に、カミューは人の卑小さをしみじみと感じていた。
今、これほど隣の男を想っていても、明日のことはわからない。決して離れないと信じている手が、明日も同じだと誰が云えるだろう。唇を噛み締めて俯いたカミューを、マイクロトフはしばらく無言で見つめていた。やがて、低い声が切り出した。
「……たとえ見失っても、必ずおまえを探し出す」
目を上げたカミューに、真摯な男のまなざしが注ぐ。
「確かに人の一生など、一瞬の幻に過ぎないかもしれない。だが、その幻の中でおれはおまえと出会った。おまえを見つめ、おまえと触れ合い、おまえと並んで戦った」
マイクロトフは歩み寄り、カミューの頬に触れた。力強い掌が、慈しむように冷えた頬を包む。
「この温かさが……幻だと思うか、カミュー?」
それから唇が降りてくる。重なるだけの、一瞬の情熱。けれどカミューを熱く燃え上がらせる、マイクロトフのくちづけ。
「おまえの考えていることは何となくわかる。この世に変わらぬものなどない、永遠に続くものなどない……。確かにそうかもしれない。だがな、カミュー。一つだけおまえが忘れていることがある」
「…………」
「おれたちが一つの魂を分け合っている、ということだ。いつ、何処で、どのような形で出会おうとも、おれはおまえを選び取った。未来において、たとえば離れ離れになったとしても、おれの心はおまえに繋がれている。互いを想う心さえあれば、必ず傍に戻ることができる……少なくとも、おれはそう信じている」
それでも俯いたままのカミューを、男は強く抱き締めた。
「なあ、カミュー……、確かに人は弱い生き物かもしれない。だが……人の想いというものは、そう捨てたものではないと思うぞ?」
「マイクロトフ……」
「もう何も考えるな。おまえが悩むと、ろくなことにならない。一人で何を考えているかと思えば……、まったく目を離せないな、おまえは」
揶揄するように額にくちづけた男に、カミューの箍が外れた。
「……マイクロトフ……もっと信じさせてくれ」
「カミュー?」
「この世のすべてが失われても、おまえだけは残ると……私に信じさせてくれ。おまえの腕で、唇で」
縋り付くように回された腕に、マイクロトフは小さく苦笑した。
誰よりも誇り高く優美な赤騎士団長。愛にだけは、怯えた子供のように身を震わせるカミュー。
彼が一人悩んで自らを傷つけるたびに、どれほど歯痒い思いをしていることか。強さも弱さも、すべてを認めて愛しているということを、カミューは何処まで理解しているのだろう?
「……ここで構わないのか?」
一応確かめると、カミューはマイクロトフの胸に顔を埋めたまま、怒ったように拘束を強めた。答え難いことをいちいち聞くな、という無言の叱責である。
マイクロトフは横目で、やや平らかになった地面を探した。カミューの腕を掴んでそっと引き剥がすと、自らの上着を脱いだ。青い布地が漆黒の闇に舞い、地面に降りたときには極上の褥と変わった。衣服を取り去るのももどかしく、大地に横たわって互いの体温を確かめる頃には、言葉さえ失われていた。
激しく押し入った熱に仰け反り、うわごとのように必死に男を呼ぶカミューは、いつしか胸の痛みを忘れた。男の存在だけがすべてとなり、思考は想いに満たされた。
愛している。
おまえのすべてを愛している。
たとえ今、この命が消えたとしても、私は必ず想いを残す。魂となっても、おまえの傍らに存在する。
この想いこそ、私にとって唯一の永遠。決して滅びることなき絶対の真実なのだ……。
「マイクロトフ……」
喘ぎ混じりの声が呟く。律動の合間に気づいた男が、動きを止めて彼を見つめる。
「カミュー……?」
「おまえを……生、涯……」
朦朧とした意識の中で、必死に想いを吐き出そうとする唇。だがそれは、震えて言葉にならない。マイクロトフはそっと唇で言葉を塞いだ。
「云わなくていい」
恋人が、何より苦手にしている愛の言葉。かつては多くのレディに向けて軽やかに紡がれていたで
あろう、けれど今は命の重さに等しいひとこと。
「……わかっているから」
同じ言葉を思っている。同じ魂が叫んでいる。二人を分かつものは、もはや何もない。死をもってさえしても。暗く静かな夜の底で、彼らはどこまでもひとつだった。言葉にならない想いを分け合いながら、低く互いを呼び続ける。
意識を飛ばす瞬間、カミューは啜り泣いていた。微かに胸を過ぎった少年の顔。多くの信頼と期待の代わりに、愛するものをすべて失くした若き指導者。
────許してください。
微かな呟きにマイクロトフは眉を寄せた。腕の中で目を閉じる恋人は、痛ましい涙を残していた。言葉の発せられた先を漠然と悟り、男は恋人の頬を撫でた。
一人で苦しみを背負い込むのは、昔から変わらない。確かに玉座の間で少年の腕を引いたのはカミューだった。だが、それは同盟軍すべての人間の意志であり、願いだったはず。それでも悩まずにいられないところに、カミューの知られざる危うさがある。
マイクロトフは手探りで散らばった衣服を掻き集め、カミューの白い裸体を覆った。火照った身体から体温を逃がさないよう、しっかりと胸に抱き込む。
朝になれば、また恋人はいつもの彼に戻り、涼しげな微笑を浮かべるだろう。マイクロトフもまた、何事もなかったかのように彼の横で笑い返す。戦い終えて僅かに緩む心の隙間。そこでカミューが見せたひとしずくの涙を、いつまでも忘れはしない。彼の優しさ、そして脆さを曝け出した涙を、いつの日にも愛しさを込めて思い出すことだろう。
遠い地平線が微かに朱に染まっている。間もなく夜も明ける。目覚めたカミューに一番に伝えよう。
何も迷うな、案ずるな。おれはおまえと共にある。
命が終わる日がきても、魂と還る日が来ても。
おれのすべては、おまえのためだけに在る。
コンセプトは青○……じゃなくて、
精神的に強くて男らしいマイクロトフ……のはずです。
これだけなら上手そうに感じますです(死)