逮夜


「命を終える瞬間に、傍におまえがいなかったら……やはり寂しいだろうか」

 

微かに弾む息の隙間、ポツと洩れた独言じみた響き。
なめらかな首筋を辿っていた唇が止まり、次いで重い溜め息を吐く。憮然として身をもたげると、見下ろす濡れた琥珀に模糊とした情念が揺れていた。仄紅く染まった唇に一度だけくちづけを落とし、マイクロトフは苦笑う。
「……こういうときになると、その手の話題を振るのだな、おまえは」
「そうかな?」
笑み返す青年に意図があるのか否か、それはマイクロトフにも分からない。ただ、肌を寄せ、互いの鼓動を確かめ合って永遠を願う刹那にだけ、怯懦を知らぬ伴侶の胸に不安が過るのは分かる気がする。
勝ち取った領国を前に、護り続ける難しさを噛む王者のように───探し当てた至宝を日々愛でながら、消失に怯える冒険者のように、それはマイクロトフにも無縁ならぬ感情だ。
何かを得ることで初めて知る恐れは確かにある。こうして間近に伴侶を抱く至福の影にちらつく闇、剣の道に生きる者には約束されぬ未来、いつかは訪れるであろう別離の日。
互いの温みが失われるときへの恐れが、肌を合わせる瞬間にこそ台頭するのだろう。

 

「別に見計らっている訳ではないのだけれど」
カミューは薄く微笑み、気怠げに伸ばした指先でマイクロトフの髪を梳いた。触れた先に生まれ落ちる淡い快感の波が逞しい背を震わせる。
「……フリック殿の話を聞いて思ったんだ」
「フリック殿の?」
暫し首を捻ったマイクロトフは、そのまま青年の横に身体を伸ばした。
「そう言えば、酒場で一緒だったな」
頷きながら少し前の光景を思い返す。
一日のつとめを終えて足を運んだ酒場、カミューは仲間の一人と杯を交わしていた。そこで、日頃は明るい酒を好み同席を求めてくる傭兵が珍しく酔い潰れているのを訝しく思った。
共に部屋へ戻る途中、傭兵仲間のビクトールに声を掛けたのはカミューなりの配慮だったのかもしれない。あのときは然程気に止めなかったが、二人の間にどんな会話が行き交ったというのか。
「フリック殿の剣の名を知っているかい?」
「名?」
「彼の村ではね、剣に自分の最も大切なものの名をつける風習があるのだそうだ」
「ああ……そんなことを聞いたな、確か……」
同村出身の若い剣士が幼馴染みの乙女の名の剣を持っている、そう仲間内で揶揄われていたのを思い出す。
マチルダでは、剣銘は鍛冶屋の意匠に拠るものが多いため、はじめは奇異にも感じたが、考えるうちに好ましい風習だと思うようになった。
自らの一部として生死を託す品に想うものの名を与える。感傷的ではあるけれど、絶対の支柱ともなる行為ではないか。
「……それで? フリック殿の剣の名は何というのだ?」
「オデッサ」
吐息のようにカミューは言った。
「オデッサ───女性の名か?」
「彼にとって永遠の女神さ」
静かに笑むと、彼はしどけなくマイクロトフに向き直る。
「オデッサ・シルバーバーグ……姓まで入れれば、おまえも聞き覚えがあるんじゃないか?」
シルバーバーグ、と繰り返してからはっとした。確かに覚えがある。
このデュナン大戦の数年前、南方を揺るがせた解放戦争。赤月帝国軍への抵抗勢力を最初に率いた人は、若く聡明な女性だったと言う。
志半ばで斃れた彼女の名は、新国家の史書には僅か数行記されただけに過ぎず、けれど遺志を継いだ人々の心に今も輝き続けている。遠く都市同盟領にもオデッサ・シルバーバーグの名は伝わっていた。

 

