PHANTOM・28


永劫とも思われる忘我の波を抜けた後、残ったのは穏やかな愛しさばかりだった。
広く逞しい胸に響く鼓動がカミューの安堵を誘う。絶え入るようだった呼気も今はおさまり、虚ろだった琥珀にも光が戻ろうとしていた。
「……昨夜、傍に居たのはクロウリー殿に勧められたからだ」
しっとりと濡れた薄茶の髪を指で梳いて、マイクロトフはそんなふうに切り出した。
「知っているか? 人は常に掌からの幾許かの力を放っているのだそうだ」
言いながら片手を伸ばしてカミューの手を取る。剣士にしては細く長い指を弄り、絡め合わせた。
「手を握って力を注いでやれ、と……クロウリー殿はそう仰せになった。でなければあのときのおれは、とてもではないが、おまえの傍になど行けなかっただろう」
ポツと零れた述懐の後、染み入るような静寂が広がっていった。
これまで二人で過ごしてきた日々にも沈黙が訪れるときは多々あった。それが決して不快ではなく、気詰まりでもなく、けれど切羽詰まった胸苦しさとなった頃から、自分はカミューに惹かれていたのだとマイクロトフは思う。
自身の恋情にすら気づかぬとは、まったく何という疎さか。挙句、老魔術師に諭されなければ気付かぬままだったかもしれない。自嘲とも失笑ともつかぬ表情を浮かべた彼をカミューは怪訝そうに見詰めた。
「マイクロトフ……?」
いや、と往なして柔らかく続ける。
「誤解しないでくれ。傍に行けないというのは……自分が友を名乗るに足らぬ男だと思ったからだ」
そのままゆっくりと身をもたげてカミューに覆い被さり、きつく抱き竦めた。
「状況も忘れておまえを欲した。非道を心から憎んだにも拘らず、同じ欲求に捉われた。信頼を裏切ってしまった、と……ただただ恥じ入るばかりで」
真っ直ぐな琥珀の瞳が目前で揺れている。
「だが、違え取ってはならないと諭されたのだ。己の心に耳を澄ませ、そして気付いた。おまえへの想いに」
自覚より先に衝動を覚えたがために捉え損ねた真実。取り戻して後は、それが死霊との対峙にてマイクロトフを支える絶対の力となった。
「おれも、あいつも……だから一点では同じだったのだ。おまえを想い、想いを返されたいと願う一点では。だが、おれにとって大切なのはおまえの心だ。異なる道を選ぶ以上、想いそのものを恥じる必要はないのだと悟った。たとえ受け入れられずとも、せめて信頼される友として傍に在り続けたい───そう思った」
そこでマイクロトフは至福に包まれた瞬間を思い出す。
「……つまり、クロウリー殿に諭されねば、おまえの「譫言」を聞けなかった訳だ」
揶揄気味に強調された箇所に、堪らずカミューは表情を緩めた。マイクロトフの躊躇が、自らの醜態に起因するものではなかったと知って、胸のつかえが落ちたのだ。絡め合わせた指、重なる掌を一瞥して呟く。
「手を握って力を注ぐ、か……。分かる気がするよ」
古来より、人が激励の折にそうしてきたのは、己の力を分け与えたいという無意識が為せるわざだったのかもしれない。人の情愛が、理を超え、奇跡にも等しい力で相手を護る。そうして戦い終えた二人には、十分に納得のいく神秘であった。
ふと、マイクロトフが拘束を解いて調子を変えた。
「カミュー、身体はどうだ?」
長い時間を掛けて十分に蕩かされたとは言っても、実質的には初めて男を迎え入れた肉体だ。困憊ぶりは顕著に窺えるのだろうと、カミューは努めて何気なさを装った。
「おまえが気遣ってくれさえすれば、じきに慣れるよ」
けれどマイクロトフは困惑げに眉を寄せる。
「ああ、いや……無論、それもあるが……」
