赤騎士団・第一部隊所属騎士ミゲルは、豪奢な長椅子に座し、幾度目になるかも分からぬ欠伸を必死に堪えていた。
限りなき尊崇を捧げる赤騎士団長から内々に命じられたつとめ。成し遂げる決意に揺らぎはないが、いい加減うんざりしているのは否めない。
叔父である前・白騎士団長ルチアスを訪ねたのは久しぶりだった。
自身に多大な期待を寄せてくれているのは知っているが、騎士団で生きるためには引退した叔父の威光は邪魔なだけだ。正騎士叙位前には穏やかならぬ反抗を働いて叔父を悩ませたこともある。
そうした気まずさも手伝って、騎士になってからは殆ど寄り付かなかった邸宅だった。
実子に男子がなく、今となっては騎士としての自身を継ぐ唯一の親族と見ているのだろう、ルチアスは以前にも増してミゲルへの親愛を深めているようだ。
老いの目立ち始めた顔を綻ばせる叔父を見て、やや己の不義理を責めたミゲルだったのだが。
───何てよく喋るんだ……。
心中ぼやいて、襲い来る睡魔と戦う。
赤騎士団長カミューに命じられてルチアス宅を訪ねたのは昨日の午後。
贅を尽くした夕餉を振舞われ、続いて居間に誘われてから現在に至るまで、ミゲルは延々と叔父の昔話に付き合わされている。
かつては騎士団の覇者だった人物も、今は静かに暮らす一人の男だ。屋敷を訪れる人間が減ったのかもしれない。確実に狭くなった世界が余るほどの無聊をもたらしていたようだ。
ただでさえ彼らの一族には武人が少ない。武勇伝を披露しようにも、騎士団の内情に関わる話題は避けねばならず、まして政治や文化を生業にするものが相手では讃美や憧憬が期待出来ない。
それを解するのは同じ世界に生きるもの、即ちミゲルしかいないと認識しているのだろう。叔父は兎にも角にも雄弁だった。
彼の口から必要な情報を得ねばならないミゲルにとっては実に都合のよい事態である筈なのだが、今はその多弁が恨めしい。
昔語りは夜を徹し、朝餐を挟んで更に続いた。
訪ねる前に昼寝でも済ませていたのか、叔父は嫌になるほど元気だ。貫徹も何のその、滑らかな口は閉じることを知らず、過去の戦いや政治の駆け引きを得意満面に撒き散らしている。
そこで漸くミゲルは思い出したのだった。自身がそうした叔父を昔から苦手に思い、極力避けていたことを。
気を緩めると大欠伸が出そうな己を叱咤しつつ、辛抱強く相槌を打ち続ける。
敬愛する赤騎士団長は多くを語ってくれなかったが、これは重要な任なのだ。人目につかない場所に呼び出されたあのときの、彼の表情の堅さが物語っている。
今は心で想うしか許されない人。けれど彼の期待に応えることだけがミゲルに残された唯一の真実なのである。
諜報の極意は、情報提供者をも欺くことだ。
ここでミゲルが得た情報が役立つときがきても、ルチアス自身が漏洩者となったと気付かぬよう配慮せねばならない。
これだけ膨大な逸話を垂れ流したなら、その中に赤騎士団長の求める情報があってもルチアスは気付くまい。そうミゲルは自身を慰めた。
現在の白騎士団長ゴルドー──つまり、自らの副官であった男──の武勇を得意満面に語る叔父を引き攣り笑いで窺いながら、再び心中で嘆息する。
その話は二度目だ、叔父上。
それに、ゴルドー様には興味ない───
だが、心の悲鳴は叔父には伝わらないようだ。更に二つほど逸話が披露された。
「武勇ばかりではない、部下の中にはたいそう情に厚い者もいた。何しろ、縁も所縁もない通りすがりの流民の子を引き取った騎士隊長も在ったのだからな」
───睡魔が四散するようだった。期待が面に出ないよう務めながら座り直す。
「流民の子を、……ですか? それはまた温情に溢れた御人柄ですね」
「そうであろう? その騎士隊長はな……」
赤騎士ミゲルは、そうして与えられた任を果たしたのだった。
目的を終えたからといって、即座に辞すのは如何にも不自然だ。ミゲルは更に数刻に渡って叔父の話に付き合った。
そろそろ城に戻るべく挨拶を言上したときである。ルチアスは軽い調子で切り出した。
「休暇とは言え、わしを気遣って訪ねてくれるとはな。士官学校の暴れ馬と呼ばれ、正騎士叙位も難しいと思われたおまえが……随分と成長したものだ」
