それは酒の勢いで洩れた一言だった。
普段カミューが酔うことは皆無と言っていい。水代わりに酒を飲んで育った少年時代の名残りか、二人でグラスを傾けても、沈没するのはいつもマイクロトフの方だった。
戦闘の続く毎日の疲れか、あるいはふとした気紛れか。
カミューは滅多に口にしない胸のうちを友に語り、その拍子にぽつりとこぼれた言葉だった。
『おまえより、一瞬でもいいから先に逝きたいんだ』
その途端、カミューは洩れた言葉を回収する手段のないことを恨んだ。目の前の男が切れ長の目を精一杯見開いたかと思うと、見る見る涙を浮かべたのである。
(こいつ、泣き上戸だったか?)
図体の大きな男が表情も変えずにぼろぼろと涙を溢れさせるのは、決して麗しい光景ではなかった。むしろ酒場にたむろする男たちが、ぎょっとしたように注目するくらいには異質であった。
「マ、マイクロトフ……?」
見慣れない男の涙に狼狽えて、カミューは慌てて呼び掛ける。盛大に流れる涙を拭いてやりたいが、それも妙に躊躇われた。
「お、おい…どうしたんだ? 泣くなよ、みっともない……」
声を潜めて囁いたが、男は無言で彼を凝視するばかりである。
「こんなところを騎士たちに見られたら……威厳も何もあったものじゃないぞ。ほら、さっさと拭け」
どんなことにでもスマートに対処するのがカミューの特技であったが、このときばかりは心底驚いていたので、うまい慰めの言葉の一つも浮かばない。迷い、周囲の視線を幾分気にしつつも、白い手袋をはめた指先で男の涙を乱暴に拭った。
しかし、拭けども拭けども絶え間なく流れ落ちる涙に、止まる気配はまったくない。カミューは途方に暮れて溜め息をついた。
(何かまずいことを言ったか、わたしは……)
思わず自問してしまい、小首を傾げる。眉を寄せていると、やがてぽつりとマイクロトフが口を開いた。
「……で、……な……と、言う………………」
「は?」
「何故そんなことを言うんだああっっっっ!」
沈黙の後に訪れた絶叫は、常になく凄まじい爆発となって周囲を巻き込み、吹き荒れた。
「おれより先に死にたいだとおおっっ?! おれはどうなるんだ、残されたおれはっっっ! そんなことは許さないぞ、カミュー! おまえはおれとずっと一緒に生きるんだっ、つまらんことを言ってると、おれは、おれはっ……」
完全に目が据わってしまっているマイクロトフは、ぐわっしゃとばかりにテーブルをひっくり返す。一瞬早く伸びたカミューの手が、高価なワインのボトルと空になっていたグラスを二つ引っ掴んだため、被害は最小限に食い止められた。それでも勢い良く倒されたテーブルに、酒場の一同が凍りついたのは言うまでもない。
「おれは、泣くぞおおおおお!」
「────もう泣いてるよ、おまえ……」
危ういところでボトルとグラスを救出したカミューは、仁王立ちになって吠えている男を呆気に取られながら見つめた。両手の拳を握り締めたまま戦慄いていた男が、ふとカミューに目線を向ける。
「頼むから」
彼は紅潮した頬にまだ涙を滴らせ、トーンを落として呟いた。
「……おれを残して逝ったりするな。おまえがいなければ、おれはおれでいられない。おまえと並んで生きることが、おれの誇りの全てなんだ」
「マイクロトフ────」
「頼むから、カミュー……」
ボトルとグラスを抱き締めているカミューごと、男は引き寄せ、濡れた頬を擦り付けた。
「────わかった」
カミューは公衆の面前で抱き締められたことよりも、男の涙が居心地悪く、宥めるように頷いた。
「わかったから……マイクロトフ────」
「本当かっ? 本当だな?」
駄々っ子のように何度も確認する男にカミューは諦め、手を伸ばしてボトルを置いた。その手で男の背中をぽんぽんと叩いてやる。
「ああ、ずっと一緒だ。それでいいんだろう?」
「………………………………」
返らぬ答えに怪訝に思ったカミューが男を窺うと、彼はカミューを抱き締め、立ったまま寝息を立てている。道理で体重が掛かって重かったわけである。
「やれやれ……」
溜め息をついて周囲を見回し、怯えたように隅のテーブルに移動していたビクトールを見つけると、カミューは優美に微笑んだ。
