ミューズ領内最北、ハイランドとの境界を分ける関所の壁の手前に設えられた新・同盟軍の陣。
天空にぽっかりと浮いた月に見守られた天幕のうちにて兵たちは夜明けを待っていた。敵本国へと攻め込む終局を間近に、不可思議なまでの静謐が陣地を包んでいる。それは長く過酷だった戦火の日々を思い、且つ、明日の死闘に備えるための束の間の安息であるのかもしれない。
全軍を集結しての野営である。散らばる天幕は膨大な数に及ぶ。盟主の少年が休む天幕は要人らのそれによって厳重に守られていた。時折訪れる歩兵の足音が暗がりに滲むばかりの穏やかな夜更けであった。
その一画、最も関所に近い位置に置かれた天幕では大柄な青騎士団長が落ち着きなく幕内をうろつき回っていた。
黒髪を掻き毟り、入り口を見遣っては溜め息を洩らす。日頃の泰然は何処へやら、自身の姿を思えば自嘲の笑みさえ零れ出すほどに待ち侘びていた───この世で見つけた唯一の人を。
「御邪魔するよ」
艶やかな真紅を纏った青年が幕布を柔らかく揺らした。そのまま入り口に立ち尽くす優美な肢体を見ると同時に 耐え難いほどの思慕が溢れるのを止められなかった。
「カミュー……」
喉の奥深く呟くと、マイクロトフは足早に歩を進めて青年を腕に迎え入れようとしたが、彼はするりと身を交わして幕内に侵入を果たした。宙に浮いた両手に呆然とし、それから振り返ってみると、カミューは興味深げに内部を見回していた。
「側近たちはどうしたんだい?」
おもむろの質疑に憮然としつつ低く応じる。
「他の天幕で休んでいる」
「部下を追い出すとは酷いな」
「追い出した訳ではない」
いつもながらの軽い揶揄に紅潮せずにはいられない己の未熟を恥じ、けれど生真面目に説いた。
「その……、彼らが気を遣ってくれたのだ。おまえと話す機会を持った方が良いのではないかと」
するとカミューは薄く笑い、初めてマイクロトフに瞳を合わせた。
「ならば尚更感心しないね。私事で部下を煩わせるなど、騎士団長としてあるまじきことじゃないか」
懐を探り、取り出した紙片をひらひらと翳しながら大袈裟に首を振る。
「ロックアックスに居た頃から、こうしたものは数多く頂戴したものだけれど……初めてだよ、副長経由の付け文というのは」
それから堪え切れなくなったのか、カミューは朗らかに笑い出した。
「色恋沙汰に疎いという噂は聞いたが、本当だったんだなマイクロトフ」
やれやれと空を仰ぎながらマイクロトフは嘆息した。

 

───確かにカミューの言う通りだ。
これほど胸を締め付けられるような想いは知らなかったし、心のすべてを伝える言葉も浮かばない。
こうして己を揶揄っては形良い唇を綻ばせる青年をどれほど愛しく思っていることか───どれだけ欲していることか。

 

「仕方がなかろう? おれはまったくおまえに近寄らせて貰えないのだから」

 

 

十五年の離別を経て一つの信念の許に集った青・赤両騎士団。
様々な確執をいっときに消し去るのは不可能だと初めから覚悟していた。青騎士団員の方はともかく、赤騎士団員は彼らを敵として定義する薫陶を長く受けてきたのだから。
それでも赤騎士団が新同盟軍に加わってからというもの、両者の距離は急速に縮まった。別の道を歩んできたとは言っても、もともと掲げる信念に大きな差異があった訳ではなかったし、互いの武力への敬意は蟠りを払拭して余りある力だったからだ。
歩み寄りのさなか、決戦を前に盟主が体調を崩し、新同盟軍は進軍延期を余儀なくされた。その間の訓練や魔物退治といった他愛ない日常が更に両騎士団員の親睦を深めるのに役立ったのは怪我の功名といったところか。
けれどマイクロトフはただ一人、この恩恵から除外の一途を辿っている。やむを得なかったとは言え、自団長を斬られた遺恨は相当に深いらしく、赤騎士の彼を見る目は厳しい。
本拠地の城において二人の騎士団長の私室は隣り合わせに設えられた。これからは望むときに想い人と交流を温められると喜んだのも束の間、カミューの部屋の前には常に赤騎士が陣取り、容易に扉を開こうとしない。
その厳重な警戒が赤騎士団独自の慣習かと最初は思った。しかし、副長づてに聞いたところ、どうやらマイクロトフにだけ払われる儀式らしいのである。
逐一用向きを尋問されては閉口した。重要案件の伝達に限っては速やかに入室を許されるものの、何気ない語らいを希望すれば即座に『カミュー様はお疲れです』の一言で一蹴されてしまう。
こう言われると実に弱かった。何しろ瀕死の重症を負わせた負い目が未だマイクロトフの胸には燻っているのだ。押し通ることも叶わず、すごすごと引き上げる日々が続いた。艱難辛苦を経て、漸く傍らに生きる現実を得たというのに、これはあまりに惨い試練であった。

