汚されたカミュー氏・27才
「待ってくれ、マイクロトフ! 頼むから、わたしの話を聞いてくれ……っ」
珍しく上擦った声を上げる赤騎士団長に、周囲の視線が集まった。そして彼らは一斉に首を傾げる。追い縋るようにして青騎士団長の袖を掴んだカミューだが、それを手荒く振り払われているのだ。逆の光景なら見飽きるほど見てきたが、マイクロトフに袖にされるカミューというのはまったく初めてである。自然、一同の視線は二人を追い掛けた。
「マイクロトフ、すまない。許してくれ……!」
「…………」
「頼むから、わたしを見てくれ!」
恐々と様子を窺いながらついていく観衆は、ふと自室の前で足を止めたマイクロトフにはっとした。彼はきつく拳を握り、唇を噛み締めている。見れば拳は震えており、噛んだ唇は色を失っていた。
「カミュー……しばらく時間をくれないか。おれは……まだ、心の整理がつかないんだ」
「マイクロトフ……」
マイクロトフは一瞬迷うように視線を宙に漂わせたが、そのまま振り返らずに部屋に入っていった。
残されたカミューはただ呆然と扉の前に立ち尽くす。日頃いかなることにも冷静に対処する彼が、衆人環視の只中で取り残された子供のように細い身体を震わせる様は、滅多にものに動じない同盟軍の面々を驚かせた。
顔を見合わせる一団から、ビクトールとフリックが歩み出た。取り敢えず訳を訊こうとフリックがカミューの肩に手を掛けた途端、彼は激しく戦いて、そのまま床に崩れ落ちた。
「おい、カミュー……いったいどうしたんだ?」
だがフリックの問い掛けも、カミューの耳にはまったく入らないようだ。
彼は打ちひしがれたように両手を床について、低い嗚咽を洩らし始めたのである。
これには一同も仰天し、見てはいけないものを見てしまったとばかりに急いで立ち去っていった。残されたのは、どうにも面倒見の良いビクトールとフリックの二人である。
心底弱ってしまい、二人は顔を見合わせた。
「なあ……何があったんだ? 話してみろよ」
「わたしが……いけないんです……」
啜り泣きの合い間にカミューが呟いた。あまりに弱々しい声なので、二人は腰を屈めたが、次に洩れた告白に、脳天を割られたようなショックを受けた。
「わたしが……、彼以外に身を許してしまったから……」
愕然とした二人はまじまじと震えるカミューを見つめ、それから困り果てたように溜め息をついた。
「とにかく……ここじゃ何だ、おまえの部屋へ行こう。な……?」
精一杯のいたわりを込めてフリックが言うと、泣き濡れた白い顔が微かに頷いた。
一方のビクトールは、当事者の一人である男の扉を叩き始めている。
自然と決まった役割を胸に、二人は再度頷き合ったのである。
切り出しにくい話題にフリックは何度も躊躇したが、項垂れてベッドに座り込んだカミューにようやく自分を奮い立たせた。
「いったい……何があったんだ? どうしても話したくないというなら、無理には聞かんが……おまえだって、このままでいいと言うわけじゃないんだろう?」
見慣れないカミューの涙の雫を痛ましげに見つめ、フリックはその横に腰を下ろした。
「わたしが……不注意だったんです……。もっと気をつけてさえいれば、あんな……」
思い出したかのように両手で腕を掴んで身を震わせるカミューに、フリックは眉を寄せた。
「……その、つまり…………、身を……って……」
「わたしのすべては彼のものだったのに……マイクロトフが憤るのは当然です……」
すでに彼とマイクロトフの間柄は承知している。気づかれていないと思っているのは当の二人くらいだろう。なのに、これほど無防備に自分たちの関係を曝け出す発言をしているということは、それだけ動揺してしまっているということだ。
思いがけないカミューの脆さを垣間見て、フリックは胸苦しい同情を覚えた。
「なあ……、その、ご、合意じゃなかったんだろう?」
「勿論です!」
カミューは涙に濡れた目でフリックを凝視する。
「誰があんな……、わたしは……っ」
「それはマイクロトフも知っているんだよな? なら、あいつのことだ。少しばかりショックを受けているかも知れんが、おまえを嫌いになるなんてことは……」
「いいえ」
カミューは切なげに唇を噛んだ。
「マイクロトフは存外に潔癖な男です……汚れたわたしなど、もう……」
「なあ……こう言っちゃ何だが、おまえが容易くそういうことになるとは思えないんだ。何があった? それがわかれば、マイクロトフもきっと……」
励ますようなフリックに、カミューはしばし考え込み、それから自らを叱咤するように口を開いた。
「実は…………」
「なあ、何があったか知らんがよ。おまえも男だろ、恋人の傷の一つや二つ、気にするんじゃねえよ。合意じゃねえんだろ、当然。なら、逆にいたわってやるのが男ってもんじゃねえか。可哀想に、おまえに振り払われたらカミューはどうすりゃいいんだよ?」
ビクトールが入室したとき、マイクロトフはうろうろと室内を歩き回っていた。思いがけないカミューの涙を見たばかりに、必死に自制に勤めているかのような男の苦悩を認めつつ、ついつい責める口調になってしまうビクトールである。
懇々と諭すように言い放った言葉に、マイクロトフは初めて男が部屋にいることに気づいたように顔を向けた。
「あ、ビクトール殿……」