「マイクロトフ?」
男は意を決したようにカミューを覗き込みながら言った。
「つまりその、クロウリー殿が仰っていた『精気』といったものが増したような気はするか?」
今度はカミューが瞬く番だった。言葉を念入りに吟味した結果、やや表情を硬くする。
「有効な回復手段、とでも……?」
声音に潜む不穏に気付かず、マイクロトフはぱっと顔を輝かせた。
「やはり回復した感があるか?」
「───マイクロトフ」
更にいっそう低くなった声が呼ぶ。
「わたしと肌を合わせたのは、クロウリー殿に勧められたからか?」
口調に険が混じっているのを漸く悟り、仰天して首を振るマイクロトフだ。
「ち、違うぞ! ああ、いや、確かにそうした手段もあるとは聞かされた。だが、おまえの憔悴ぶりを目の当たりにして、おいそれと従えるような勧めではなかろう? 心揺れたのは認めるが、おれは───」
黙っていれば延々と続きそうな必死の訴えを、カミューは軽くかぶりを振って押し止めた。束の間、神妙な顔を取り繕ったものの、やがて堪え切れずに吹き出す。
真に望まぬことを、例え何人に命じられたとしても諾々と行動に移す男ではない。それは誰よりもカミューが知っている。クロウリーの勧めに多少は背を押されたかもしれないが、何よりマイクロトフの願望だったというのが本当のところだろう。
そしてカミューもそれを欲した。忌まわしい愛撫の記憶を消して余り有る、生涯の伴侶と決めた相手と交わす熱を。
屈従の夜から然程経っていないというのに、不思議なほど遠い過去のように思える。長い時を掛けて辛うじて薄れていく筈の汚濁が、圧倒的な力によって一瞬のうちに覆い尽くされるような、深夜の交情はそんな至純の触れ合いだったのだ。
「……嘘のつけないおまえが好きだよ」
笑いながら男の唇を塞ぐ。それから身を伸ばして、額にもくちづけた。
「愛しているよ、マイクロトフ」
実際、老魔術師の勧奨は的確だったのだろう。
肉体は依然として泥のように重いが、何処か熱の点ったような感が残っている。魔性との交合にはなかったその火照りが、クロウリーの言う『精気』なのだろう。今、カミューの身体を満たす温もりこそが、人を生かす力なのに違いない。
マイクロトフは瞬きながら想い人の唇を受け止めていたが、次第に面差しも綻んでくる。
妙なところで立場を弱くしてしまった気がした。けれど唐突に思い出したのだ。これまで一度として、カミューに対して強い立場に回ったことなどなかった自らを。
昔からずっとそうだった。
美しく聡明な青年。思慮深く、誇り高い、得難き友。
彼と並んで生きられる強き男となりたかった。
笑み掛けられれば心は弾み、憂いを見れば胸を痛めて。
マイクロトフの哀歓は常にカミューと共に在った。
きっと生涯敵わない。だが、それを悔しいとは思わない。
彼が誇り在る未来を目指して進む限り、マイクロトフの歩みにも終焉は訪れない。揺るぎなき力、奪うためではなく護るための力を求めて、何処までも先を望めるのだから。
「ああ……夜が明けるね」
うっすらと白み掛けた窓の外に目を向けてカミューが呟く。死霊の訪いから始まった悪夢は完全に消え去り、新しい朝が巡ろうとしていた。しん、と冷えた室内の空気から隔てるように伴侶を引き寄せ、マイクロトフは耳朶に囁いた。
「まだ早い。少し眠った方がいい」
では、と艶やかに笑みながらカミューは返した。
「……同じ夢を見よう」
肌を寄せ合って眠りに落ちる二人を、青白い朝の光が優しく包んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