ミゲルも思わず苦笑した。
「あの頃はまだ、自分の生き方を定められずにいましたから。叔父上にも心配をお掛けしました、すみません」
「陳謝まで出来るようになったか」
ますます笑みを深めた叔父は、喋り疲れたのか、茶で喉を潤して続けた。
「己の生き方を定める……騎士のみならず、人として貴いことだ。しかし、おまえも難儀な生き方を定めたものだな」
意味を計りかねて小首を傾げていると、唐突な一撃が襲った。
「素直で可憐な娘にしておけば良いものを。手に入らぬ相手に懸想するとは、不憫な甥よ」
「は?」
「第一、歳も位階も違い過ぎる」
「……え?」
そこで叔父はにっこりした。
「確かにカミュー殿は同性ながら美しい。だが、おまえの相手にはなるまい、ミゲル」
それはおよそ二年前、初めてのくちづけを奪われたときに匹敵する驚愕であった。
やがてその人に魂まで奪われるとも知らず、どうして最初の相手が男なのかと自失するばかりだった、甘く、ほろ苦い記憶。
身を噛む思いで封印した恋情を暴かれた衝撃は、暴いた人物が縁者であるだけに殊更だ。相変わらずにこやかな叔父を凝視する。
「お、叔父上……いったい何を……」
震え声を途中で遮り、ルチアスは言った。
「従騎士時代、白騎士団に所属していた頃のおまえは手のつけられぬ問題児だった。が、赤騎士団に移ってからは次第に素行も改まり、今では将来を嘱望される見事な騎士ぶりだ。唐突な変貌を不思議に思っていたが、そういう理由だったとはな」
狼狽は抑えようもなくミゲルを支配した。含み笑われて一気に紅潮する。
───何故バレたのだろう。屋敷に引き籠もっている叔父などに。
「……何故、御存知なんです?」
するとルチアスは微苦笑を浮かべた。
「少しは足掻こうという気概を見せんか。騎士たるもの、事実を隠匿し通すことも重要だぞ」
言われてみれば、その通りだ。『何の話だ』と誤魔化せば良かったな───などと心で同意しているうちに彼は続ける。
「二月ほど前、一族を集めて月見の宴を設けたのだ。宴は口実で、実はおまえの嫁取りに関しての集まりだったのだが」
「嫁っ?!」
素っ頓狂な声が裏返るも、叔父は泰然としたものだ。
「おまえの兄たちがその歳頃には言い交わした相手がいたものだぞ」
ロックアックスの名門一族の婚期は押し並べて早い。ミゲルは男ばかりの四人兄弟の末子だが、確かに兄は全員、二十歳前後で家庭を持っていた。
彼らは文人として生きている。長兄だけは騎士団と関わる法議会議員を勤めているが、これも武の道を選んだミゲルとは相容れぬ存在だ。憮然として言い募る。
「おれは兄上たちとは違います」
「確かに嗜好は少々異なるようだが」
「そ、そういう意味ではなく……」
「まあ、待て」
鋭く言葉を挟んでルチアスは腕を組んだ。
「我が一族が先々まで繁栄を続けるためにも婚姻は大きな意味合いを持つ。おまえは類稀なる剣才を持ち、騎士としての前途は明るい。容姿も人並み以上の線であろうに、その歳になっても浮いた話の一つもない。おそらく奥手な質なのだろうと、わしが相応しい令嬢を世話してやろうと思ったのだが……」
そこで声が低くなる。
「おまえの兄らが無用と言い張りおる。理由を糾したところ『弟は切ない片恋を胸に、日夜つとめに励んでいる。決意は巌の如く、慕情は大海の如きなり。その純情に敬意を払い、外野はそっと見守るべし』───とな」
「………………」
「無論、相手も問うたとも。が……、相手が赤騎士団長殿では如何ともし難い。まったくもって不憫な恋心というもの」
「………………」
───兄上たち。
どうせ見守るなら、とことん黙って見守って欲しかった。
呆然としながら、知らず呟く。
「何故バレたんだろう……」
ルチアスは渋い顔で諭し始めた。
「ミゲルよ、今少し心情を隠すことを覚えねば、騎士団で上には行けぬぞ。たまにしか顔を見せぬおまえが、口を開けばカミュー団長、カミュー団長……おまけに遠い目をして酔い痴れていては、気付かぬ家人はおるまいて」
更に深々と眉間に皺を寄せて笑いを堪える。