「あ、じゃねーよ。どういうつもりなんだ、あんなに傷ついたカミューを放っぽらかしてよ。恋人ならドーンと抱き締めてやってだな、『気にするな、もう二度とおまえにこんな思いはさせない!』 くらいのことを言ってやれよ」
「はあ……」
どこかぽかんとして見えるマイクロトフに、ビクトールは苛立った。
「おい、聞いてんのか?! 犯られて苦しんでるのはおまえじゃねえ、カミューだろうがよ!」
刹那、マイクロトフの形相が変わった。
「犯られたっ? カミューがっ?! 誰にです、ビクトール殿っっっ!!」
いきなり胸倉を締め上げられて、ビクトールは目を白黒させながら喚いた。
「誰にって……、知るか! おまえらがそういう話をしながら戻ってきたんじゃねえかッ」
「おれたちが……?」
今度こそ心底驚いたようにマイクロトフが目を丸くする。
「……そんなことは言ってないが……」
「ああ?」
ビクトールはやっとのことで力の緩んだマイクロトフの締め付けから解放されて、ゼエゼエ喘いだ。
「だったらおまえ、何を深刻に考え込んでいやがったんだよ?」
「ああ、それは」
ふとマイクロトフは頬を緩めた。
「実は………………」
「ピクシー……キッスだあ??」
悲しげに項垂れているカミューを、信じられないものを見る目でフリックは凝視した。聞き間違いではないかと必死に願ったが、傍らのカミューは小さく頷く。
「……十分に気をつけていたつもりだったのに……気づいたときには唇を奪われてしまっていて……、それ以降、マイクロトフはまったく口を聞いてくれなくなって……」
あんぐりと口を開いたまま、フリックは呆然とした。どうやらからかわれているわけではないようだ。両手を膝の上で握り締めたカミューは青ざめているし、言葉も途切れがちである。
それにしても、とフリックは溜め息を洩らす。もっと他に言いようがあるのではないか?
身を汚されたなどと大袈裟な。そう思わず口にしてみると、カミューはキッと彼を睨み付けた。
「確かにわたしも、かつては多くの浮き名を流したものです。しかし、あいつとこうなってからは、堅く貞操を守って生きてきました! いくら突然で、モンスターと言っても、く、唇を奪われるなど……もうわたしには、あいつに愛される資格などありません……!!」
早口に言うなり、ベッドに伏して号泣し始めたカミューに、フリックは立ち上がった。
こういうことなら、隣の部屋でもさぞや馬鹿馬鹿しい言い争いが起きているはずである。
結局、この二人の仲はこんなものだ。振り回されて損をした、それが彼の偽らざる本心だった。
「ちび……カミュー??」
真ん丸く目を見開いたビクトールが、おずおずと聞き返す。マイクロトフは大きく頷いた。
「ピクシーキッスでちび化してしまったのだが……。そのときのカミューときたら、それはもう……握り潰してしまいかねないほど可愛くて」
臆面もなく言い放つ男に、ビクトールはよろよろと椅子に座り込む。
「いつもこんなに小さかったら、懐に入れて何処へでも連れて行けるし、他の連中の妙な視線にも晒されずに済むし……、いっそ元に戻らなかったら……とも一瞬思ったのだが、やはり同じ目の高さで見つめ合いたいし、よ、夜の方も困ってしまうな、とか考えてしまって。もう、どうにも混乱して……」
混乱してるのはこっちだぜ、そうビクトールは独りごちた。
「じゃあ、何だ? カミューを無視してたのはどういう訳だ?」
「それは……」
マイクロトフはほうっと息を吐いた。
「カミューを見ると、あの小さな姿を思い出してしまうし……、取り敢えず気持ちに整理がつくまでは、と……」
ケッと椅子を蹴ってビクトールは立ち上がった。
「んで、『気持ちの整理』 とやらはついたのかよ?」
「勿論だ」
マイクロトフは晴れやかに笑った。
「やはりいつものカミューが一番いい。正直、時たま縮んだのも見てみたい気がするが」
「へーへー、洛帝山に行ってくれや」
ひらひらと手を振って、彼は歩き出した。
この二人に関わって、あまりろくなことになった記憶はない。それなのに、どうにも関わってしまう自分とフリックの役割はいったい何なのだろうとしみじみ考えてしまうビクトールである。
「結論が出たなら、さっさとカミューんとこへ行ってやれ」
「ああ! 案じてくれて感謝する、ビクトール殿」
きらりと光る白い歯を見せて微笑んだ、一見好ましい青年騎士。
しかし相棒と共に厄介な存在であることは紛れもない事実である。
はからずも扉の前で鉢合わせたフリックと、同様の苦笑を洩らしながら歩き出す。
その背後で騒々しい男の声が喚いていた。
「カミュー、すまなかったな、一人にして……! 心配しないでくれ、おれはそのままのおまえが好きだっ!!」
「マイクロトフ……わたしを許してくれるのか?」
「さあっ、今夜も熱く過ごそうっっっ!!」
「しかし、わたしは汚れて……」
「おまえは綺麗だよっっっ」
噛み合っているのかいないのか分からない会話が、扉の向こうに消えていく。
所詮はこんな二人なのだ。
同盟軍・本拠地の夜は、今日も平和に暮れていった。
バカの極みっすね。
特に、カミュー様のバカぶりが堂に入ってます。
発端は……小田えみさんが
「カミューが 『オレは汚れているからおまえに相応しくない』 ってのは苦手〜」
って言ったこと……かな。
うちのカミュー、よくちび化してました。愛しい……。