短い眠りを破ったのは微かな物音だった。
そろそろ日課としている早朝鍛錬の刻限である。満ち足りた心地好い疲労も、体躯に課した習慣には抗えない。そろそろと覚醒の足音を聴いていたマイクロトフは、生じた気配に弾かれたように半身を起こした。
部屋の扉と寝台にはそこそこ距離があるが、薄明かりの中でもそれは見えた。扉と床の隙間に差し入れられた白い紙片。
寝台を抜け出し、手早く身繕いを済ませて戸口へと向かう。そんな男の行動に気付いて、カミューもぼんやりと目を開いた。
「どうしたんだい……?」
茫とした声に呼ばれて、慌てて振り返る。
「ああ、すまない。起こしたか」
それから寝台に戻って敷布に紙片を置いた。
「ランド副長からだ。戻られたようだな、隣室に控えているから、目覚め次第、張り番騎士に見つからぬように訪ねて欲しいそうだ」
そうか、と独言気味に応じてカミューは身を起こした。眠気を振り払おうとして首を振りながら身支度を整え始める。
支えようと伸ばし掛けた手を、しかしマイクロトフはそのまま戻した。
既にカミューは、人の手を借りねば身じろぎも叶わぬ昨夜の自身を打ち砕いているのだ。己の力で再び歩み出そうとする彼に軽々しく手を差し伸べるのは、誇りを軽んじる行為だろうと考えたからである。
カミューもまた、そんな男の気遣いを安堵をもって受け入れた。
尽く緩慢な動作を、マイクロトフは辛抱強く待つ。ただ温かな眼差しで見守り続ける。情交を果たしても変わらない、それはカミューにとって最も心地好い距離であった。
「……待たせたね」
笑み掛ければ、いや、と穏やかな声が答える。見慣れた真紅の軍装をしげしげと見詰め、マイクロトフは感嘆めいた息を洩らした。
「久しぶりにその姿を見たような気がする」
「そうだね」
カミューは威儀を正して漆黒の瞳を凝視して、優美なる礼を払いながら言った。
「心配を掛けたが、もう大丈夫だ。今後とも宜しく頼むよ、マイクロトフ」
「───おれの台詞だ」
相好を緩めた男と、肩を並べて隣室へと向かう。
廊下の先では張り番騎士が自団の上位者二名の部屋への侵入路を護っているが、こちらに背を向けて屹立しているため、靴音さえ響かなければ気付かれずに移動が可能だ。
慎重に叩いた扉はすぐに開かれ、赤騎士団副長が二人を迎えた。
主の人柄を語るように飾り気のない、けれど居心地の良い部屋を物珍しそうに見回したマイクロトフは、長椅子で欠伸を噛み殺している第一隊長と目が合った途端、知らず苦笑を零した。ランドが上官に椅子を勧めている間に男の横に腰を落として小声で問う。
「一緒に飛ばされなかったので案じていたのです。やはり宿屋の方に?」
「ああ……まあな、多少の時差はあったが」
「時差?」
そこでローウェルは二人が消えた後の顛末を短く説いた。
魔力回復のため眠りに落ちる老魔術師に護衛の任を与えられたこと、そしてそれが思わぬ大任であったこと。
死霊が放っていた膨大な負の波動は、発生の根源が消滅した後も、余波となって平原を漂っていたらしい。ファントムとの戦闘中ほど群れて出現した訳ではないが、それでもクロウリーが目覚めるまでの間、二人は両手に近い数の魔物と交戦したのだった。
「それは……大変だったね」
カミューが秀麗な顔を曇らせると、ローウェルは慌てて背を正す。
「とんでもございませぬ。ほんの僅かなりとも恩義をお返しする栄誉あるつとめにございますゆえ、労苦とは思いませんでした」
それを聞くと、副長ランドは吹き出した。
「強がっても仕方なかろう、ローウェル。わたしも同じだ、流石に疲れた」
はあ、と苦笑う男を慕わしげに一瞥してからカミューは呟いた。
「クロウリー殿は……お戻りになられたんだね」
「我らを宿屋に転移させた後、クロン寺院へ向かうと仰せでした」
そうか、と思いを馳せるように琥珀の瞳が窓へと向かう。上官の物思いを中断するのを詫びる面持ちでランドは身を乗り出した。
「お呼び立てして申し訳ございませぬ。実は、事後の処理について幾つか打ち合わせておきたいと思いまして……」
赤騎士団副長には勝利の余韻に酔う暇はなかった。自団長の身に起きた一切を完全に隠匿し尽くさねば、此度の闘いが終わったと言い切れないからである。
得たように頷いたカミューらに、彼は切り出した。
「先ず、カミュー様は昨日朝より、わたしは昼から、カミュー様の自室にて執務を行っていたことになっております。張り番騎士にも入室厳禁と固く申し付けましたゆえ、不在を疑うものはないでしょう」
「二人がかりで蟄居した割には、つとめが片付いていないけれどね」
苦笑混じりに言う青年に同様の笑みを返して男は続ける。