「恋人、だったそうだよ」
既に過去形でしか語れぬ事実を痛ましげに絞ったカミューに、同様の苦渋が込み上げる。
「それは……」
「フリック殿が別の任に臨んでいる間に命を落とされたそうだ。彼は何も知らぬまま合流しようと解放軍の本拠地を訪れて……そうして聞かされた。二度と会うことは叶わぬと」

 

何が傭兵の堰を切ったのか───ハイランドとの戦いが終幕を迎えようとしている今、義姉を失った指導者の悲しみが遠い痛みを掘り起こしたのかもしれない。

『ここまで一緒に頑張ってきたのに』

あの日、フリックはそう叫んで少女の死を嘆いた。
彼の胸には失われた恋人が過っていたのだろうか。
同じ未来を目指しながら、見届けることなく逝った人。傍らに添うことも叶わず、独り逝かせてしまった恋人の面影が。

 

「言っておられたよ……つらかった、と。如何なるときも一緒だと誓っていたのに、彼女の死すら知らなかった。後を託された指導者といきなり対面させられて逆上した、とね。無理もない。彼には悲しむ猶予さえ与えられなかったのだから」

 

分かるか? こっちはあいつが死んだと聞かされて、信じるどころか真っ白になっているんだぞ。
そこへ新しいリーダーだ、次の任は、と……あいつの死なんて、長い戦いの通過点だと言われてたような気がした。
冷静になって考えてみれば分かるさ、おれだけじゃない、誰もが悲しんでいた。ただ……おれよりも先を見ていたんだよな。あいつの望んだ未来ってやつを。振り返っていたら進めないと、彼らは知っていたんだ。
けどな、おれは……おれだけは、悲しんでやってもいいんじゃないかと思ったんだ───あのときまでは。

 

「……『あのときまで』?」
うん、とカミューは首肯した。
「少し後になってから、オデッサ殿の最後の言葉を伝えられたそうだ。指導者としてではなく、一人の女性に戻った彼女の想いを」

 

いつも言われていたんだ。もっと自覚を持て、と。
あの頃のおれは目先にばかり気を取られて、すぐカッカしていたからな。一応は副官の立場だったのに、まるで助けになっていないみたいで情けなかった。
なのに……なのに、あいつは言ったんだ。
死ぬ間際、苦しい息の中で……何処かでおれに会ったら伝えて、って───

 

「彼の優しさが支えだった、と」
さながら死に際の乙女が如き情感を込めてカミューは囁く。
「彼女は上に立つために多くを犠牲にしていた。時には感情さえ殺すときもあったろう。人を率いるとはそうしたものだ、個人としての心を捨てる覚悟を求められもする」
心を捨てることなど出来ない、そう思いつつも言わんとするところは分かる。重く頷くとカミューは琥珀を細めた。
「でもね、彼女は理解していた。苦言を零し、自覚を促しながら……それでも正しく理解していたんだ。責務を果たそうとする決意、指導者である身に捧げられる尊崇の眼差し。無論、そういったものも彼女を支えていただろう。けれど何より力となったのは───」

 

華やいだドレスではなく軍装、美しい花や宝玉ではなく弓を握った手。微温湯のような社交場ではなく、戦場に舞う道を選んだ乙女。
常に傍らで情愛を滲ませていた男の存在が、彼女の心を柔らかく包んでいた。生涯を終えるその瞬間まで、彼女を支え続けた。

 

それを聞いたとき、おれは思った。あいつがそう認めてくれていたなら、もっと相応しい男になるよう努めようと。
……可笑しいか? もうあいつはいないのに。
けどな、カミュー、おれは思ったんだよ。
そうやって努力し続けるおれを、きっとあいつは喜んでくれると……『立派になった』なんて褒めてくれるんじゃないか、ってさ───。

 

オデッサ・シルバーバーグは暗く冷たい水路に亡骸を流すよう言い残したという。兆したばかりの解放運動の火を消さぬよう、指導者の死を隠すために。何と毅く気高い意志であることか。
フリックの恋情には多分に畏敬が含まれているようだが、それも理解出来ようというものだ。規模は違えど、一軍を率いる身として、彼女の生き様には背を正さざるを得ない峻厳がある。