 

 

消沈しながら説明するとカミューは小首を傾げて苦笑した。
「……何だ。いつまでたっても忍んで来ないから、てっきりその気が失せたのかと思っていたよ」
軽口に、即座に顔を赤らめて身を乗り出す。
「そんな筈がなかろう! おれはいつだって一緒に居たい、おまえが欲しくて堪らないのに……!」
「───大声で言うな」
顔をしかめて遮り、カミューは簡易寝台の一つに腰を下ろした。やれやれといった様子で肩を竦め、次第に抑え難いように身を震わせる。
「穏便に押し通る方法を教えてやろうか? 『約束がある』、そう告げれば赤騎士はすぐに道を開けただろうに」
マイクロトフはぽかんとして、それから深刻な顔で腕を組んだ。
「そうか……それは気付かなかったぞ」
「本当に手の掛かる男だね、夜這いの手筈まで整えてやらないと駄目なのかい?」
挑発的な琥珀が煌めき、その輝きに魅せられたマイクロトフは青年の横に並び座る。間を置かず、掠め取るようなくちづけを施すと、甘い唇が低く言った。
「この戦いは好機となるだろう。わたしの部下は安易に位階に跪こうとはしない男たちだからね。青騎士団を束ねるだけの力を見せてやれ、それ以上に彼らにおまえという人間を認めさせる手立てはない」

 

マチルダ騎士団領が新同盟軍の勢力下に落ちると同時にミューズ領も放棄して自国内に退いたハイランド軍。
けれどそれは必ずしも同盟軍の絶対優勢を意味する訳でない。大国ハルモニアの助勢を得て、膨れ上がった戦力を持ちながら本土決戦に臨む王国軍の意図は計り知れない。あるいはこれまでの戦いが単なる前哨であったかの如き苛烈な一戦となることは疑いようもなかった。

 

「……但し、無理はするな。おまえの行動にやきもきするのは御免だからね」
揶揄するように付け加えられた言葉に潜む気遣いを悟り、苦笑う。
カミューは既に熟知しているのだ。戦場にて沈着の働かぬマイクロトフの情熱、望みを成し遂げるに真一文字の性情を。
「善処する。共にロックアックスへと戻り、騎士団を再興するまで、死ぬに死ねない身体だからな」
それからたいそう迷った挙げ句、小声で言い添えた。
「……果たしていない望みもあるし……」
聞くなりカミューは吹き出した。愛しくてならぬような眼差しでしみじみと男を見詰め、なめらかな指先で頬を撫でる。
「馬鹿正直な青騎士団長殿───今はこれで満足しておくがいい」
そうして回された優しい腕がマイクロトフの逞しい背を抱き締めた。
温かな体温、濡れた吐息。平安の褥で再びこの肢体を掻き抱く一瞬のためにも、何があろうと生きて勝利すると誓わずにいられなかった。
「ところで……、わざわざ愚痴を聞かせるために呼びつけたのかい?」
甘やかな抱擁を解いて問うたカミューに慌てて首を振り、幕内隅に置かれた荷を漁りに立ち上がった。拾い上げたのは携帯用の水筒である。
緩い弧を描いて自らの手に落ちたそれを凝視し、栓を抜いて芳香を確かめた後、カミューは眉を寄せた。
「……決戦前に?」
「たいした量ではない。寝酒くらいは構わなかろう?」
依然堅い面持ちを崩さぬ青年に不安を覚えてマイクロトフは頬を歪めた。
「酒は嗜まない質だったか?」
するとカミューは不敵に唇を綻ばせた。
「知る機会もなかったろうが……わたしは笊だよ。この量では寝酒にもならないな。今後、酔わせてどうこうと企んでいるなら無駄だよ、マイクロトフ」
身も蓋もない言いように呆然としている間にカミューは注ぎ口に唇を寄せた。優美な姿に似合わず喇叭飲みで酒を流し込むと、仄かに笑む。
「……どうやら好みは合うようだ。それとも、これも副長情報かい?」
「違う、おれの愛飲している品だ」
差し出された水筒を同じように傾け、喉を滑り落ちる灼熱を堪能する。
たかだか酒の好みが重なったことがこんなにも喜ばしい。カミューを一つ知るたびに、胸に広がる熱は沸き立っていく。
戦が終われば、静かな夜に二人向き合い、想いを絡めながら酒を酌み交わす日々も訪れる。知らなかった互いの過去を語り分け、共に生きる未来を描き出すのだ。
「早くマチルダに戻りたい」
独言のように洩れた響きを耳に止めたカミューは続きを促すように注視を続けた。
「そうして長く分かれていた道を一つに纏め、新たな秩序を築く───前にビクトール殿が仰って下さったのだ、おれたち二人なら過去の騎士団よりも更に素晴らしい組織が築ける、と」