「図らずも赤月帝国崩壊の報を得ましたが、これは如何致しましょう?」
「そうだな……内容が内容だけに、ゴルドー様にお知らせする時期はわたしが計ろう。それで了承して貰えるかい?」
問われたマイクロトフは即座に受諾した。たとえクロウリーを介さなかったとしても、そうした情報を三騎士団中で最も早く入手するのは赤騎士団だったに相違無い。
「次に、『魔力吸いの紋章』ですが……」
赤騎士団副長の眼差しが、己の腰許、愛剣ダンスニーに向いた途端、マイクロトフは上擦った声を上げた。
「いかん、返しそびれてしまった」
大剣に宿された『魔力吸いの紋章』は、店頭に出回るような有り触れた品ではない。その効力から量っても、稀有にして貴重な紋章の筈である。
別れの際にまるで意識を過らなかったことを悔いて、黒髪を掻き毟った。
「どうすれば良いのだろう、クロンは遠い……」
呻きは穏やかな声に遮られた。
「案ずるには及ばぬ、マイクロトフ殿。それはカミュー様に贈られたのだ」
「え?」
唐突に振られてカミューは幼げに首を傾げた。老魔術師の言葉を伝える副官の表情は誇らしげであった。
「カミュー様の『烈火』は守護の炎、護るために『魔力吸い』を役立てよ、と……斯様に仰せになられました」
あの闘いの折、カミューは窮地に陥った騎士らのために、自身の疲弊も忘れて紋章の力を解き放とうとした。如何なるときにも部下を護るのが上官の責務、そう言い切った彼の覚悟を、クロウリーは心底から好ましく思ったらしい。
もとより街へ立ち寄るつもりのなかったクロウリーだ。最初から紋章を取り戻そうとは考えていなかったかもしれない。けれど、赤騎士たちに与えた伝言こそが、老人がカミューに紋章を譲る本心なのだろう。
「ああ……、それから、こうも仰せだった」
ランドはマイクロトフに微笑んだ。
「今のところ魔法紋章を宿せぬようだし、利用価値はなかろうから、快く親友殿に譲れ───だそうだ」
堪らず笑い出しながらマイクロトフは頷いた。
老魔術師の言う通りだ。その右手には『騎士の紋章』が宿り、左手に別の紋章を携えるには未だ魔力が足りない。
いつかそれが可能になっても、おそらく魔法系の紋章ではなく、剣腕を高めるような紋章を望むであろうマイクロトフを、どうやらクロウリーは漠然と感じていたようだ。
「仰せの通りです。カミューが持つに相応しいとおれも思う」
「……クロウリー殿の御心、ありがたく頂戴するよ」
カミューも瞑目して厳粛な口調で応じた。魔道の力を正しく使えとの老人の檄が聞こえてくるようであった。
「後は……あの従者の処遇を如何したものか」
不意にローウェルが自問気味に呟く。カミューとランドは怪訝そうに瞬くばかりだったが、マイクロトフは低く息を飲んだ。
「ああ、あのときの……」
「誰だい?」
「昨夜……いや、一昨夜か。ヘインの声を聞いたとかで、恐慌に陥った従者がいたのだ」
あまりにも無造作に洩れた死者の名が赤騎士たちをぎくりとさせた。だが、カミューは特に感じた様子もなく、淡々と先を促す。もはや死霊が自団長に何ら弊害を及ぼさないと悟った二人は、表情にこそ出さなかったが、胸を撫で下ろすような心地であった。
「声、だって?」
はい、と続きをローウェルが説く。
城を徘徊する魔性の『声』を耳にしてしまった従者の少年。放心して腰を抜かし、小さいながらも騒ぎになった。赤騎士隊長としては捨て置けない事件である。
「マイクロトフ殿に宥められた後は随分と落ち着いておりましたし、他言せぬと誓わせましたから、その点は大丈夫だと思うのですが……」
「精神的な弊害は案じられるな」
ランドがしみじみと言う。少年が恐怖を克服出来ねば、この先のつとめにも支障を来そう。考え込んでいたカミューが、思い定めて顔を上げた。
「だが、こればかりは自ら乗り越えて貰わねばならないだろうね。ひとつ、御守りでも与えてやろう」
「御守り?」
「魔守の防具さ。死霊相手では、あまり役に立たなかったけれど」
カミューの部屋で見た品を思い出してマイクロトフは手を打った。
「金のエンブレムか」
そう、と頷いてカミューは言い募った。
「どのみち、もうヘインの亡霊が城内の騎士を脅かすことはない。気の持ちよう、という言葉もある。気休めに過ぎなくても、魔守の防具を身に付けていれば、多少は心強いだろうからね」
「カミュー様からの賜りもの、となれば卒倒するやも知れませぬが」
破顔しつつ、赤騎士隊長が丁重に礼を取る。
「斯くも気遣っていただいたとあっては、喜び、奮い立ちも致しましょう」
「後で渡すから、その者に届けてやってくれるかい?」
「拝命致します、カミュー様」