 

「……それでも彼女は寂しかっただろうと思うよ。叶うなら、フリック殿に傍に居て欲しかっただろうな」
「自分なら……、と続けるつもりだな、カミュー」
やれやれ、と首を振る。長い付き合いだ。こうした会話の先が読めるのがつらい。マイクロトフが持ち出せば『仮定の話など』と小馬鹿にするくせに、彼は平気で胸苦しい話題を捻り出す。
だが、カミューは幼げに瞬いた。
「わたしなら寂しい───そう言うと思ったかい? それほど単純でもないよ、マイクロトフ」
「……そうなのか?」
マイクロトフの体躯に残る幾つかの戦傷、それらをそっとなぞりながら彼は息をつく。
「最期を見取って欲しい気はするが、おまえの嘆きを見るのはつらい。わたしがいなくなった後、おまえがどう生きていくのか気になるし、おまえのいない世界が如何なるものなのかも不安だ。つまり……あれこれ考えてしまって、心穏やかに逝ける気がしない。ならばいっそ、独りで死ぬ方が楽かもしれない」
「身も蓋もない言い草だな」
「でも……やはり寂しい気もする。簡単には答えなど出ないものだね」
ふう、と大仰に嘆息してから細身の肢体に覆い被さった。
「その手の想像を巡らせるのは悪趣味だ。断固として禁じたいものだぞ、カミュー」
「まあね」
小さく苦笑してカミューは背に腕を回してきた。
「少なくとも、こうした時間に持ち出す話題ではないかもしれないな。ただ……」
「ただ?」
「死した今もなお、一人の男の心で消えぬ光として生き、彼を鼓舞し続けるレディが羨ましいと思ったのさ。どうせならわたしもそうした存在でありたいと、ね」

 

 

 

カミューは───
もし己が先んじても、生き続けよと言っているのだろうか。彼の失われた世界に独り遺されても、果たすべき責務のある限り、生きて剣を揮い続けろと。
果てすら見えぬ孤独を道連れにしても、彼と過ごした日々を支えに、彼の毅さと優しさの記憶だけをよすがに生涯をまっとうせよ、と。

 

「……分かっている。おれも同じだ」

 

たとえ明日、命を終えるとしても。
最愛なる人には生き続けて欲しいと思う。
現し世に身は留まれずとも、魂だけは添い続ける。彼の行く末に灯る小さな道標になり得たら、そう希わずにはいられないから───志半ばで跡絶える命なら、伴侶の中にこそ魂の安息の地を求めるだろうから。

 

「だが、まだ当分死ねない筈だぞ。おれも、おまえも……心残りが多過ぎて」
「そうだね」
苦笑したカミューは、美しい、けれど何処か切なげな瞳を輝かせた。僅かに頭を浮かせて唇を求めながら、しっとりと続ける。
「でも、贅沢を言うなら、やはり最後まで一緒がいい。一つとして未練を遺さず終われたら、それは最高の人生だろうね」

 

 

伴侶がそう望むなら、能う限りに努めたい。
温もりが届く間近で、互いの一生に祝福を贈り、来世での出会いを祈りながら眼差しを交わす。そんな最期を迎えられたら本望だ。
いつか遠い未来、あるいは明日、その瞬間が来たとしても、自分はきっと微笑みながら口の端に紡ぐだろう。
今より伴侶に伝える不壊の真実、愛している───ただその一言を。

 


幻水1を再プレイしたら、
唐突にフリ×オデに惹かれました。
で、そのあたりを引用しつつラブ話……と思ったら、
引用も展開も激しく誤ったようです。
何でこんな辛気臭いピロ〜トークに(遠い目)

ちなみに『逮夜』とは葬儀の前夜の意。
これまた縁起でもない響きですわな。

 

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