「……ちなみに、今は親族全員でおまえの片恋に胸を痛めておる」
そこまで来てミゲルの自失は限界を超えた。泣き笑いの表情で虚ろに返す。
「……親族全員?」
「うむ」
「父上や母上も?」
「然様。ああ……、案ずるな。誰も非難はしておらぬ。上の三人が立派に家名を継いでおるからな、おまえ一人くらい横道に逸れたところで、一族は動じぬ」
「………………」
いったい、何処をどう嘆いたり訂正したり抗議すれば良いというのか。
兄弟ばかりか両親にまで同性相手の片恋を知られ、あまつさえ気の毒がられているとは。
それに、名門中の名門である一族に連なる縁者がロックアックスに何程いることか。
カミューへの想いを恥じはしないし、受け入れられぬことも諦めがついている。けれど、自身の片恋がいずれ街中に知られる日が来そうで、それは断じて愉快ではない。
散々甥を揶揄った男は、やがて眦を緩めた。
「おまえは恵まれておるぞ、ミゲル」
「……興味津々で観察されていても、……ですか?」
「興味津々なのは、それだけおまえが人の目を引きつけているからだ」
不意に口調を違えたルチアスは、かつて白騎士団長と呼ばれた頃の威厳を蘇らせた。
「何程深く想ったとて、世の理に反した恋情だ。普通ならば言葉を尽くして諦めさせるのが縁者の道理と言えようぞ。けれど、我々はおまえの家族に準じたのだ。心に素直に生きることこそ、人として真の幸福……そう信じておまえを見守ろうと決めた父母、そして兄たちにな」
「………………」
「おまえの恋は報われぬかも知れぬが、忠誠は別だ。カミュー殿に剣を捧げたのなら、全身全霊をもって誠を尽くせ。彼は忠節に信頼を返してくれることだろう」
「信頼を……───」
そうだ。
それこそが砕け散った初恋の行き着く先。
もしかしたら恋情よりも大きなものを得られるかもしれない、そんな儚い期待の中で想いを封じ込めたのだから。
そして家族。
滅多に自宅に寄り付かずに城に詰めたきりのミゲルを温かく──なのか、面白がってなのか、やや判断がつきかねるものがあるが──見守ってくれる家族たち。
心に素直に生きてこそ幸福、そう言ってくれた肉親の情愛に育まれて、今の自身は在る。
「御助言はおれの心そのままです、叔父上」
ミゲルは背を正し、丁寧に礼を取った。
「おれは生涯、誠を通します。そして、必ず上へ行く……あの人の傍近く仕えるために」
成程、とルチアスは頷いた。
「一介の騎士の身では、騎士団長はあまりに遠い存在だからな」
「滅多に拝謁も叶いません」
どうやら素直過ぎたのか、叔父は腹を押さえて笑い出した。暫し全身を揺すった後、探るように口を開く。
「実はな、ミゲル。休暇中とは言え、突然訪ねてくるにはそれなりの思惑があるのではないかと思っていた」
諜報への疑念を抱かれたかと一瞬硬直したミゲルだが、叔父はのんびりしたものだ。
「つまり、だ。終に辛抱も切れて、助力なり策なりを求めにきたのではないか、と」
「……どういう意味です?」
「何しろ相手は赤騎士団長殿だ。命と引き替えになるやもしれぬが、それでも想いを遂げたいと望むならば、わしの名で呼び出すなり、場所や薬を提供するなりしてやるべきか、……とな」
唖然としてから、苦笑混じりに呟く。
「冗談じゃありません。そんな真似をはたらいたら、三度くらい殺されます」
───恋しい人の唯一の伴侶、自団長と同じほどに尊崇している青騎士団長に。
「今のおれには恋よりも忠誠が重い。いずれあの人の掛け替えのない部下となって、想いの証を立ててみせますよ、叔父上」
ミゲルが誇らかに言い放つと、ルチアスは満足げに頷いた。それを見届けてから、今度こそ辞すべく立ち上がる。
やや紆余曲折はあったものの、想い人の求める情報を手にした高揚と達成感が自然と足を速めようとしていた。
あの人の待つ城に、一刻も速く戻りたい。
あの美しい笑みで役目を果たしたことを褒めて欲しい。
ミゲルは叔父に述べた自身の言葉を噛み締めながら屋敷を後にした。
───後日、それが再びロックアックス中の親族に伝わり『何とけなげな決意か』と涙させるとも知らず。