 

そうして彼はカミューと並んでロックアックスの街に立つ自身を思った。
戦いのさなか、十五年ぶりに踏み入った故郷の街。冬枯れた物悲しい色合いに満ちていた街路は、傍らの青年の存在によって鮮やかに色彩を変えるに違いない。

 

感慨を柔らかに遮ったのは優しい声だった。
「気付いているかい、マイクロトフ?」
「……?」
「わたしたちはほぼ入れ替わりでロックアックスに暮らした。わたしの知らない歳月をおまえが、おまえの知らない歳月をわたしがあの街で過ごした。二人合わせると、およそ一人分の記憶になるよ」
マイクロトフは目を見開き、すぐに破顔した。

 

───やはりそうなのだ。
カミューは分かたれた己の半身、如何に望もうと取り戻せない日々を埋めて余りある伴侶なのだ。
いつか記憶のすべてを溶け合わせ、互いを知らずに送った歳月を消し去れたらいい。

 

「……共に生きよう、これからはずっと」
厳粛に口を吐いた宣言にカミューは艶やかに頷いた。改めて与えた水筒を一気に呷り、それから返杯を求めて手を出したマイクロトフにやや困惑げな表情を見せる。
「どうした?」
「あ、いや……」
口籠り、彼は幾分申し訳なさそうに肩を竦めて息を吐く。
「───すまない。空になってしまった」
「何っ?」
奪い取る勢いで筒を取るが、逆さにしても涙粒のような酒が滴るばかりだ。
確かに元々たいした量は入っていなかった。が、せめてあと数回は香しい酒薫を楽しめると思っていたのだ。唖然として見遣った先で、カミューはそっぽを向いたまま薄茶の髪を撫で付けている。
「一口くらいは残しておいて欲しかったぞ、カミュー……」
「だから言っただろう、笊だと。最初から杯に分けて出してくれれば良かったんだ」
澄まし顔で平然と嘯く青年に暫し呆然とした後、マイクロトフは大きく溜め息をついた。
「……ならば口移しで返してもらっても構わないな?」
 するとカミューは笑みながら背を正した。マイクロトフを魅了してやまない琥珀の瞳が凛然と言い放つ。
「おまえにしては気の利いた逆襲だ。許可するよ、心ゆくまで賞味してくれ」
好ましい酒の香りに包まれた唇に触れる束の間に、マイクロトフは心底思った。

 

───どんな美酒であろうと敵う筈もない。
この先、自身を酔わせるのは慕わしい想い人ただ一人。
今ひとつ素直でない、意地っ張りな伴侶こそが己のすべてを焼き付くす陶酔なのだと。

 

 


もとは二度目の夜這い成立を目論んで
書き始めた後日談でしたが、
時期を戦い前にしちゃったばかりに
自制が発動してしまいました。
やっぱ前はマズイっしょ、赤的に。

次はいける……と思うのだけれど。
この話の赤、青には妙に強気だったので
どうなることやら。
……というあたりで、完結しておきます(笑)

 

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