「すみませんが、ビクトール殿。こいつを部屋に運ぶのを手伝っていただけませんか? わたし一人では少々荷が余りますので……」
「お、おう」
やや気乗りしなさそうに、それでもビクトールが寄ってくる。
「知らなかった……こいつ、酒乱か……?」
「そういうわけでもないと思うんですが」
カミューは薄く笑って首を振る。
────しくじった。
マイクロトフの前にいると、自分を繕うことを忘れてしまう。ついつい、言わなくてもいいことを洩らしてしまう。
それだけ心が安らいでいることの証なのだろうが、この直情男には秘密にしておかねばならないことは幾らでもあるのだ。
ずっと一緒に居たいと心から思っている。だが、死が一緒に訪れるとは、神ならぬ身には断言できない。
人として生まれた以上、いつかは土に還る日が来る。ならば、ほんの一瞬でも愛する男に遅れたくない。彼の最期を見届ける役目を果たすほど、自分は強くないと思うから。
面倒だとばかりにビクトールの肩に担ぎ上げられたマイクロトフは、安心したように目を閉じていたが、その頬はまだ濡れていた。あるいは彼は、カミューの胸のうちを感じているのかもしれない。その不安が酒の力を借りて爆発したのかもしれなかった。
「ほらよ」
マイクロトフの部屋に着いて、ビクトールは大きな男をベッドに投げると、ちらりとカミューを見た。
「珍しいモンを拝ませてもらったぜ。けどよ、カミュー……」
ビクトールの目は深い色合いだった。
「こいつの気持ち、少しわかるぜ。残されるってのはいつだって、決して気分のいいもんじゃねえ。こいつのためにも……おまえも自分を大事にしてやんな」
彼が滅びた村の数少ない生き残りであることを思い出し、カミューは目を細めた。そして丁寧に礼を取る。
「……心にとめておきます、ビクトール殿」
「じゃな、おやすみ」
「ええ。ありがとうございました」
男が出ていくと、カミューはマイクロトフのベッドの端に腰を下ろした。精悍な顔立ちが、泣き疲れて眠った子供のように歪んでいる。微かな痛みを覚えて、彼はそっと男の唇にくちづけた。
「すまない、でもわたしは……これだけは譲れない」
けれど、最期の一瞬までマイクロトフのために生き延びる努力をすることは約束できる。
マントと肩当てを外し、男の横に潜り込んだ。酒のせいか、いつもよりもはるかに熱い男の体温を噛み締めるように目を閉じる。
「頼むから────わたしより一瞬でも長く生きてくれ」
眠る男は答えなかった。
二日酔いにもかかわらず、いつものように早朝から起き出したマイクロトフは、傍らに眠るカミューに驚いたように目を瞬いたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。 しかし途端に頭を貫く鈍い痛みに顔をしかめる。
「最悪の気分だ……飲み過ぎたか……」
その呻きに目を覚ましたカミューが、半覚醒の掠れた声を掛ける。
「二日酔いだろう。見た目ではわからなかったが、昨夜はかなり出来上がっていたからな」
「そうか? ああっくそ、何も覚えてないぞ」
「────覚えていない方がいいかもな」
大泣きした上に酒場のテーブルをひっくり返し、あまつさえカミューに抱きついて喚き散らしたことなど、記憶にないならそれに越したことはない。
「おれたち最後に、何を話していたんだ……?」
「どうしてそんなことを聞く?」
「何だか……」
マイクロトフは切なげに眉を寄せた。
「ひどく哀しい言葉を聞いた気がする────」
カミューは一瞬目を見開いたが、すぐにしっとりと笑いながら首を振った。
「────気のせいだよ、マイクロトフ」
覚えていないならありがたい。
忘れてしまって欲しい。これはわたしが一人で胸にしまっておくはずだった願いなのだから。
────けれどこれだけはおまえに誓う。
命の終わる最後の一瞬にさえ、わたしが想うのはおまえだけ。聞いていたいのはおまえの声、感じていたいのはおまえの体温。
魂となっても愛していると、最後におまえにそう告げたい。
────それくらいの我儘は、許してくれるだろう?