 

次々と懸案を持ち出して会話が途切れぬよう仕向けたのは、赤騎士たちなりの配慮だったかもしれない。が、確認作業が尽きて生じた沈黙をカミューは逃さなかった。
「……感謝している」
短く、穏やかな謝辞に瞬いた部下たちは、たちまち顔を見合わせた。それから表情を和らげて頭を垂れる。
「謝辞には及びませぬ、当然の仕儀にございます」
「然様、これで故人の直属上官だった責の一端は果たせた気が致します」
マイクロトフが言ったように、陳謝はおろか、感謝の言葉すら求めようとはしない騎士たちだった。彼らにとってカミューを護るという行為は、責務を越えた情愛の顕れでもあるのだ。悟ったカミューも、それ以上の弁を飲み込み、調子を変じた。
「何かしら口実を設けて、おまえたちの本日の任を解くよ。せめて休息を取ってくれ」
「……何よりの褒美にございますな」
ポロリと洩れた赤騎士隊長の本音が一同を笑ませる。
再びマイクロトフへと視線を移したランドが、柔らかく目を細めた。
「それにしても、君がカミュー様の部屋に留まってくれていて良かった」
秘め事を暴かれたような心地になって頬に熱が集まる。だがランドは、そんなマイクロトフの狼狽には頓着せず、朗らかに続けた。
「覚えてくれているか否か、少々案じていたのだよ」
「……と、言いますと?」
すると、目を瞠ったローウェルが慎重に問うた。
「忘れたのか? 君は現在、急な病で城下の宿にて臥せっていることになっている。その君が、赤騎士団本拠の西棟を闊歩していてはまずかろう」
「───あ」
初めて思い出した、そんな明白な反応が二人の赤騎士を嘆息させた。やれやれ、といった様相で首を振ってから、ローウェルが恨めしげにマイクロトフを見据えた。
「君を安全に送り出すため、苦しい画策までしたのだがな」
彼の視線を追って見遣れば、赤騎士団副長の机には黒い衣が置かれている。大きなフード付の外套のようだ。困惑げなマイクロトフに、ランドは笑いながら告げた。
「宿の主人に譲り受けたのだよ。居ない筈の者が部屋から出て行っては、張り番騎士に怪訝に思われよう。よって、ローウェルに連行される不審人物を演じてみた」
「後は、君が同じ装束でここを出れば、我らが転移魔法で城を出入りしていたとは誰も思うまい」
「な、成程」
『瞬きの紋章』も『魔力吸い』同様、普及した紋章ではない。そんな魔法が駆使されたと知れれば、自然、騎士団外の人物の存在が浮かび上がってしまう。
すべてを秘密裏に処理したい赤騎士らにとって、この画策は不可欠の要素だった。そして、青騎士団・部隊長の責務を置いてまで助力を果たしたマイクロトフの立場を護ることにも、彼らは最善を尽くそうとしていたのだ。
そんな気遣いが為されていたのも知らず、愛しき人との濃密な時間に酔い痴れていた自身に羞恥が込み上げる。マイクロトフは深々と頭を下げた。
「申し訳ありません……すっかり失念していました。気遣いを感謝します」
ランドは好ましげに目許を緩め、鷹揚に首を振る。
「わたしもカミュー様の部屋に留まっている偽装を為す以上、人知れず戻らねばならなかったのでな、一石二鳥というものだ」
