の後先 7


読み進めていた書物を置いて、少女は溜め息をついた。
昼の間の無聊を埋めるためにとカミューが選んで持ち込んでくれた書物はどれも面白い。歳の割には成熟しているポーリーンに、難し過ぎず易し過ぎないものを見繕ってある。
しかし、閉塞感だけは如何ともし難かった。そのため、カミューが暇を見つけては外に連れ出そうと努めていることが感じられ、それがいっそう彼女を複雑な心境に追い立てた。
言葉通り城の東にある見晴らし台に連れて行ってくれた日、ポーリーンは新たな彼の一面を見た。懐かしげに目を細め、ロックアックスに初めて立った日の思いを語るカミューは少年のように瞳を輝かせていた。夕陽に煌めく琥珀の瞳に見詰められるたび、抱いていた反感めいた感情が溶け落ちそうになった。

そして昨夜。
初日から自分にベッドを譲っていたカミューが床に眠るに至っては、自責を通り越して笑ってしまった。
朝、食事を運んできた騎士隊長と交錯した彼は、幾つも年上の部下に泣きつくような苦言を吐かれていた。それでも笑いながらポーリーンが負担を感じないように軽く往なしてくれたのだ。
一切を問い質そうとせずに自分を傍に置く青年の思惑はともあれ、彼が示す誠実に偽りは感じられない。それを思うと少女の気分は暗く沈む。

 

嫌な男でなければならなかった。
人の心など平気で踏み躙る、冷徹な男であって欲しかった。ポーリーンの存在を頭から否定し、無慈悲に払い除ける人間であったなら。そうしたら───

 

「……憎み続けることが出来るのよ……」
呟いて、視線を落とす書面が潤むのを感じた。
「レディ……?」
ふと、穏やかな声が掛かる。ぎくりとして顔を上げた少女は、優雅に入室してくる赤騎士団長の案ずるような眼差しに出会った。彼は真っ直ぐにソファに腰掛けるポーリーンに歩み寄り、手にしていた食事のトレイをテーブルに置いて片膝をついた。
「……気分でも悪いかい? 熱でも……?」
「いいえ」
きっぱりと首を振った少女にカミューは目を細め、少し考えてから優しく言った。
「無理をしなくていい、疲れているなら先に休んで構わないんだよ。食事は……? 食べられそうかな?」
ポーリーンは叫び出しそうになった。

 

優しくしないで。
あなたは悪人でなければならないのよ。
そんな目でわたくしを見ないで。
あなたが裏切ったひとと同じ、気遣うような優しい瞳で───

 

「今夜はどうしても抜けられなくてね、わたしは先に済ませてきたんだ。喉を通るようなら少しでも入れておいた方がいい」
「……騎士団長ともあろう方が給仕の真似事もなさるなんて」
やっとのことで口を開くと、カミューは朗らかに笑った。
「そればかりではないよ。最近では『赤騎士団長殿は食が進むようになった』と厨房で噂になっているらしい」
食事は主に事情を知る騎士隊長らが運んでくれている。が、当然のことながら少女の分だけ増えた食事の量に料理人たちは歓迎を示しているようだ。
ポーリーンがのろのろと食器に手を伸ばすのを見届けた上で、カミューは装備だけを外して机に向かおうとした。それから食事を始めようとする少女を見遣り、しばし逡巡した後、酒のボトルとグラスを手に向かいのソファに腰を落ち着けた。
「…………?」
怪訝そうに顔を上げる少女に青年は穏やかに笑み返す。
「……一人の食事は味気ないだろう? もっとも、わたしと顔を合わせて食が進むか否かは別問題だけれど」
苦笑混じりの目線に、少女はやっと瞳を合わせた。
「……昨日の話の続きをしてもよろしいかしら?」
「またかい?」
やや嘆息気味に返したカミューは足を組み直した。そんな彼を睨み付けながらポーリーンは主張した。
「まだちゃんとした説明をいただいておりませんもの」

 

昨日ポーリーンが唐突に切り出した話題は、カミューが反故にした『結婚』についてであった。巧みに交わそうとしたカミューだったが、少女の追及は厳しかった。夜半になってようやく翌日への支障を理由に会話は中断したものの、未だポーリーンは諦めようとはしていない。

 

「……一度は結婚なさろうとしたのでしょう? 何故、おやめになったのかをはっきり聞かせていただけません?」
「……どうしてそんなに拘るんだい?」
窺う口調に、少女は手にしていた食器を置いて膝を握り締めた。
「あなたは母様と結婚なさる気はなかったと仰いました。そんなあなたが結婚を決意なさった女性と何故破局したか……知りたいと思うのは不自然なことではないと思いますけれど……?」
年齢に見合わぬ口調で言い切る少女の真剣さに負けたカミューは、再び満たしたグラスを一気に傾けてからぽつりと切り出した。
「───逃げたかったんだ」
思いがけない言葉に少女が目を見開いていると、彼は深い溜め息をついた。俯き加減に伏せられた睫毛が美しい。
「……当時、わたしは悩み深い恋をしていた」

 

寄せられたマイクロトフの愛情。
禁忌が彼の未来を歪めたのではないかという恐れ、彼の家族への後ろめたさから、いっときカミューは逃れようと試みた。

 

「そんなとき、縁談が持ち上がって……」
「その女性を逃げ道に使おうとしたと仰るの?」
声を荒げたポーリーンに肩を竦めつつ、カミューは続けた。
「罪深いことだとわかっていた……一生欺き通すことも出来たかもしれないが───」
そこで真っ直ぐに少女を見詰める。
「……心に正直であろうと思い直した。彼女のため……そして何よりわたし自身のためにね」
カミューは穏やかな笑みを浮かべた。
「時に……真実を貫くのは身を切られるようにつらいことだ。彼女を傷つけた罪は生涯消えることはない。けれど、一時の傷よりも生涯の偽りの方が罪深いことだったと……今はそう思うことにしている」
偽りない眼差しに、少女はそれ以上の非難を浴びせることが出来なくなった。幾度も躊躇し、小さく問う。
「……それなら……何故、そのもう一人の方と結婚なさいませんの?」
「言っただろう? 悩み深い恋なのだと」
カミューは苦笑を洩らした。
「君の言うようなかたちでは……成就出来ない相手なんだ」
ポーリーンは必死に言葉を探し、頬を染めた。
「ふ……不倫をなさっておられるの?」
ふとカミューは考え込み、小さく答える。
「倫理にあらず、といった意味では近いかもしれない」
その口調があまりに弱かったので、少女は思わず眉を寄せた。端正な美貌、誉れある地位。一切の迷いや悩みなどとは無縁に思える赤騎士団長。彼にこんな切ない思いを強いる相手への興味を禁じえず、ポーリーンは訊いた。
「それほどまでに……愛して……いらっしゃるの?」
「我が生涯を賭けてね」
その瞬間ほど少女が青年を美しく感じたことはなかった。どちらかと言えば強い口調ではない。毅然と凛々しく、といったふうでもない。にもかかわらず、カミューには迷いがなかった。甘やかに、且つひそめられた声には至上の想いが溢れていて、幼い少女にさえ決意は如実に汲み取れた。
「結ばれないのに……?」
「結婚という形が愛情の終着ではないと思う。そういえば、リデアもよくそんなことを言っていたな……」
カミューがさらりと持ち出した歌姫の名に少女は強張った。
「知っているかい? 彼女はとても奔放で情熱家だった。結婚などという枠に押し込められるのは真っ平だと常々口にしていたよ」
窺うような眼差しにポーリーンは毅然と視線を返した。ここで適当に言いくるめられる訳にはいかないのだ。
「その実、あなたと結婚したかった……そうした本心の裏返しだとは思えませんの?」
「……どうだろうね」
カミューは曖昧な笑みを浮かべ、背もたれに沈んだ。
「さあ、食べ終わったなら休みなさい。夜更かしはレディの肌に良くないからね」
「……そうやって誤魔化そうとなさるのね。騙されませんわよ」
言いつつ、少女も引き際を弁えていた。
「今夜も床でお休みになるおつもり?」
「まあね」
苦笑した青年は指先で机の上の書類を指した。
「もっとも、速やかに就寝というわけにはいかないけれど」
「……本当に身体を壊しますわよ、『お父様』」
「ご忠告痛み入るよ、小さなわたしのレディ」

 

すっかり慣れっこになってしまった応酬。いつしかそうして言い合うことを楽しんでいる自分に、ポーリーンは気付いていなかった。

 

 

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そろそろほだされてきているポーちゃん。
しょうがない、相手は天性のタラシだし(笑)

次はいよいよ混乱に突入……
問題の御仁、傍迷惑な初登場。

 

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