自責を温める穏やかな調子に感謝して、改めて礼を取ったマイクロトフだったが、続く第一隊長の言にはヒヤリとした。
「いずれにせよ、残ってくれて何よりだ。カミュー様はたいそうお疲れの御様子だったし、御一人では何かと不自由なさるのではないかと、気が気ではなかったのでな」
本当なら、自身らこそが苦難を終えた上官の最初の眠りを護りたかっただろう。にも拘らず、その役目をマイクロトフに譲った二人の眼差しは信頼に溢れている。
疲労困憊の青年を、更に疲れさせた自覚があるマイクロトフとしては、心のうちで小さく詫びたい気分であった。
内談の終了を受けて立ち上がったローウェルが、闇色の外套と、それからもう一枚、下に隠れていた上着とをマイクロトフに差し向けた。
「今の君は、とても病み上がりとは言い難い姿だ。青騎士団衣を取り寄せられれば良かったが、そこまで手が回らなかった。大きさは合うだろう、わたしの服で我慢して欲しい」
ファントムとの闘いであちこち破れ果てた装束を一顧するなり、マイクロトフは苦笑った。言われるままに騎士服を脱ぎ、替わりに男の上着を纏って一礼する。
「ありがたい。遠慮なくお借りします、ローウェル殿」
「では、行こう。今ならまだ人も少ない」
促されて、マイクロトフは今一度カミューに向き直った。溢れるような情感を込めて笑み掛け、歩き出す。
無言で退室して行く騎士隊長らを見送ったカミューは、息を吐いて姿勢を崩した。気遣わしげな眼差しを向けた副官が控え目に問うた。
「自室にお戻りになられますか?」
「いや……すまないが、このまま少し休ませてくれ。正直なところ、移動も一苦労なんだ」
「では、食事でも用意させましょう」
飲まず食わずで部屋に篭る騎士団長と副長。部下たちも、騒ぎ立てるような不躾な真似はせずとも、そこそこ噂に上らせている筈だ。
張り番騎士を呼ぼうと立ち上がったランドは、だが静かな声に押し止められた。
「ランド……もう少し体調が戻ったら、暫く留守にしても良いだろうか」
「カミュー様?」
若き赤騎士団長は深々と背凭れに沈んだまま、小さく言う。
「……死んだハイランドの少年を訪ねたい」
身代わりという、あまりにも理不尽な犠牲を強いられた少年。墓を訪ねて陳謝したところで何ら慰めにはならないと分かっていても、そうせずにはいられぬカミューなのだ。
「騎士を与るものとして、二度と再びこんな非道は許さぬと……そう故人に誓う。わたしにはそれしか出来ない」
上官の心情を知る壮年の騎士は厳粛な面持ちで頷いた。
「ならばローウェルをお連れください。彼が御案内致しましょう」
立場は違えど、似た自責を抱いた赤騎士隊長。同行して、同じ祈りを捧げたいと考えるに違いない。
「そのためにも、一刻も早く御本復いただかねば。滋養のあるものを運ばせましょう」
柔らかく言い募ったランドだが、ふと気付いて瞬いた。
椅子に埋もれたまま、カミューは眠りに落ちている。
安らいだ寝息を洩らす青年を暫し見詰め、忠実なる副官は寝台から上掛けを持ち寄って細身の肢体をそっと覆ったのだった。

 

 

 

赤騎士隊長の上着の上に羽織った黒い外套。フードを目深に引き下ろして風貌を隠し、マイクロトフは慎重に歩を進めた。
夜間体制が終わり、そろそろ騎士が通常のつとめに入ろうとしている。
ローウェルは、詮議を終えた人物の退去を促す騎士といった役柄を忠実に演じていたが、すれ違う赤騎士らが途切れたのを見計らってポツと切り出した。
「誤ってロックアックスに降りたと仰せだったが……あながち、そうとばかりは言えないかもしれないな」
「え?」
フードがずり落ちないように片手で押さえながら隣を見遣ると、思いがけぬほど真剣な瞳と出会った。
「あれほどの術者だ。転移中に少々気を逸らしたところで、そうそう目測を誤るとは思えぬ」
「……どういうことです?」
「必然だったのではないかとわたしは考えている」
「必然?」
そう、と男はちらと窓の外に視線を投げた。
大魔術師クロウリーは、いずれカミューが歴史に必要とされると予見していた。あの老人の助力を得られねば、死霊に立ち向かうすべすら覚束ず、あるいはカミューは命を落としていたかもしれない。
彼の存在を惜しんだ大いなる力が、クロウリーを招き寄せたのではないか。洛帝山へ向かおうとする老人を、救いを求める騎士たちの許へと落としてくれたのではないだろうか。
ローウェルの私見に、マイクロトフも賛同を覚えた。
偶然の僥倖、一言で片付けてしまうにはあまりにも不可思議な邂逅であった。街の宿屋でクロウリーと対峙したときの震えるような高揚は、闘いが済んだ今も体躯に残っている。
「……そして今ひとつ。あの御方が君の前に現れたことにも必然を感じる」
マイクロトフは怪訝そうに首を傾げたが、ローウェルは以下の言葉を飲み込んだ。
歴史はカミューを生かそうと、そのための救いをマイクロトフの前に差し出した。この青騎士の誠意と覚悟を認めたからこそ、クロウリーは留まり、助力してくれたのだ。
偉大なる力を味方につけるだけの輝き、これはマイクロトフが赤騎士団長と同じ、重く尊い存在である証ではないだろうか───。
「ローウェル殿……?」
押し黙ってしまった男を窺いつつ呼び掛けるが、ただ曖昧な笑みが返るばかりであった。
やがて二人は西棟を抜けて中央棟に入った。足を止めた赤騎士が威儀を正す。
「わたしはここで失礼する。外套は捨ててくれ、もともと宿屋の主人が処分しようとしていたものだから」
道理で古びた品だと苦笑していると、更に一抱えの包みが差し出された。
「処分を任せたい」
「これは?」
「……ヘインの雑記だ。不本意だろうが、おそらく我らの中で最も深く彼と接したのは君だろう。だから君に頼みたい」
死者の思念を体内に取り込み、奇しくも会話まで交わした。ローウェルの言うように、マイクロトフは共闘した誰よりもヘインに近いところに在った。歪んだ恋慕の痕跡を始末するのには一番の適役ではないか───赤騎士隊長の心はマイクロトフの心でもあった。
「……お預かりします」
ローウェルはほっとしたように息を吐いて、僅かに調子を崩した。
「大きな借りが出来たな、マイクロトフ殿」
「借り?」
「部下の不心得の始末に、手を煩わせてしまった」
「そのような……」
不満げに眉を寄せると、男は眦を緩める。
「言葉が気に入らないか? では、言い直すとしよう。誠意には誠意を返すのがわたしの主義だ。いつか必ず君の力になろう」
それだけ言うと、答えを待たずに踵を返し、赤騎士隊長は西棟へと戻って行った。微かな疲労を漂わせた、けれど真っ直ぐな後ろ背を見送っていたマイクロトフも、やがて再び歩き出す。
ローウェルの言葉の意味は良く分からなかったが、深く探ろうとは思わなかった。貸しを作ったなどとは考えていない。ただ、カミューを取り巻く騎士たちに誠意を認められただけで十分に満たされていたからである。
早朝訓練に臨んでいるのか、本拠の東棟は静かで、行き交う青騎士はない。
自室に向かいながら外套を脱いだ。もし今、仲間と顔を合わせても、養生先の宿から帰ったところだと騙ることが出来よう。赤騎士団位階者らの配慮には些かの隙もなかった。
部屋に戻るなり、据え付けの小さな暖炉に火を入れた。騎士団長や副長の居室に備えられたものほど立派な設えではないが、目的は果たせる。
小粒だった灯火が枯れ枝を舐めるように広がる様を見守り、満足のいく勢いに達した刹那、マイクロトフは抱えた包みを開いて冊子の束を取り出した。
───狂人の喘ぎにも似た、妄執の軌跡。
気高き炎によって秩序に戻された持ち主同様、この雑記も燃やして天に還すべきだろう。
マイクロトフは冊子を千切って、次々と火に翳していった。紙片を飲み込むたびに、穢れを一閃する刃の如く、紅の輝きが勢いを増す。黒く色を違えて焼け落ちていく冊子は、溶け去った赤騎士の幻を思わせる儚さだった。
非道を憎み、その魔の手を退けるために渾身を尽くして闘った。
道を分け、最後まで相容れず、けれど同じ人間を愛したヘイン。
最後の紙片を火に投げ入れながら瞑目する。憎悪さえも清める炎の前、マイクロトフは低く祈った。
「赤騎士ヘイン、魂の行く末に平安在れ───」

 

 

 

 

 

魔性のもたらす闇は終わりを遂げた。
夜、暗い自室に他者の気配を感じても、カミューは微笑んでそれを迎える。
凝らした目の先に立つのは、唯一とさだめた男の長躯。
熱い血の通った肉体で彼を包み込む、ただ一人の伴侶なのだ。
虚ろなる幻が騎士を脅かす日は、二度とない。

 

← BEFORE               

PHANTOM・END


終わった。
長かった……後始末も長かった(涙)

っつー訳で、お暇な方はどうぞ〜。→ 総合後記
追加回が見つからない方も、こちらで。

 

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